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まり先生の歴史診察室 西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

江戸時代以前の乳幼児死亡率が異常なのはナゼ? 徳川家でも島津家でも子供は多く亡くなった

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大河ドラマ『西郷どん』で、篤姫徳川家定に嫁ぐことになりました。

この家定、生まれは側室腹の四男で、史実においては病気がち。
跡継ぎ候補として、強い立場ではありませんでした。

それがなぜ第13代将軍になれたのか?

答えは、他の兄弟が次々に早逝したからです。
それも男女合わせると20人以上が亡くなる――という現代では考えられないような死亡率でした。

徳川家定/wikipediaより引用

こんな風に記しますと、幕末だけに「暗殺」や「呪い」をご想像される方もおられるかもしれません。

実際、薩摩では、島津斉彬の子供が次々に亡くなり、
由羅の呪詛だ!」
なんて騒ぎ(お由羅騒動)もあったぐらいです。

が、さすがに呪詛ではありません。
江戸時代(とそれ以前の時代)、もともと乳幼児の死亡率は非常に高いものでした。

無事に成人できる男女は5割にも満たなかったのではないでしょうか。

 

明治の統計から見る「乳児死亡率」

いきなり統計の話からはじめます。
我が国では明治32年(1899年)から現在の形での人口動態調査が行われています。

戦時中の2年を除き、比較的きちんとしたデータが残っておりますので、まずはここから見ていきましょう。

統計がはじまった初年度の乳児(生後1年未満)死亡率は153.8/1000人でした。
生まれてきた赤ちゃんの10人に1.5人(約15%)は、1年以内に死んでいるということです。

天然痘やインフルエンザ、はしか、おたふくなど、今もある病気に対して、当時の乳幼児は無力で呆気なく死んでしまいます。
いわゆる疫病がいったん流行ってしまうと、体力のない者から次々に亡くなってしまい、それが死亡率の高さに繋がるんですね(更には生まれついての疾患に対して治療法がなかったことも影響しております)。

実際、人口調査以来、乳児死亡率が一番高かったのは、スペイン風邪(正体はインフルエンザ)が流行った大正8年(1919年)で、その割合は188.6/1000人(約19%)でした。

江戸時代以前、さらに死亡率が高くなったのは間違いないでしょう。

【関連記事】米国発だったのに、なぜスペイン風邪? その正体はインフルエンザでございます

育児環境が良くなり、死亡率が100/1000人以下になったのは第二次世界大戦の少し前あたりで、10/1000人以下、つまり1%を切ったのは昭和51年のことです。
今のアラフォー世代が生まれた頃ですかね。

現在の乳児死亡率は
【1000人あたり2(0.2%)】
と世界最良の水準です。

ちなみに生まれながらに亡くなってしまう【死産率】は明治時代でだいたい10%で、生後28日以内に亡くなる新生児死亡は100/1000人程度です。
ざっくりですが、10人に1人が生後1ヶ月以内に亡くなり、さらに1人が1年以内に亡くなるという計算です。

幼児の死亡率は統計にありませんが、衛生環境や伝染病を考慮すると現在より間違いなく高いでしょう。

ということで最終的に成人まで生きられる割合は6-7割程度と推測。

江戸時代はもう少し死亡率が高く、よくて5割ぐらいじゃないでしょうか。
もっと低いかもしれません。

 

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将軍家の子供事情

では、将軍家の子供事情に話を移しましょう。

冒頭に出てきた家定。
その祖父は子だくさんで有名な徳川家斉です。

一橋家から将軍となった家斉は、お家繁栄のために子作りに励みました。
というかチョット異常なほどです。

まず妻は、正室(1人)の他に側室が40人。
そのうち計16人の女性に53人の子供を産ませております。
国史大辞典では17人の女性に55人の子供

ただし、約6割にあたる32人が5歳までに亡くなってしまうのです。

徳川家斉/Wikipediaより引用

家斉の後を継いだ家慶(家定の父)も似たようなものでした。

正室1人&側室7人に対し、子女が27人(14男13女)。
これだけ子供がいれば病弱な四男・家定に将軍のお鉢は回ってこない……ところですが、いかんせん乳児の時期を生き延びたのが4人で、さらに成人できたのが家定1人です。

つまり幼児期までの死亡率が86%。
これは、さすがに遺伝子的に問題があったのでは?
と思われることでしょう。

江戸時代のことですし
「近親婚で遺伝的に問題のある要素が多かった」
という見方ですね。

そう思って将軍様の生母を確かめてみますと、農家の娘や商家の娘、家臣の娘に正室の侍女と、かなりバラバラ。
女系の血が、複雑に入り組んだ要素は、ほぼ皆無です。

近親率が高くなりそうな(政治的に縁談を組まれがちな)、正室の子は徳川家光ぐらいでした。

うーん、これはどうしたものか。そういや家庭環境を考えると、将軍家や大名家は、庶民の家より生存率が良くなるでしょうしね。
すっかり行き詰まったところで、説得力のある説を篠田達明先生の御著書に見つけました。

徳川将軍家十五代のカルテ (新潮新書)』より引用させて頂きます。

江戸時代に特徴的だったのは白粉(おしろい)の鉛毒である。将軍の乳母たちは鉛を含んだ白粉を使い、顔から首筋、胸から背中にかけて広く厚くぬった。抱かれた乳幼児は乳房を通して鉛入りの白粉をなめる。乳児も白粉を顔や首にべったりぬられた。鉛は体内に徐々に吸収され、貧血や歯ぐきの変色、便秘、筋肉の麻痺などが起こり、脳膜の刺激症状が出ることもある。後遺症として痙性麻痺や知能障害がのこるケースもあった。鉛中毒は将軍の子女のみならず当時の大名や公家など上流階級にはよくみられた疾病だった。

ナルホド、白粉の鉛ですね!

江戸時代の白粉は米粉やカラスウリ、白粉花を原料とした天然のものと、7世紀頃に中国から伝わった鉛を原料としたものがありました。
そして一般的に使われていたのは後者だったのです。

鉛白粉は大量生産できるため、価格が安価な上に、肌への付きと伸びも良い。
化粧効果が抜群なワケですから、女子の絶大な支持を得ていたようです。

明治になりますと、母親が鉛白粉を使っている子の中毒が問題となったり、白粉を常時大量に使う歌舞伎役者の鉛中毒事件が社会問題となったため、以降は鉛フリーな白粉が作られるようになりました。
ただ、昭和9年に禁止されるまで鉛白粉は売られていたとのことで、あー怖い。

鉛中毒に関しては井伊直政の話で触れておりますので、よろしければご参照ください。

井伊直政は鉛中毒だった!? 戦国の火縄銃(種子島)で撃たれたら医学的にどんな死因が考えられる?

 

イモ公方こと徳川家定はどんな人物?

最後に、徳川家定について、もう少し深く掘り下げておきましょう。

大河ドラマ『西郷どん』では、又吉直樹さんが
「少しおかしな人物」
として演じており、気になっている方もおられるでしょう。

家定は文政7年(1824年)、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれました。
母の美津(本寿院)は幕臣の娘とも言われ、大奥に出仕して将軍のお手付きとなります。

家定の兄3人はいずれも2歳までに早生し、家定が世継ぎとなりました。
しかし、彼自身も幼少の頃から病弱で、人前に出るのを避ける子であり、父・家慶が器量を心配。
次の将軍は一橋慶喜にしようかと考えていたくらいですから、あまり優れた人物ではなかったのでしょう。

松平慶永(松平春嶽)に至っては「凡庸の中でも最も下等」と酷評したようで、やはり「いささか問題のある方」だったようです。

文献でも、
【癇が強い、目や口、首が時々けいれんする、言語も吃りがある】
と痙性麻痺(けいせいまひ)を疑わせる記述があります。
日米修好通商条約を結んだハリスの日記にも、不随意運動を示唆する描写がありまして。

篠田先生は、出生時か乳幼児期かに何らかの原因がある脳性麻痺では無いかと推測されています。

この他、幼い頃に思い天然痘にかかって痘痕が残って醜いともありますので、引っ込み思案になってしまうのもしょうがないのかなぁ。

そんな家定は、父が死去した後、29歳で将軍職に就きました。

家定には、将軍就任前に結婚した正室がおりましたが若くして天然痘で死去。
次いで来た継室も嫁いで半年で亡くなってしまいます。

そこで「身体の丈夫な島津の姫を」と、嫁いできたのが篤姫でした。

しかし、元々病弱な家定は将軍職のプレッシャーで体調を崩し、篤姫が来た頃は結婚生活を営むどころではなかった模様です。
これもドラマの描写通りですね。

実際、篤姫の輿入れからわずか1年半後の安政5年7月6日、家定はこの世を去りました。
享年35。
結局、子女には恵まれず、家定の血脈はここで途絶えるのです。

家定のあだ名「イモ公方」は、菓子やふかし芋を自ら作り、部下に振る舞う姿を松平春嶽が揶揄してつけたものです。

しかし今の時代であれば、将軍がお菓子をつくって部下にプレゼントって優しい人物だったと思いません?
あー、でも慶喜を嫌った理由が「自分よりハンサムでムカつく」ってところがイケてないかなぁ。

いずれにせよ
・江戸時代に成人するのがいかに大変だったか
・藩をまたいでの養子縁組がやたらと多ったか
その理由がご納得いただだけるでしょう。

文/馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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【参考】
国史大辞典
徳川家定
徳川将軍家十五代のカルテ (新潮新書)』篠田達明
おしろい/wikipedia
徳川家定/wikipedia
徳川家慶/wikipedia
POLA

 

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