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【『光る君へ』感想あらすじレビュー第14回「星落ちてなお」】
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才女たちの野望と大志
するとここで被衣姿のききょうがやってきました。
たねを見て、あの汚い子は誰かと問うききょう。
文字を教えていると説明すると、「なんと物好きな!」と目を丸くしています。
ききょうのこのリアクションが実に素晴らしい。
ファーストサマーウイカさんを見ていると、どうしてこんなに清少納言にぴったりな役者さんが実在するのだろうと感動してしまいます。本人の魂か、天の意思が選んだような配役ですね。
ききょうは「和歌の会」のダメ出しをしてきました。
よりよき婿を取ることしか頭にない。志もない。己も磨かない。退屈な暮らしと気づく力もない!
ああいう姫たちが一番嫌いなのだと毒づき、まひろが思わず引いていると、あなたも同じでしょ?と突っ込んできます。
「少しは……」
ききょうの勢いに、思わず認めてしまうまひろ。やはりそうでしたか。
ききょうは己の野望を語ります。
宮中に女房として出仕し、世の中を知りたい。まひろの志は何なのか?と問われると、おずおずと、文字の読めない人を少しでも減らしたいと返します。
何言ってんだこの変人はよぉ!
そう言いたそうなききょうは、この国には貴族の何万倍も民がいることをご存知か?と畳み掛けます。
それでもまひろは、諦めたら何も変わらないと返す。
えらいですよね!
彼女みたいな人がもっとたくさんいれば、世の中は変わる。いや、いたからこそ変わったのでしょう。
ききょうはさらりと受け流しつつ、自分の話にしたい。志のためならば夫を捨てると言い切ります。なんでも夫は賛同しないどころか、恥ずかしいからやめてくれと思っているとか。
文章や和歌なぞうまくならなくともよい! 自分を慰める女でいよと!
「どう思います? 下の下でございましょ」
これはききょうやまひろだけでなく、画面の向こうにいる視聴者に投げてきたと思えるほど刺激的な問いかけですね。
まひろが戸惑いつつ、若君のことを気にかけると、息子も夫に押し付けてしまうそうで。
息子にはすまないけれども、私は私のために生きたい。広く世の中を知り、己のために生き、それが人の役に立つ。そんな道を見つけたいと語るききょう。
唖然とするまひろ。
ききょうのこのセリフは素晴らしいですね。
きっと現代のフェミニストに媚びたとかなんとかそういう反応はあるでしょう。
しかし『枕草子』に同様の主張があるので、そこはもう仕方ない。
そしてこの流れを、大石静さんが書くことに大きな意味があります。
かつて大石さんが手がけた大河ドラマに『功名が辻』があります。
大河ドラマは男性向けで戦ばかりとされますが、女性向けの流れもあり、それこそ2作目は『三姉妹』でした。
確立されたジャンルとして、賢夫人ものもあります。
『おんな太閤記』を元祖とする、英雄の横で妻が支えるものです。
これは作品が放送された当時の女性像も関係していて、夫がモーレツ社員(1950年代から70年代に家庭を顧みずに働いた会社員男性のこと)で、妻は家であたたかい食事を作って待っている――そんな理想の家庭像があったときのことです。
専業主婦の妻を励ますような妻の像が、大河の一パターンとしてありました。
弊害として、歴史を捻じ曲げることも往々にしてあります。
『利家とまつ』のまつにせよ、『功名が辻』の千代にせよ、戦国時代当時の像よりもずっと甘い、癒し系にされてきました。
『利家とまつ』の、まつの味噌汁でなんでも解決するパターンはさんざん揶揄されたものです。
ヒロインの作る手料理が奇跡を起こすパターンは、『花燃ゆ』おにぎりの大失敗とともに沈没したと思いたいところ。
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今回、ききょうが激しくダメ出ししたような、癒し系であることだけを求められるようなヒロイン像が大河にもあった。
その典型とされてもおかしくない『功名が辻』を真っ二つに切るようなことをやってのけたのです。
しかも、今日的な価値観だけでなく、当時の清少納言自身の価値観で正面から突いてきました。
爽快です。
同時に、決まりきった退屈なヒロイン像を押し付け、大量生産してきた側の責任も問いたいところです。
こういう大河ドラマが放送され、夫を待つ専業主婦が幸せであったかどうか。
当時の人生相談を見ると、モヤモヤした不満を抱く主婦はそれこそ多かったことがわかります。
そういう女性像に納得できない人が多く、それが理想だと信じ込ませることに失敗したからこそ、今日という社会があるということは考えたいところです。
貧しい少女には文字すら贅沢だ
そうはいっても、なぜ、ここでききょうが爽快だと言えるかということは考えたい――そう言える人は恵まれているというだけのことかもしれません。
まひろはたねを見に行きます。
するとそこには、父・たつじに殴られながら畑を耕す少女の姿がありました。
まひろが名前を呼ぶと、たねが「先生!」と返す。
たつじは憎々しげに、あんたがうちの子に文字を教えていたのか突っかかってきて、余計なことをしてくれたと毒づきます。
うちの子は一生畑を耕して人生を終える。文字なんかいらねえ。
そう吐き捨てながら、さらにこう言います。
「俺らあんたらお偉方の慰みもんじゃねえ!」
まひろは何も言い返せませんでした。
たねが文字を覚えたら、きっと親も喜ぶだろう。
そう信じていたまひろにしても、その努力に呆れていたききょうも、結局、上流階級です。女が知識を得て褒められるだけの恵まれた環境にいました。
しかし、世の中にはたねのような女の方がずっと多い。
そんな環境に置かれた女性はずっといました。日本は歴史的に識字率が高かったなどと言われますが、それも都市部や男性に偏ったことかもしれません。
農村で働いているような女性は、長いこと読み書きもままならずに生きていくしかなかったのです。
そのころ宮中では道隆が、道長の提出する検非違使庁改革案に苛立っていました。
道長は彼なりに考えていたのです。もう直秀のような犠牲者は出したくない。なぜああなったか? 検非違使の権限が強すぎて、罪人を簡単に殺せるような仕組みが悪い。
罪人だろうと尊厳ある処置を求めるため、道長は改革しようとしていたのです。
しかし道隆は、身分ある罪人だろうと時が経てば都に戻るとして相手にしません。
それでも身分が高いものだけが民ではないと食い下がる道長に対し、お前はもう権中納言なのだから下々のことは下々に任せておけと言い放つ道隆でした。
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