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【北条時行】
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北朝の光厳天皇が即位
非常に危ういバランスで成り立っていた両統迭立による諸問題。
こうした状況の中で、西園寺公宗はなんとか地位を高めようとしました。
そして、北条氏の生き残りの一人・北条泰家を匿います。
彼は高時の弟ですので、北条時行にとっては叔父に当たる人物。鎌倉脱出に協力していたともいわれており、北条時行と公宗&上方との間に接点ができました。
公宗と泰家は、
「後醍醐天皇を暗殺し、持明院統の後伏見法皇を立て、その後新しい天皇に即位していただこう。我々はその後見となるのだ」
という計画を立てます。
ちょっと関係がややこしくなってきましたので、あらためて当時の皇統を整理しておきましょう。
前述の通り、当時の皇位は、持明院統と大覚寺統の二つの系統からおおむね交互に受け継いでいくことになっていました。
ですが、延慶元年(1308年)に大覚寺統の後二条天皇が急死したところから、少々イレギュラーが起きます。
後二条天皇の後は持明院統の花園天皇が皇位に就いたため、これまでの順番を守るのならば、後二条天皇の皇子が皇太子に立つべきでした。
しかしその該当者である邦良親王がまだ幼く、花園天皇が早く亡くなった場合の懸念が拭いきれません。
そこで、邦良親王の祖父(後二条天皇の父)だった後宇多天皇と、当時はまだ存在していた鎌倉幕府の間で、
「ならば、邦良親王が無事成人なさるまでの間に、”中継ぎ”として即位していただく方を、大覚寺統の中から選びましょう。後二条天皇の弟君である尊治親王がふさわしいのではありませんか」
ということになりました。
この”中継ぎ”として即位したのが、尊治親王改め後醍醐天皇です。
そして文保二年(1318年)、後醍醐天皇が即位したとき、皇太子は邦良親王に決まりました。しかし……。
後醍醐天皇はその後、邦良親王への譲位を拒否。
そうこうしているうちに邦良親王が嘉暦元年(1326年)に病死してしまったため、順番が少々変わります。
当初の予定では、邦良親王が即位した際に、持明院統の後伏見上皇の皇子・量仁親王が皇太子になる予定でした。
しかし邦良親王が亡くなったため、後醍醐天皇が皇位についている間に、量仁親王が繰り上がる形になったのです。
そこまでは良かったのですが、その後、元弘元年(1331年)に元弘の乱(後醍醐天皇が倒幕を計画していたことが幕府にバレた事件)が起きてしまったものですから、さあ大変。
後醍醐天皇は【三種の神器】を持って御所から逃亡し、兵を募って倒幕を強行しようとします。
しかし、幕府軍を相手に敗北。
そのまま捕らえられ【承久の乱】の後処理にならって隠岐島へ流罪となりました。
ここで皇位継承に幕府も介入し、
「後醍醐天皇は廃位、量仁親王に即位していただく」
となって一旦決着。
量仁親王は光厳天皇として即位し、後伏見上皇が院政を行うようになりました。
後醍醐天皇を暗殺計画
光厳天皇の皇太子には、邦良親王の皇子・康仁親王が立てられました。
もともと後宇多天皇の意向で、
”後醍醐天皇はあくまで中継ぎであり、その息子たちには皇統を継がせない”
ということになっていましたので、後二条天皇の系譜に戻すのは当然のこと。
しかし元弘3年=正慶2年(1333年)、後醍醐天皇はまたもややらかします。
隠岐島から脱出し、京都に戻って
「光厳天皇の即位は認めない。私がこれから未来の先例となる新しい政治形態を作り、私の子孫が皇位を継いでいくのだ!」
などと言い出したのです。
建武の新政はあまりにお粗末「物狂いの沙汰=クレイジー」と公家からもディスられて
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こうして、後伏見上皇と光厳天皇は無理やり引きずり降ろされ……後伏見上皇が出家して法皇になったのはその後のことです。
本当に後醍醐天皇は凄まじくアグレッシブな方です。
しかし、後醍醐天皇に反感を持つ公家も少なくありません。
公宗の場合は先述の通り、別の理由も多々ありますが、”反後醍醐”な姿勢は同じであり、そこで立案されたのが後醍醐天皇の暗殺計画でした。
公宗は泰家から北条氏の生き残りについて詳しく聞いていたらしく、後醍醐天皇暗殺の後、誰をどこに配置するかまで計画していたようです。
その中で、東国の責任者候補として名を挙げられていたのが北条時行。
建武二年(1335年)6月に暗殺計画を実行しようとしました。しかし……。
暗殺の実行前に、後醍醐天皇へ密告した者がいました。
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