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【建武の新政】
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後醍醐天皇を補佐した三人の公家たち
理想と現実の折り合いをつけようとせず、トップの間違った判断で無茶苦茶となってしまった建武政権。
それでも支えようとした人もいました。
特に、建武の新政を補佐した三人の公家を【三房】といいます。全員の名前に「房」の字がついていたからです。
彼らのことも、少し見ておきましょう。
・北畠親房(村上源氏)
『神皇正統記』の著者としても知られている人です。
建武の新政に対しては批判的でしたが、後醍醐天皇の信頼は厚く、天皇崩御後の南朝を主導していくことになります。
余談ですが、後に織田信長の次男・織田信雄が婿養子入り(という名の乗っ取り)する戦国大名・北畠家のご先祖様でもあります。
前述の北畠顕家はこの人の長男。
この父子についてはそれぞれ個別記事がありますので、気になる方はそちらも併せてご覧ください。
北畠顕家~花将軍と呼ばれる文武両道の貴公子は東奔西走しながら21の若さで散る
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・万里小路宣房(藤原北家勧修寺流)
雑訴決断所を任されましたが、後醍醐天皇が吉野に行った後は従っておらず、その後の万里小路家は北朝方についています。
他には『万一記(万里小路一品記・宣房卿記)』という日記を書き、家の地位を高めています。
・吉田定房(藤原北家高藤流)
後醍醐天皇が幼い頃に乳父となり、その後も鎌倉幕府への使者を務めるなど、側近中の側近ともいえる人です。
後醍醐天皇に対しては、やはり親心めいたものを持っていたのでしょう。
正中の変の際は幕府への申し開き、元弘の乱では六波羅探題への密告をしました。後醍醐天皇の身を案じるからこそ、穏便な方針を取りたかったのではないかと思われます。
おそらく、後鳥羽上皇のような「配流先での無念の死」をさせたくなかったのでしょう。
建武の新政では恩賞方や雑訴決断所を任されましたが、その後の動きには不明確な点があります。
ちなみに「徒然草」の著者・吉田兼好(兼好法師)とは同姓ですが、血縁関係はおそらくありません。
そして、お気づきでしょうか。
三人のうち一人は途中離脱、一人はよくわからん行動をし、後醍醐天皇の崩御後まで南朝にいたのは一人だけだということに……。
中枢扱いの人間ですらそれなのですから、下や地方は言わずもがな。
また、建武の新政が始まって一年ちょっと経った建武元年(1334年)には、あの有名な【二条河原の落書】で、庶民(仮)からもボロクソに言われています。
ついでに言うと、北畠顕家が最後の戦いに赴く前に後醍醐天皇に宛てて書いたとされる痛烈な文書「北畠顕家上奏文」でも、おそらく建武の新政の頃を指すと思われるアレコレについての記述があります。
要は、民衆からも貴族からも指示されていないことをやり続けていたわけです。
尊氏は建武政権から遠ざかっていた?
一方、足利尊氏は勲功第一とみなされながらも、建武政権の重職には任じられませんでした。
この状態は世間に「尊氏なし」と呼ばれ、不可解に思われていたようです。普通、一番功績の大きかった人が中央政権で一番エライ役職につきますものね。
もちろん何も貰っていないわけではなく、官位と後醍醐天皇の諱から「尊」の字、それから多くの土地の地頭に任じられています。
また、尊氏はダメなときはまるっきりダメな人ですが、この頃は割とキレッキレな時期だったことから、
「後醍醐天皇のやり方じゃ絶対うまくいくわけない」と考え、わざと建武政権の中に入らなかった
とも指摘されています。
中先代の乱が起きたときには、弟を助けるために後醍醐天皇に無断で出兵したりもしていますしね。
「御代は物狂いの沙汰としか思えず」
そんなこんなで、後醍醐天皇を支持する勢力は楠木正成ら「三木一草」と、尊氏の対抗馬になった新田義貞など、ほんのわずかになってしまいました。
しかし、主に後醍醐天皇の配置ミスや見栄により、彼らはたった数年間で次々に討死・自害。
さらに後醍醐天皇本人も延元四年(1339年)に崩御してしまいました。
他の人達からすれば、戦力が激減した上にさんざん混乱の種を蒔いた当人がさっさとあの世に行ってしまったわけですから、やるせないにも程があるというものです。
ちなみに、当時の有様について、三条公忠(きんただ)という公家が日記『後愚昧記(ごぐまいき)』でこんな風に記しています。
「後醍醐天皇の御代は“物狂いの沙汰”としか思えず、先例になるとは到底考えられない」(意訳)
三条公忠は、建武の新政当時まだ10歳前後。
後愚昧記を書いたのはそれから30年近く経った後のことです。
既に記憶が曖昧になっていたはずですが、それでも「あの頃はサイテーだった」と書きたくなるほどだった……ってどんだけなんですかね。
周りの人が酷評されているのを複数回聞いて、悪印象が強まったのかもしれませんが。
公忠は従一位内大臣まで上っています。
つまりは当時の最上流階級の一人にボロクソ言われていることになるわけです。
さらにいうと、公家の日記というのはただの愚痴の掃き溜めではなく、子孫が読んで仕事の参考にすることを前提にしています。
公忠はおそらく
「天皇とはいえ、臣下が諌めないとトンデモナイ事をやり出すこともあるから気をつけろよ」
というような教訓を込めて、こんな文を残したのでしょう。
反面教師としては素晴らしいかもしれません。
これは与太話ですが、現代的な価値観を後醍醐天皇や建武の新政に当てはめるとすれば、エディプス・コンプレックスやコンコルド効果のようにも思います。
エディプス・コンプレックスは思春期の少年が父を超えようとしてアレコレやる心理のこと。
多くの人は幼少期から両親に「◯◯をしてはいけない」と言われて育ちますが、後醍醐天皇の場合はそれが成人どころか30歳を過ぎて即位してからも続いたのですから、その抑圧や反発が常人よりもはるかに強かったであろうことは推して知るべしといったところ。
そしてコンコルド効果は「ここまでコストをかけたのだからもう引き下がれない」という、“もったいない精神”がマイナスに働きすぎることをいいます。
後醍醐天皇は皇太子になった頃から父・後宇多上皇の圧力を強く受けており、それに反発して親政や倒幕、そしてその後の政治を主導することに強くこだわりました。
後醍醐天皇が認めてほしかったのは貴族や世間ではなく、後宇多上皇だったのではないでしょうか。
そして後宇多上皇が没してからは自尊心や建前から引き下がれなくなり、かえって身近な公家や武士を死に追いやる結果になったように見えます。
いずれにせよ、それに振り回された公家も武家も民衆も気の毒でなりません。
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長月 七紀・記
【参考】
伊藤喜良『後醍醐天皇と建武政権 (読みなおす日本史)』(→amazon)
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)