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【『光る君へ』まひろ(紫式部)が道長の子を産む展開は史実から見てありなのか?】
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パターン1:母となる女性が別の男性と関係を持っていた
◆始皇帝
中国史における始皇帝が典型例です。
始皇帝の母となる趙姫は呂不韋の寵姫でした。
趙姫の美貌に目をとめた荘襄王が呂不韋に彼女を譲ってくれるように掛け合ったため、呂不韋は彼女が既に孕っていることを隠して、譲ったとされるのです。
始皇帝と呂不韋の関係から逆算したともされますが、始皇帝の誕生時期から現在では否定されます。
中国では始皇帝が暴君とされること。趙姫が嫪アイとの間に子を為したことから、信ぴょう性が高まり流布したと思われます。
始皇帝の生涯50年 呂不韋や趙姫との関係は?最新研究に基づくまとめ
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◆平清盛
白河法皇の落胤と噂された人物がおります。
平清盛です。
『平家物語』では、清盛の父である忠盛は、白河法皇の子を宿した祇園女御を妻として迎えたとされます。
しかし、清盛の母は祇園女御の妹だとする説もある。
平清盛の大出世から逆算して、この関係性が考えられたのかもしれません。
※同じく白河法皇の子と疑われた崇徳天皇については後述
◆斎藤義龍
それを斎藤道三が奪い、妻としたのです。
道三と深芳野の間に生まれた義龍は、実父は土岐頼芸であると周囲に知らしめていました。
父と争い、討ち果たしたため、その罪悪感から吹聴したとも思えます。
とはいえ、本人ですら実父は道三だと理解しており、土岐頼芸説は信じていなかったようです。
パターン2:父となる男性は子が作れないと思われる
◆豊臣秀頼
父である秀吉は、若い頃から多くの女性と関係を結んでいるにも関わらず、子がなかなかできません。
そのため、淀殿が二度も子を為すと、当時から「秀吉の子であるはずがない」と噂になりました。
豊臣秀頼が秀吉の実子でなければ誰の子なんだ?粛清された陰陽師たちの中に……
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パターン3:父の子への態度がおかしい
◆崇徳天皇
崇徳天皇は、父の鳥羽上皇から「叔父子(おじこ)」と呼ばれていました。
子ではなく、実は叔父だという嫌味です。
鳥羽上皇は待賢門院藤原璋子(たまこ)が白河法皇と通じ、生んだ子だと疑っていたのです。
真偽はさておき、そんな噂が宮中を駆け巡っていたことは確かなのでしょう。
よりにもよって帝の妃がいる場所がそんなことでよいのかと思ってしまいますが、『源氏物語』のプロットが通用する証といえなくもありません。
もっとも、崇徳天皇は【保元の乱】にやぶれ、流刑となった悲運の人物ですので、何かの因果であると結びつけたい者が喧伝した結果と考えられなくもありません。
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