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【後三年の役】
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今度は源義家が謀反を起こされかねない状況に
弟・源義光という助力を得た義家たちは、金沢柵を攻めました。
しかも、この頃はポピュラーではない兵糧攻めを実行します。日本史上初ともいわれています。
元々、この時代の時間感覚は現代よりもかなり長いものです。
清原清衡&源義家・義光軍も、長い時間をかけて金沢柵を包囲しました。
兵糧攻めをされた方としてはたまりません。
女子供の中からは降伏を願い出てきた者も多かったようですが、義家は迷った後、攻略を優先しました。
降伏してきた者を皆殺しにしたのです。
柵内にもその様子は知られ、降伏する者は出なくなり、柵中では食糧が尽きました。
結果、家衡と武衡は自ら柵に火を放って逃げましたが、どちらも程なくして首を取られています。
こうして後三年の役は清衡・義家軍の勝利!
となったのですが、戦後処理は前九年の役ほどうまくいきませんでした。
というのも、前九年の役は「地元の豪族が税を払わないので、中央から軍が向けられた」という戦いでしたが、後三年の役は朝廷からすると「地元の争いに義家が勝手に介入しただけ」というものだったからです。
しかも、後三年の役の間に中央へ収めるべき金などを送らず、勝手に戦費にしていたため、これもお咎めを受けました。
そりゃ、税金を横領して自分のやりたいことに勝手に使っていたわけですから、マズイですよね。
義家はこのため、10年ほどの間、朝廷から冷遇されました。
また、収めるはずだった税や金を朝廷に「払ってね^^」と言われ続けています。
自業自得ともとれますが、ここで義家にとって頭の痛いことがもう一つ。
部下への恩賞です。
この頃の武士は「恩賞をもらって働く」ことを原則にしています。
命がかかっているのですから、それ相応の領地なり特権なり、金品・米をもらわないと割に合わないわけです。そりゃそうだ。
あまりにも支払いが遅れると、今度は義家が謀反を起こされて殺されかねません。
自腹で恩賞を払った義家の支持率が急上昇!
そこで義家は、私財から恩賞を出します。
戦後に懐が寒くなるのも厳しいものですが、命が狙われるよりはマシと思ったのでしょう。
しかし、何が幸いするかわかりません。
これが結果的に武士たちへ好印象を与え「義家様は、働いたことにきちんと報いてくれる」と思われるようになったのです。
かくして前九年の役同様、東国武士たちは源氏に好印象を持ちました。
これがやはり後の源頼朝による幕府創建を助けることになります。
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なお、この戦で一番得をしたのは、清原清衡でした。
彼は争う相手がいなくなったことにより、清原氏の所領を全て相続し、実父の姓である藤原を名乗るようになります。
これが奥州藤原氏の始まりです。
つまり、奥州藤原氏は源氏の助けを得て興った家だということになります。
それが選択を誤り、約100年後、源氏の後裔・頼朝に滅ぼされてしまうのですから、皮肉というかなんというか。
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その源氏も三代で絶えてしまいますし、ホントに諸行無常な話です。
奥州藤原氏の詳細について、あるいは前九年の役をおさらいしたいという方も、以下の関連記事をどうぞ。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『決定版 図説・源平合戦人物伝』(→amazon)
後三年の役/wikipedia