湊川の戦い

左から新田義貞・楠木正成・高師直・足利高氏/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

湊川の戦いで南北朝の勇将たちが激突!尊氏・師直・義貞・正成 それぞれの正義とは

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正成 700騎の小勢で16回も突撃

湊川の戦い】で投入された戦力はいかほどだったのか?

『太平記』では、

北朝(足利軍)50万
vs
南朝(楠木軍+新田軍)5万

という、とんでもない数字になっています。

「足利軍が楠木軍+新田軍よりも遥かに多かった」ことの比喩であり、実際は両軍合わせて1~2万とか、その程度だったのではないでしょうか。

勝敗は、準備の時点で決したも同然でした。

水軍(海軍)も整えてきた尊氏らに対し、正成や義貞はその用意ができず、陸一本!で立ち向かおうとしたのです。

しかも、兵数では尊氏のほうが圧倒的ですから、水陸両方で徐々に包囲を狭められれば、南朝方に打つ手はありません。

こうした敵方の動きに対し、義貞は「ここじゃ勝てない」と判断、一時撤退します。

戦術の天才である楠木正成も、こうなるとさすがに持ち堪えられるものではありません。

そもそも彼が単独で経験した戦は籠城戦や市街戦が多く、野戦が得意とはいい切れないところがあります。

しかも知悉しているわけでもない土地柄では、分が悪すぎる。

それでも最後の意地というべきか――戦場に残った正成は、最後まで足利軍に勝負を挑んでいます。

実に、700騎という小勢で16回も突撃を敢行したとか。

当時の騎馬は現代の戦車みたいな立ち位置ですし、止まったら囲まれておしまいなので、短時間に何度も往復して敵兵を削ったのでしょう。

3時間ほど奮戦した頃には、楠木軍は73騎にまで減っていたといいます。付き従う歩兵を含めたとしても、210人前後といったところ。

当然負傷した者も多く、他ならぬ正成が傷を負っていたとされます。

そして「もはやこれまで」と覚悟を決めた正成は、一族と共に民家へこもり、自害しました。

この最期の戦いぶりが凄まじかったため、千早城・湊川の地名とともに「楠木正成」の名は語り継がれることになりました。

明治時代になって建てられたのが湊川神社(楠公さん・大楠公)です。

 

「義貞のアホが逃げたせいで正成が死んだ」のか?

湊川の戦いの結果を受け、

・義貞のアホが逃げたせいで正成が死んだ

と指摘されることがあります。

それは短絡的な見方ではないでしょうか。

不利な状況で潔く死ぬのも確かに美学なのかもしませんが、不利を悟ったら、機会を改めて勝利を求めるのも冷静で立派な戦術でしょう。

もしも義貞が正成と共に討死していたら、上方における後醍醐天皇方の戦力はほぼゼロになってしまうところでした。

ましてや現代のようにリアルタイムで連絡が取れる時代ではありません。

再起に賭けて単独離脱というのは、あながち誤判断とは言い切れないのではないでしょうか。

湊川以外での新田義貞がどんな言動をしていたか?というと、眼の前の命惜しさで逃げるタイプとも思えません。

例えば鎌倉攻略のときにも、苦戦していた味方の援護に自ら動いてもいました。

さらにこの後も「ここで俺死ぬから!」と言い張っていたところ、家臣から「アンタがいないとダメだろ! はよ逃げんかい!」と叱咤され、無理やり逃げさせられたという話もあります。

その家臣は身代わりに亡くなったそうですから、義貞の人望も窺えるでしょう。

鬼切鬼丸を振るって奮戦する新田義貞/wikipediaより引用

つまりは義貞や正成が悪いとか能力が不足していたわけではなく、味方の得手・不得手を考えた上で配置したり作戦を採ることができなかった後醍醐天皇が圧倒的にマズイ。

倒幕の際も、後醍醐天皇は軍事的指揮を取っていません。

隠岐島に流されていて、その後、中国地方へ逃げていたので仕方ないですが、当時、護良親王に軍事指揮を任せていたように、湊川でもそうすればよかったのでしょう。

そもそも尊氏の讒言を容れず、護良親王を手元に留めておけば、義貞・正成・顕家と共に尊氏を討てる可能性だってあったはず。

後醍醐天皇は、才能と忠誠心を併せ持つ人材に恵まれていたのに、肝心のところで本人の希望的観測が強くなりすぎて、ほとんど判断を間違える。なんとも哀しい状況です……。

湊川の戦いを経て南北朝の状況はどうなったのか?

尊氏=光厳上皇=北朝方の勝利に終わり、ここから後醍醐天皇=南朝方が大勢をひっくり返すことはありませんでした。

新田義貞や北畠顕家などは早々に討死してしまった上、その後、正成の息子や義貞の息子たち、そしてやっぱり生き延びていた北条時行などがしばらく活動し続けますが、大きな成果を挙げるには至りません。

いくら武将たちが優秀でも、それを指揮するトップが無能であれば、組織は機能しない。

そんな好例とも言えるかもしれません。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
かみゆ歴史編集部『完全解説 南北朝の動乱』(→amazon
森茂暁『南北朝の動乱 (戦争の日本史8)』(→amazon
ほか

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