永治元年(1141年)4月20日は、日本に臨済宗を伝えた僧侶・明菴栄西(みょうあんえいさい)が誕生した日です。
「えいさい」「ようさい」はまだ確定していないようなので、皆様お好きなほうで脳内変換をお願します。
本日はこの鎌倉仏教の主要人物が、どのような経歴を持っていたのかを見て参りましょう。
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吉備津神社の権禰宜だった賀陽貞遠の息子
栄西は、吉備津神社(きびつじんじゃ・岡山県加賀郡)の権禰宜(ごんねぎ)である賀陽貞遠の子として生まれました。
権禰宜は神職の一つです。
会社に例えれば、
宮司(ぐうじ)が社長
権宮司(ごんぐうじ)が副社長
禰宜(ねぎ)が部長
権禰宜(ごんねぎ)が係長
くらいでしょうか。
栄西は幼い頃から頭が良かったようで、7歳の頃には仏教の注釈書などを読んでいたといわれています。
そして14歳で延暦寺に入り、仏の道を歩み始めます。
その後、他の寺も渡り歩き、天台宗の教義を学んでいきました。
しかし、修業を続ける中で仏教のあり方に疑問を持つようになります。
当時の延暦寺は僧兵も増えてきており、少しずつ物騒な組織になりはじめていたからです。敬虔な僧侶である栄西が、違和感を覚えるのも無理のない話ですよね。
天台宗のため禅の要素を取り入れ
27歳のとき天台宗を立て直すため、宋(当時の中国)へ渡って勉強しようと考えました。
当時は平家の全盛期。
栄西も平家の庇護を受けて渡海しています。
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宋では禅宗が盛んになっており、栄西も「禅の要素を取り入れれば、天台宗のためになる」と考えて禅を学びました。
禅を俗っぽく表すと「より宗教的な意味合いのある瞑想」という感じでしょうか。
座禅を基本とするのも、心を落ち着かせて悟りを開くため……というのが始まりだったのでしょうね。
また、禅における「悟り」とは、「自らの心の中にある仏性に気づくこと」をいいます。
さらに「仏性」とは、「言葉や理屈を超えたものを認知すること」を指す……そうです。わかりやすいところでいえば、神仏や霊魂の存在、あるいは言霊などでしょうか。
これらを目指して心静かに考えることが禅の本質であり、座禅や考案(問答)によって悟りを目指していくわけです。
インドへの渡航は叶わず、宋で臨済宗を学ぶ
こうして禅を一通り学んだ栄西は、一度帰国して再び宋に渡り、仏教発祥の地・インドへも渡りたいと願い出ます。
しかし許可が出ず、引き続き宋の寺院で学びました。
一口に「禅宗」といっても、当時の中国では5つの派があったのですが、栄西はその中でも臨済宗を選んで深く学びます。
新しい宗派を作ったのではなく、元からあった宗派を学んで日本へ伝えたので「開祖」ではないんですね。
それがエラい・エラくないということにはなりませんし、栄西自身にもそういう観点はなかったことでしょう。
4年の後、教義を広めるレベルになったことを認められて日本へ再度帰国した栄西は、いよいよ布教に乗り出します。
ちなみに栄西は喫茶の習慣を広めたことでも有名ですが、お茶の木の種を持ち帰ったのは、二回目の帰国のときでした。
お茶は公家だけでなく武士や庶民まで広まっていきましたが、禅宗はそうもいきません。
いつの時代も、新しい物事をやろうとすると邪魔が入るものです。禅を広めようとした栄西を、古巣の天台宗がよく思いませんでした。
そのため栄西は比叡山には戻らず、九州でお寺を作って禅を広めることにします。
しかし他宗派との融和も諦めず、57歳のとき『興禅護国論』という本を書いて、
「禅は今までの仏教を否定するものではない」
「禅は仏教の根本に立ち返るために必要なもの」
と説いています。
また、真言宗についても学び、他宗派に理解を持っていることを、身をもって示しました。
この辺から栄西の温厚さというか、平和主義的な点がうかがえますね。
新しい宗教や宗派が出てくる場合、既存のものを全否定するところから始まることも多いですから。しかし……。
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