後三年の役

後三年合戦絵詞/Wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

後三年の役~頼朝の高祖父・義家を「武士のシンボル」に押し上げた合戦を振り返る

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ジャーン!ジャーン!げぇっ、源氏!

家衡と清衡はさっそく秀武への協力を決定。

村を一つ焼き払い、真衡の本拠に迫りました。

真衡は弟たちとすぐ戦おうとしましたが、家衡と清衡のほうが上手で、秀武との合流のため一時兵を退きます。

永保三年(1083年)に起きたこの騒動が、後三年の役の始まりとされますね。

そして、このタイミングで【前九年の役】のときもこの地にやってきていた源義家が新しく陸奥守になり、東北へやってくるのです。

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用

真衡は、義家おもてなしのため、国府(県庁所在地みたいなもの)だった多賀城(現・宮城県)へ出向き、本拠地出羽を留守にします。

チャーンス!
と思った家衡・清衡は、すかさず真衡の本拠を攻めました。

しかし、さすがに真衡も警戒していて、家臣たちには留守中のことを事前に言いつけており、戦いは真衡サイドの勝利に終わります。

しかも真衡が、源義家と国府の軍を味方につけたため、家衡・清衡は謀反人扱いになるのを恐れて降伏を選びます。

まぁ、こうなれば矛を収めた方が……と思いきや! ここでまたしても話がややこしくなります。

なんと多賀城から出羽へ戻る途中で、当の清原真衡が亡くなってしまったのです。

 


義家、数千騎の軍で出陣!したが……

現代でも、財産分与等が決まっていないうちに被相続人が亡くなると面倒なことになりますよね。

このときも似たようなものでした。

とりあえず国守である源義家が間に入り、真衡個人の所領を半分ずつ清衡と家衡に与えることにします。

これを不服としたのが家衡でした。

「清原氏の嫡流である家衡」ですね。

なんと彼は、義家に訴えるとか、清衡との話し合いも持たず、いきなり攻撃を仕掛けて清衡の妻子をブッコロしてしまいます。

清衡は何とかして逃げ延び、義家に助けを求めました。

そして義家、数千騎の軍で出陣!

『後三年合戦絵巻』(金沢柵付近 1087年) /wikipediaより引用

『後三年合戦絵巻』(金沢柵付近 1087年) /wikipediaより引用

歴史に輝く源氏の棟梁・源義家。

その登場により、さしもの東北勢もあっという間にバッサリ――とはなりません。

北国の寒さも影響して、出羽の沼柵を攻めた義家は負けてしまうのです。

 


兄のピンチに弟・義光がやってきた!

古今東西、合戦で勝った方にはあっちこっちから味方がやってくるものです。

このときの家衡には、叔父である清原武衡が話を持ちかけました。

「源氏のヤツらに勝ったのは武門の誉れ! この際、金沢柵に移って、上方勢を完全に撃退しようぜ」(※イメージです)

金沢柵とは?

現在の秋田県横手市金沢中野付近にある軍事拠点で、難攻不落の要害として知られておりました。

ここを最初に押さえておけば、後に、清衡・義家軍が大軍でやってきても容易には落とされない。

彼等にはそんな自信がありましたが、一方の源氏も負けておりません。

源義家の弟・源義光(新羅三郎)が、わざわざ中央での官職を辞してまで、兄の救援(金沢柵攻め)にかけつけたのです!

いやぁ、胸アツですね。

系図を貼っておきますのでよろしければチラ見してください。

後に、源義家の子孫から源頼朝源義経が出て、さらに途中で枝分かれして足利尊氏も出る。

源義光の子孫からは武田信玄を輩出。

源氏一族の武士属性がハンパじゃないことが一目瞭然でしょう。

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