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【正長の土一揆】
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正長の土一揆 正長元年(1428年)
そうした土一揆の中で、一番最初に起きたのが【正長の土一揆】でした。
時は、正長元年(1428年)8月から永享元年(1429年)7月にかけて。
当時の社会情勢としてはこんな感じです。
状況其の一 足利将軍家の事情
五代将軍の足利義量(よしかず)が早世し、出家していた父の四代将軍・足利義持が復帰して仕事をしていました。
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しかし、この年の1月に義持も体調を崩し、年齢的にも40代で当時の寿命が見え始め、「次はどうするんだ」という空気が漂います。
それでも義持は「どうせ俺が死んだら遺言なんて無視するんだろ。ケッ」(※イメージです)という理由で後継者を決めておらず、管領以下の幕臣たちは困惑しておりました。
権力を手放さないまま責任を放り投げるとかマジ勘弁。
そんな頃です。
状況其の二 天候と社会現象
前年から天候不順の凶作で農家の収入が減っていた上に、「三日病(みっかやみ・おそらくインフルエンザか風疹)」の流行などで働き手が減り、かなり厳しい状況に追い込まれていました。
どちらも自然現象ですから、仕方のないことではあります。
しかし、近現代まで、こうした天災の類は
「お偉方の政治が良くないから、天罰が下されているんだ! 俺らにとっては迷惑なんだから、お偉方が責任を取るべき!」
と受け止められることがほとんどです。
近江の馬借から始まり、コワモテ興福寺すらも認める
こうした中でまず8月に、近江坂本や大津の馬借(馬を用いた運送業者)が徳政を求め、それが京都・奈良に広まりました。
洛中では借書を焼き捨てるわ、質に出した物を取り返しにくるわで、かなりの混乱。
似たようなものに江戸時代の「打ちこわし」がありますが、やってることはだいたい同じです。
打ちこわしは都市部の住民が庄屋相手に起こす場合が多いなど、細かな違いはありますけれども。
室町幕府は管領・畠山満家や、侍所所司・赤松満祐に命じて兵を出させ、一揆を収拾しようとしました。
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残念ながら武力による収拾はできず、一揆勢も幕府から徳政令をもぎ取ることができなかったので、このときは双方痛み分けというところでしょうか。そして……。
実際には借書の破棄と質を取り返した一揆勢の勝ちであり、他の地域へも広がっていきました。
京都以外の近江・大和・河内・摂津・播磨では、国内を対象とした徳政令が出されています。
特に大和では、国内のほぼ全てを荘園化していた興福寺が徳政令を認めており、着目すべきでしょう。
興福寺といえば、延暦寺と同じくらい朝廷に対して強訴(神木や神輿を担いで無理に自分たちの主張を押し通す)をしていたお寺です。
歴史や伝統もあるんですけれども、悪い事のほうが印象に残るのは仕方ありません(´・ω・`)
「朝廷には強気に出られるのに、土一揆には下手になった」というのが興味深いですね。
公家が武力で押してくることはほとんどありませんが、民衆は何をするかわからないからかもしれません。
僧兵が民衆をブッコロしてしまったら、お布施の出処を失うことにもなりますものね。
また、前述の通り、正長の土一揆については興福寺の門跡寺院・大乗院の記録『大乗院日記目録』に
「このたび民衆が蜂起した。これは日本の国が始まって以来初めてのことである」(意訳)
と記されていることも見逃せません。
もしもこれが本当ならば、それまでの日本人は相当温厚というか、世界的に見て大人しすぎる民族と言えるかもしれません。
中国の歴代王朝末期には、だいたい民衆を含めた大乱が起きていますし、朝鮮半島でも元寇がらみで農民の反乱が起きています。
日本の農民たちはそれまでの社会的地位が低すぎて「団結して行動する」という概念がなかったのでしょうか。
盗賊の記録はこれ以前からちょくちょく見られますので、全ての日本人が善良だったとはいえません。
何はともあれ、こうして日本史上初の民衆蜂起である「正長の土一揆」は、一揆勢にとっておおむね成功といっていい成果を得ました。
そして、この結果を受けて、各地で土一揆が頻発するようになっていきます。
代表的なものをあと二つご紹介しましょう。
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