頼朝と義経の対立

源頼朝と源義経/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

頼朝はなぜ義経のやらかしを許せなかったか? 軽視はできない安徳天皇の怨霊

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頼朝が義経を排除したのは怨霊を恐れたから?
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承久の乱:怨霊的にも危険だった

源氏将軍がわずか三代で断絶したあと、幕府において執権を担った北条義時

その彼が直面した苦難であり、人生のクライマックスと言える戦いが【承久の乱】です。

乱そのものの経過は以下の記事に譲り、

承久の乱
承久の乱~なぜ後鳥羽上皇は義時へ戦を仕掛けたのか 鎌倉幕府を舐めていた?

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怨霊観点で振り返ってみましょう。

まず、過去の怨霊傾向からして、最大のものは天皇となるでしょう。

崇徳天皇安徳天皇の怨霊がまことしやかに信じられていた時代、義時にとって、後鳥羽上皇順徳天皇を敵に回すのは非常に恐ろしいことでした。

結果的に鎌倉方が勝利を果たしたとはいえ、怨霊観点からするとそうではない。

【承久の乱】のあとには、さながら東西怨霊合戦となります。

京へ攻め込むことに積極的であった大江広元北条政子が亡くなると、盛んに「祟りだ」と京都で喧伝される――あわてて鎌倉が否定する――そんな事態が続きます。

しかも、流刑にあった後鳥羽上皇は怒りを抱いています。

崇徳天皇ほどおとなしい性格ではない上皇は「見てろよ、いつかリベンジしてやるからな!」と怒りを募らせていたのです。

後鳥羽上皇
なぜ後鳥羽上皇は幕府との対決を選んだ?最期は隠岐に散った生涯60年

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崇徳天皇の場合、側近が怨霊の噂を流したわけですが、後鳥羽上皇はセルフプロデュース型怨霊ということです。

それゆえ、ややこしいことが起きています。

後鳥羽上皇は文才にあふれ、カリスマ性、スター性がある。

そんな彼が罵倒するために書いた文言が実に素晴らしいため、当時の文筆家はこう思いました。

「これは素晴らしい。『保元物語』にも取り入れよう。崇徳天皇の呪う文言に使えるじゃないか!」

かくして『保元物語』には、後鳥羽上皇の文言と共通する言い回しが出てくるようになったのです。

これを受け止めた側はこうなります。

「そうか……きっと崇徳院も、後鳥羽上皇のように怒り呪い苦しんだんだろうな」

時系列的にはとてもややこしいですよね。

強烈すぎる後鳥羽上皇の印象が時代を遡り、崇徳院の怨霊描写にまで反映されてしまった。

【承久の乱】で敗れた順徳院も、怨霊化を望みました。

もちろん北条側は無視したいところですが、そうもいきません。しぶしぶ慰霊を行うことになっています。

とはいえ、崇徳天皇に対する後白河院ほど熱心ではなく、そのことは私たちの反応からわかるかと思います。

崇徳天皇と聞けば怨霊伝説を連想しませんか?

大河ドラマ『平清盛』でも井浦新さんが強烈な姿を見せました。

一方で後鳥羽天皇や順徳天皇はどうでしょう?

『鎌倉殿の13人』で尾上松也さんが凄まじい怨霊化をするかどうか。

そこも注目ポイントですが、そうはならないのでは?と考えています。

正面切って素直に怨霊になるよりも、芝居っ気たっぷりに演出するのかもしれません。

 


大河ドラマで学ぶ怨霊誕生

『鎌倉殿の13人』は、興味深い現象が起きていました。

放映後、SNSで「全部大泉のせい」という言葉がトレンド入りしていたのです。

このトレンドは発生源が辿れます。

小栗旬さんです。

発端の小栗さんは、現場の雰囲気を和ませるためか、マスクに文字を書き込んでいました。

それがテレビで放映されてファンも使うようになり、記事化もされています。

◆「鎌倉殿」悲劇でトレンド「全部大泉のせい」の語源 「頼朝嫌い」小栗も怒り大泉もらい事故(→link

◆大泉洋「♯全部大泉のせい」でついに国民の“嫌われ者”に!エンタメ界のど真ん中で見せる磁力(→link

記事から該当部分を引用させていただきますと……。

なお「全部大泉のせい」の出典は、NHK番組で大泉が明かしたもの。

現場で主人公・北条義時役の小栗旬が頼朝の非情さに怒り、現場で使用しているマスクに「感情移入し過ぎて、全部大泉のせいと書かれた」と明かしたことから。

今後、多用されるワードとみられる。

「今後も多用」と指摘されるほど。

結果、大泉さん(の演じる頼朝)は国民の“嫌われ者”になってしまった。

この流れを怨霊伝説で考えれると、こうなります。

発端の誰かが呪詛の文言(ここでは「全部大泉のせい」)を印象的なもの(ここではマスク)に書き込む

その文言が何らかのきっかけ(この場合はテレビ)で拡散する

人々がその文言を唱えるようになる

そして定着……

現在の私たちは「全部大泉のせい」というトレンドを笑って受け止めることができます。

しかし、こうした流れを知らない誰かが何年か後、こう誤解することはありえます。

「そうか、大泉という人物が全ての元凶だったのだな……」

こんな流れが生じることにより、怨霊伝説は出来上がっていった。

かつては何十年も何百年もかけて構成された伝説を、私たちは早回しで経験しているのかもしれません。

崇徳天皇の怨霊が強烈に思えるのは、それだけ後白河天皇や【保元の乱】に関わった周囲が、大きな罪悪感を抱いていたからでしょう。

しかし時代の流れと共に、怨霊を信じる気持ちは薄れ、やがて消えてゆきます。

それが人の自然な感情です。

豊臣秀吉も、徳川家康も、自らを神としました。

菅原道真のように怨霊を鎮めるために神とされたのではなく、偉業と権力ゆえにそうしたのです。

そんな秀吉を祀った神社を徳川は破壊しました。

幕末には、日光東照宮に対して高杉晋作らが苦々しい思いを吐き捨て、明治政府も破壊しようとしています(明治天皇の反対により実現せず)。

こうした怨霊や神への態度を見ていくと、日本人の意識の変化も見えますよね。

怨霊とは何か?

いると信じればいるし、信じなければ生じない。

要は、人の心が生み出している。

頼朝にとっては、いつまで経っても苛まされる状況が続いてしまうかもしれません。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
山田雄司『跋扈する怨霊』(→amazon
五味文彦『殺生と信仰――武士を探る』(→amazon

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