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【北条政村】
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「村」を継ぐ者
政村は「時」の流れからは外れましたが、名前にはもう一字あります。
「村」です。
建保元年(1213年)5月に【和田合戦】が起こり、和田一門が滅亡すると、三浦一族における三浦義村の宗主としての立場が盤石となりました。
和田義盛は、もともと三浦義明長男・杉本義宗の息子であり、一族内で非常に力を有していました。
三浦義村に一族宗主の座は譲っていましたが、発言力は抜群。
義盛は多くの御家人からも支持されていました。
そんな和田義盛が滅びたことにより三浦一族における義村の立場が強まったのですね。
同年末、北条政村は9歳で元服を遂げ、四郎政村と名乗りますが、このとき烏帽子親をつとめたのが三浦義村であり、彼から「村」を継ぎました。
藤原定家の日記『明月記』において、義村は前漢の張良、陳平に例えられた上でこう記されています。
義村の八難六奇の謀略、不可思議の者か。
何かにつけ策士だとされる三浦義村からすれば、義時五男の後見役となることは政権内での自身の地位を高め、相互利益になる一手でした。
権力の高みにのぼるにつれ、多方面から敵意を抱かれる義時にとって、愛する我が子を守る手立てとなったのです。
そんな両者の意図が一致して、三浦義村が烏帽子親となったのでしょう。
おそらく伊賀の方(のえ)も心強かったと思われます。
承久の乱そして父の死
時は流れて建保7年(1219年)1月27日、鎌倉幕府を揺るがす大事件が起きます。
源実朝が公卿に暗殺されたのです。
なぜ公暁は叔父の実朝を暗殺したのか?背景には義時の陰謀があった?
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しかも事件もようやく落ち着いたであろう2年後の承久3年(1221年)、今度は【承久の乱】が勃発。
このとき、京都守護の伊賀光季は後鳥羽院の誘いを拒み、攻め殺されました。
伊賀光季の母は二階堂行政の娘であり、北条義時継室・伊賀の方(のえ)の姉妹にあたります。伊賀の方(のえ)はじめ伊賀一族は、さぞかし憤りを覚えたことでしょう。
【承久の乱】は、後鳥羽院ら京都方が、北条義時の鎌倉方に憤っていたことが一因として考えられています。
そこで鎌倉と京都が一致団結するため、京都に縁があり伊賀の血を引く北条家当主がいてもよいのでは? と考えられてもおかしくはありません。
浮上してくるのが、京都と縁深い伊賀一族の血も引く北条政村です。
跡継ぎになるのは北条政村とすべきか、それとも北条泰時か?
結論を出すべき北条義時は、伊賀の方(のえ)との間に最後の子となる女児(一条実雅室・後に唐橋通時室)を授かるという嬉しい出来事もありながら、元仁元年(1224年)6月13日に急死します。
享年62。
直前まで活動記録があったせいか。突然死んでしまった北条義時の死因については、伊賀の方(のえ)による毒殺説が当時から囁かれていました。
そうかと思えば後鳥羽院を島流しにした祟りとも噂されます。
かように諸説ありますが、年齢からして病死は何ら不思議ではなく、『吾妻鏡』には「脚気」と「霍乱」を患っていたことが記されてます。
それは一体どんな病気なのか?
詳細については以下の記事をご覧いただくとして、
史実の北条義時は一体どんな最期を迎えたのか? 死因は意外なアノ病気だった
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義時が相続に際して残した問題を考えてみましょう。
・義時は後継者を指名していなかったようだ
・伊賀の方(のえ)及びその一族は確かに不穏な動きをしていた
・ちらつく三浦義村の影
北条義時が没した時、長男の北条泰時は京都にいました。
そして一報を聞きつけるや急遽鎌倉へ。
大江広元に向かって「執権の座を目指すのは早すぎるのではないか?」と尋ねると、そこで恐るべき事態を聞かされます。
北条泰時が、弟の北条政村を討ち果たそうとしている! 我々の手で守るべし!として伊賀一族が集まってきているとのこと。
伊賀一族は、北条泰時が執権となることに怒っていました。
まぜまら伊賀の方(のえ)が、娘婿・一条実雅を鎌倉殿とし、政村を執権に据えようとしていたのです。
北条にとっては危機的な状況でした。
伊賀氏を率いる伊賀光宗は【承久の乱】で討たれた光季の四歳下の弟であり、泰時と同世代。
外祖父・二階堂行政の死後、政所執事(別当に次ぐ二位)となっていました。
伊賀一族が政村の後ろ盾にいるとなれば危うい。
しかし血で血を洗う抗争は避けるに越したことはない。
ここで尼御台こと北条政子が動きます。
伊賀氏の変
政村の後ろ盾には三浦義村もいます。
政子は女房一人だけをつけ、自ら義村の元へ向かいました。
そして疑惑を究明します。
「近頃ここに伊賀一族が出入りしているそうですね。鎌倉を騒がせている原因はここにあるのですか? どういうことなの?」
「実は伊賀氏に陰謀がありまして……」
「何を言うのですか、次の執権は太郎泰時です!」
政子は泰時こそが次の執権であると強く言い聞かせます。
これには義村も折れ、伊賀光宗の説得に向かうしかありません。
泰時、広元、政子、そして義村へ繋がる一連の動きにより、伊賀氏の計画はついに粉砕、関係者も処分されました。
将軍に擁立されかけた一条実雅は、公卿であるため京都に処断を任され流罪へ。
伊賀の方(のえ)は伊豆北条へ流されると、心労のためか、配流後間も無く没します。
光宗は政所執事を罷免され、信濃に流される。
流血はない穏当な処断でした。
しかもここで政子はさらなる温情を見せます。
「四郎はまだ若いのだから、寛大に扱いましょう」
伊賀一族の多くが鎌倉を追われる中、政村は残され【伊賀氏の変】は終わったのです。
義時の妻・伊賀の方(のえ)はなぜ伊賀氏の変を起こしたか?
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穏当な処断は「泰時執権」時代らしいスタートと言えるでしょう。父の義時とは異なり、流血を回避する時代が訪れたのです。
命を奪われてもおかしくない状況で、伯母と兄の温情で助かった若き政村。
弟・実泰とともに北条に忠義を尽くす人生となります。
弟・実泰は政村と同じく伊賀の方(のえ)を母としており、承元2年(1208年)に生まれていました。
しかし、この事件のショックに耐えきれなかったのか、27歳という若さで嫡男に家督を譲り、出家してしまいます。
時尚という弟もいましたが、生没年未詳であり、かつ活躍は記録されていません。
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