出師表

絵・小久ヒロ

孔明が上奏した名文『出師表』と『後出師表』には何が書かれてる?

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出師表
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後出師表

出師表は建興6年(228年)に上奏したとされています。

ただ、こちらについては本当に諸葛亮本人が書いたのか、真偽には疑念が呈されています。

主な論点をまとめてみましょう。

◆『三国志』「蜀書」本文中に言及がない/陳寿『諸葛亮集』にもない

ただし、『三国志』そのものに収録できない史料が多いことは指摘されています。

呉の張儼(ちょうげん)『黙記』にのみ収録。裴松之はここから引用したとされています。

魏を露骨に敵視する文言があるからには、収録しにくい状況はあります。

◆まだ生きている趙雲(229年没)が「喪う」の中に入っている

「喪う」が死去ではなく、病気や老齢のため出陣できない状況であった。この程度の差異であれば、考えられることではあります。

◆その他にも、執筆当時の状況に一致しない、固有名詞の誤りや他の資料との不一致点がある

そこはケアレスミスかもしれません。

◆甥である諸葛恪(しょかつかく・呉に仕えた諸葛謹の子)の偽作説あり

こうした真贋論争がある書状として、ひとつ日本での有名な文章にあたってみましょう。

直江兼続の『直江状』です。

直江状も整合性に矛盾点があり、偽作説が囁かれております。

そして現在は

【後世、加筆したと思われる部分はあるが……元となる文書はあったのではないか? 全文が直江兼続のものでないにせよ、彼の手は入っているのでは?】

というところに落ち着いております。

直江状
家康激怒の『直江状』には何が書かれていた?関ヶ原の戦いを引き起こした手紙

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『後出師表』もそういうことかもしれません。

真贋論争は決着がついていないとはいえ、名文であることは確かです。

こちらもまた書き下し文→現代語訳で見て参りましょう。

 

後出師表 書き下し文

先帝は漢・賊の両立せず、王業の偏安せざるを慮(おもんぱか)る。故に臣に託するに賊を討つを以てせり。 先帝の明を以て、臣の才を量るに、故(もと)より臣の賊を伐つに才弱く、敵の彊(強)きを知れり。然れども賊を伐たざれば、王業も亦(また)亡ぶ。惟(ただ)坐して亡ぶるを待つは、これを伐つに孰与(いずれ)ぞ。この故に臣に託して疑わざるなり。

臣、命を受くるの日より寝(い)ぬるに席を安んぜず、食らうにも味を甘(あま)しとせず。北征を思惟(しい)するに、宜(よりし)く先ず南に入るべし。故に五月、濾(ろ)を渡り、深く不毛に入り、日を併(あわ)せて食らう。臣、自ら惜しまざるに非(あら)ざるなり。王業は蜀都に偏全(へんぜん)するを得ざるを顧(かえり)み、故に危難を冒して以て先帝の遺志を奉ずるなり。而るに、議する者謂いて計に非(あら)ずと為す。

今、賊適(たまたま)西に疲れ、又東に務む。兵法は労(つかれ)に乗ず。これ進趨(しんすう)の時なり。

謹んで其の事を陳(の)ぶれば左の如し。

高帝は明なること日月に並び、謀臣は淵深なり。然れども険を渡り、創(きず)を破り、危うくして然る後に安し。今、陛下は未だ高帝に及ばず、謀臣は(張)良・(陳)平に如かず、而(しか)るに長計を以て勝ちを取り、坐して天下を定めんと欲す。これ臣の未だ解せざるの一なり。

劉繇(りゅうよう)・王郎(おうろう)は各々州郡に拠る。安んぜんことを論じ計を言い、動(やや)もすれば聖人を引く。群疑(ぐんぎ)腹に満ち、衆難(しゅうなん)胸に塞がる。今歳(こんさい)戦わず、明年征せず、孫策をして坐(ざ)しながらに大となり、遂に江東を併(あわ)せしむ。これ臣の未だ解せざるの二なり。

曹操の智計は人に殊絶(しゅぜつ)し、その兵を用うるや、孫(子)・呉(起)に髣髴(ほうふつ)たり。然れども南陽に困(くる)しみ、烏巣(うそう)に険(けわ)しく、祁連(きれん)に危うく、黎陽(れいよう)に偪(せま)られ、幾(ほとん)ど北山(ほくさん)に敗れ、殆ど潼関(どうかん)に死せんとし、然る後に一時を偽定(ぎてい)するのみ。况(いわ)んや臣の才弱くして、危うからざるを以てこれを定めんと欲するをや。これ臣の未だ解せざるの三なり。

曹操、五たび昌覇(しょうは)を攻むれども下らず、四たび巣湖(そうこ)を越ゆるも成らず、李服(りふく)を任用するも李服これを図る。夏侯(淵)に委ぬれども夏侯(淵)敗亡す。先帝毎(つね)に(曹)操を称して能と為すも、猶(なお)この失あり。况(いわ)んや臣の駑下(どげ)なるをや、何ぞ能く必勝せん。これ臣の未だ解せざるの四なり。

臣、漢中に到りしより、中間朞(き)年のみ。然るに趙雲(ちょううん)・陽羣(ようぐん)・馬玉(ばぎょく)・閻芝(えんし)・丁立(ていりつ)・白寿(はくじゅ)・劉郃(りゅうこう)・鄧銅(とうどう)等及び曲長(きょくちょう)・屯将(とんしょう)七十余人、突将(とつしょう)、無前(むぜん)、賨叟(そうそう)・青羌(せいきょう)の散騎(さんき)武騎一千余人を喪(うしな)えり。

此れ皆数十年の内に糾合する所の四方の精鋭にて、一州の有する所にあらず。若(も)し複(ま)た数年ならば三分の二を損ぜん。当(まさ)に何を以て敵を図るべけんや。これ、臣の未だ解せざるの五なり。

今、民は窮し兵は疲る。而も事は息(や)むべからざず。事息むべからざれば則(すなわ)ち住(とど)まると行くと労費まさに等し。而るに今に及びてこれを図らず、一州の地を以て賊と持久せんと欲す。これ臣の未だ解せざるの六なり。

夫(そ)れ平らげ難きは事なり。昔、先帝、軍を楚に敗る。此の時に当たり、曹操手を拊(う)ちて、天下以て定まれりと謂(い)えり。然る後、先帝、東は呉越を連ね、西のかた巴蜀(はしょく)を取り、兵を挙げて北征し、夏侯(淵)の首を授けたり。(曹)操の失計にして、漢の事、将に成らんとするなり。

然る後に呉、更に盟に違(たが)い、関羽毀敗(きはい)し、秭帰(しき)に蹉跌(さてつ)し、曹丕、帝を称す。凡そ事は此(か)くの如く、逆(あらかじ)め見るべきこと難し。

臣、鞠躬(きくきゅう)尽力し、死して後已(や)まん。成敗利鈍(りどん)に至りては、臣の明の能(よ)逆(あらかじ)め覩る所にあらざるなり。

 

後出師表 意訳

先帝は、漢王朝と賊の勢力は両立しないとお考えになりました。王業を達成するためには西(蜀)に留まっているわけにはいかないとお思いでした。

だからこそ、私に魏の討伐を託したわけです。

先帝は賢明な方で、私の能力を測った上で、勝利をするためには私はまだ力不足であることと、敵が強大であることもわかっていたのです。

それでも、敵を倒さなければ漢王朝復興はありえない!

私とて、この身を惜しまないわけはありません。

しかし、王業を成し遂げて、ひなびた成都をさらに発展させようと思えば、危険だの辛いだの言っている暇はありません。

ただ滅びるのを待つよりも、こちらから討伐を起こさないといけない、だからこそ、私にこのことを託して疑おうとはしなかったのです。

けれども、これは上策ではないという意見もあるのです。

今日、敵は西では我が軍により苦しめられています。東は、呉の攻勢でこれまた苦しめられてもいる。「相手の疲れにつけ込め!」とあります。今こそ、進撃せねばなりません。

その理由を説明させていただきます。

高祖の聡明さは、まるで空の太陽と月のように輝かしく、家臣たちの策謀は深いものでした。

それでも危機を乗り越え、損害も受け、大変な状態に陥ってからやっと安定を得たのです。

陛下はまだ、高祖には及びません。家臣だって、張良や陳平ほどのものはいない。

それなのに、いつまでもぐずぐずと現実逃避をしていて、何もしないで天下が取れたらいかな程度の気構えでした。これが、私には理解できないことその一。

劉繇(りゅうよう)・王郎(おうろう)は自分の領地を長官として治めていましたね。

そして安全さえ確保できればいいと現実逃避して、すぐに聖人だのなんだのちょっといい話トークをしているだけで何かやったつもりになっていました。

そんなことしても何も解決できずに課題がたまるだけで、スルーばかりする。戦うことをなんやかんやと避けて、先延ばしにして、いつまでたっても戦わない。

だから孫策に即座に負けて、江東を支配されたわけです。これこそ私がわからないこと、その二です!

曹操の知恵と計略は、大したものですよ。

その用兵術は、孫子や呉起を思い出させます。

でも、それなのに南陽で苦戦し、烏巣(うそう)でも危なかったし、祁連(きれん)でもピンチに陥ったし、黎陽(れいよう)は敵軍が肉薄するわ、北山(ほくさん)は敗北するし、潼関(どうかん)では死にかけるし。

そこまで、苦労に苦労を重ねて、やっと天下にリーチをしたわけです。

ましてや才能で劣る私が、ノーリスクで天下を得られるわけがない。

これも私がわからないこと、その三です!

曹操は五回も昌覇(しょうは)を攻めても支配できず、四たび巣湖(そうこ)を越えても呉を得られず、李服(りふく)を任用したのに李服に背かれるし、夏侯(淵)に指揮を任せたら夏侯(淵)は敗死してしまいました。

先帝はいつも、曹操の才能を褒めていましたが、それでもこれだけ失敗しているのです。

ましてや私が常に勝ちを収め続けるなんて、期待されてもできるわけがありません。

これも私がわからないこと、その四です!

思えば漢中を支配して一年ほど。

それなのに、損害はこれだけ膨大なのです。

趙雲(ちょううん)

陽羣(ようい)

馬玉(ばぎょく)

閻芝(えんし)

丁立(ていりつ)

白寿(はくじゅ)

劉郃(りゅうこう)

鄧銅(とうどう)ら

曲長(きょくちょう)、屯将(とんしょう)※部隊長のこと:70余名

突将(とつしょう、突撃部隊)、無前(むぜん)、賨叟(そうそう)、青羌(せいきょう)の散騎(さんき)※異民族部隊、武騎(騎兵)1000人余り

この損失は精鋭であって、益州一州からのみ集めたわけでもないのです。

もしまた数年かかれば、三分の二は失ってしまうことでしょう。

それでどうやって敵と対峙しますか?

これも私がわからないこと、その五です!

もう民は生活苦に喘ぎ、兵は疲れ切っています。もう時間はないのです。もうやめられません。攻めるにせよ、守るにせよ、労力も費用も同じようにかかるのです。

今ここであきらめたら、益州一州だけで敵との持久戦に挑むこととなってしまう。

これも私がわからないこと、その六です!

もちろん天下平定が難しいことはわかっています。

かつて先帝が楚で敗れたとき、曹操はこれで天下が取れたと手を打って喜びました。

けれども、先帝は東の呉越と同盟し、西の巴蜀を取り、挙兵し北へ攻め上り夏侯淵の首をあげたのです。

これぞ曹操の誤算。漢復興が見えてきたのでした。

それなのに、蜀と呉は対立し、関羽は敗れ、先帝もお隠れになり、曹丕が帝位を簒奪しました。天下の流れとは、これほどまでに、まったく予想もつかないことです。

私は、先帝のご遺志を守り抜くため、あらんかぎりの力を尽くします。この挑戦は、死んでから終わるもの。一生涯続くものです。

勝敗がどうなるか、私から述べることは控えさせていただきます。

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