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【正長の土一揆】
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播磨の土―揆 正長二年(1429年)
国一揆(地元の有力者=国人が起こした一揆)とされることも多いのですが、こまけえこたあいいんだよということで。
播磨の住民が、赤松満祐(後に【嘉吉の変】で六代将軍・足利義教を暗殺する)軍の退去と、荘園代官の排除を求めて起こしたものです。
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播磨は赤松氏の本拠でもあり、一揆が起きたというのは不名誉なことでした。
そもそも満祐と四代将軍・足利義持は仲が悪すぎて、一触即発の状態になったとき、戦に備えようとした満祐が地元で大量に兵糧をぶんどったのが原因だとされています。
つまり身から出た錆(ノ∀`)アチャー
上記の通り、満祐は正長の土一揆の鎮圧にあたったことがありましたので、急遽地元に帰ってこれを収めています。
それ以外のエピソードが伝わっていないので、播磨の一揆勢はさほどの力がなかったのかもしれません。
ここでもし満祐の首まで取れていたら、室町時代中期以降の歴史は大分変わっていたでしょう。
嘉吉の土―揆 嘉吉元年(1441年)
「嘉吉の徳政一揆」とも呼ばれます。
【嘉吉の変】で六代将軍・義教が暗殺されたため、
「将軍が代替わりするのはめでたいことなんだから、徳政をするべき!」
と考えた京や近江の馬借・農民・地侍が起こした一揆でした。
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地侍が一揆勢を取りまとめ、余計な略奪をしないよう、ある程度の規律が保たれていた、という話が残っています。
この辺は江戸時代【天明の打ちこわし】ともちょっと似ていますね。
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嘉吉の土一揆については、将軍不在という緊急時でもあり、幕府が折れて農民限定の徳政令を出し、収拾しようとしました。
しかし、一揆勢が「ワシらだけラクになるのは心苦しいんで、お公家さんやお武家さんにも徳政してあげてくださいよ^^」(※イメージです)と要求。
ときの管領・細川持之が土倉の持ち主から「お金払うんで、私らの倉を守ってくれませんか」と依頼されていたことが守護大名たちにバレ、幕府の中でも対立が発生してしまいました。
元管領・畠山持国の家臣も一揆に加わっていたため、持国は武力による鎮圧を拒否したとされています。
応仁の乱が起きる二十年以上前のことですが、この時点で幕府がgdgdになりつつあることがわかりますね。
まぁ、持国については、そもそもアンタが家臣にちゃんとメシを食わせてやってればよかったんじゃね?とも思ってしまいますが、この後、持国が起こしたお家騒動のせいで、応仁の乱の最初の戦闘が始まってしまいます。
両方とも赤松満祐が多少なりとも絡んでいる……というのがなんともですねぇ。
満祐は気性が激しい上に楽観主義なところがあったので、為政者に向いていないタイプだったと思われます。
うまくやっていける女房役がいれば、なんとかなったかもしれませんが。
★
一揆は他にも【国一揆】や【一向一揆】などがあります。
詳細は以下の記事をご覧ください。
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長月 七紀・記
小久ヒロ・絵
【参考】
国史大辞典「土一揆」
一揆/wikipedia
正長の土一揆/wikipedia