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【藤原秀康】
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伝家の宝刀「院宣」
後鳥羽院は伝家の宝刀「追討の院宣」を出します。
「院宣があれば、逆賊北条になぞ味方する者はおりますまい」
まだ何も始まっていないのに、それだけで上皇方は意気軒昂。
すっかり調子に乗った三浦胤義も付け加えます。
「兄の義村は“烏滸ノ者”(頭がおかしい・愚か者)なので、日本国総追捕使の地位をちらつかせれば裏切るでしょう」
それにしても、胤義はなぜここまで強気になれたのでしょう。
義村が相当な野心家だったから?
普段から身近にいて、そう思えた?
いずれにせよその意見を受け容れた後鳥羽院は、義時追討の院宣と官宣旨を携えた使者・押松を鎌倉に向けて出発させました。
同時に、押松とは別の使者も出され、こちらは三浦義村を訪ねます。
むろん、義村を朝廷陣営へ誘うためですが、その書状に目を通した義村は、使者を追い払うと、すぐさま北条義時と北条政子に京都の動乱を知らせ、二人に無二の忠誠を誓います。
鎌倉では押松の捜索が始まり、これを捕縛。
かくして京都の陰謀は事前に察知されてしまうのでした。
藤原秀康と三浦胤義だけは許すな
朝廷の院宣を見た鎌倉幕府は動揺します。
北条義時が朝敵とされていたからです。妻の伊賀の方(のえ)も怒り狂ったことでしょうが、そこで立ち上がったのが北条政子でした。
御家人たちを奮い立たせる名演説を行い、必ず討ち果たすべき者として二名を挙げたのです。
三浦胤義と藤原秀康は、なんとしても討ち果たすべし――。
藤原秀康は鎌倉方の怒りをぶつけられる筆頭の存在となってしまった。
とはいえ、いきなり敗戦の将という感覚はないでしょう。
我々は結果を知っているから、いつも敗者の将たちを甘く考えてしまいがちですが、そもそも勝敗の要素となる力関係が測りきれないからこそ合戦となるものものです。
それは【承久の乱】とて全く同様で、政子の演説後、幕府も頭を抱えていました。
京都から攻めてくる敵を迎え撃つか?
それとも進軍するか?
相手には院宣もあるばかりか、三浦義村と胤義のように、同族で鎌倉と京都に分かれている者もいる。
京都までという長距離を行軍するには馬や兵糧の問題もあり、決してラクではないどころか、敵の勢力圏内に近づけば不利は避けられない。
百戦錬磨の義時ですら、迷いました。なかなか踏ん切りがつかない。
大江広元が出撃すべきと訴え、高齢で自邸にいた三善康信にも意見をうかがいます。
「グズグズなさっているのは遺憾。将軍一人でも出立なさるべきでしょう」
宿老二人の意見を聞き、鎌倉は動きます。
義時の子・北条泰時が意を決して出撃したのです。
まだ一枚岩でもない鎌倉方でしたが、義時の子である泰時が自ら先頭に立って出陣したことにより、流れは大きく幕府へ傾きます。
雪崩れ込むようにして、坂東武者群が京都へ。
そんな激流を迎え撃つ大将軍が、藤原秀康と弟の藤原秀澄でした。
しかし果たして京都では、どれだけ戦争のことを実際に起こりうるものとして想定していたのでしょう?
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