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【平賀朝雅】
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北条政範、平賀朝雅邸で没する
悲劇とは……?
時政とりくの長男であり、北条家の嫡男でもある北条政範(ほうじょうまさのり)が亡くなったのです。
鎌倉では、源実朝の妻として坊門信清の娘・信子を迎えることになっていたのですが、その使者として京都へ出向いたのが政範。
晴れの舞台であり、京都でお披露目をする意味もあったのでしょう。
しかし元久元年(1204年)11月5日、北条政範は突如亡くなってしまいます。
享年16。
没した場所は平賀朝雅邸でした。
もしかして誰かに討たれたのか――?
当然ながらそこが気になりますが『吾妻鏡』では「病気に苦しみながら旅をしていた」とされ、病死という見解になっています。
しかし、病気がちな息子を京都に送り出すでしょうか。
仮に政範が健康体であったなら、16才で急死するような病気など、ほとんど考えられないはず。
となれば、何が怪しいか?って、亡くなった当日、平賀邸で酒宴が行われ、平賀朝雅と畠山重保(重忠の子)が諍いを起こしていたことでしょう。
坂東武士、しかも武蔵の者同士、酒が入ってお互いに気に入らない、誹り、罵り合う――怒り心頭となって刀を抜き……というのは、誰でも想像してしまう気がします。
なんせ政範の遺骸は、仏事もろくに行われぬまま処理されてしまったばかりか、このとき亡くなった武士は政範と他にもう一人いたという記録もあるほどです。
もはや、これで病死と考える方が不自然かもしれません(ドラマでは平賀朝雅が毒を盛った設定)。
実際、政範の死に納得がいかなかったのでしょう。
時政とりく(牧の方)の怒りの矛先は、死の直前に朝雅が口論した相手である畠山重保とその父・畠山重忠に向けられます。
ただでさえ不穏な状況であった武蔵の御家人たち。
元久2年(1205年)、政範の死後、不満が鬱積していた時政とりく(牧の方)は畠山重忠・重保父子を討つよう北条義時と北条時房に命じます。
激しく躊躇しながらも、断りきれない二人。
かくして畠山父子は命を散らします(【二俣川の合戦】)。
重忠の首を見た義時は、涙がこらえきれませんでした。
そして義時と時房、さらに姉の北条政子は、時政とりく(牧の方)と決定的に対立。
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囲碁の石を数えて退出し、首となって戻る
畠山親子が亡くなり、北条時政が鎌倉を追い出され、平賀朝雅はどうなったのか?
それまでの朝雅は、京都で破格の待遇を受けていました。
元久元年(1204年)には平氏残党の【三日平氏の乱】を鎮圧、伊勢・伊賀守護職に任じられています。
殿上人にもなり、後鳥羽院の覚えもめでたく、順調な出世街道を走っていました。
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もしも政範や重忠に何もなければ、京都志向の強い時政とりく(牧の方)にとって自慢の娘婿であり、さらなる出世を続けていたことでしょう。
しかし、この二人が失脚した今、もはや事態は激変。
北条義時、大江広元、三浦康信、安達景盛らが集い、こう決めました。
京にいる平賀朝雅を討つべし――。
時政失脚の5日後、鎌倉からの使者が京都に入りました。
何も知らぬ朝雅は仙洞御所で囲碁の会に参加。
そこで使者と応対した朝雅は、囲碁を中断して立ち上がり、戻ってくると自分の目を数えます。
「関東から、私を討つ使者が参上しました。もはや逃げられますまい。お暇(いとま)をいただきたく存じます……」
後鳥羽院にそう奏上する朝雅。
そして自邸に戻り、逃亡の末、射殺されたのです。
前述の通り元久2年(1205年)7月26日のことで、享年24と伝わります。
討たれた平賀朝雅の首は、後鳥羽院が実検したと伝わります。
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