『光る君へ』まひろ(紫式部)が道長の子を産む展開は史実から見てありなのか?

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』より/wikipediaより引用)

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『光る君へ』まひろ(紫式部)が道長の子を産む展開は史実から見てありなのか?

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パターン4:諸事情により隠蔽した

◆保科正之

こうした父親不明だった子が、後に「確かに◯◯の子である」と確定することは、極めて少数といえます。

しかし例外がないわけではありません。

徳川秀忠は正室・お江の目を憚り、子を孕んだ女性を遠ざけました。

父母の死後、兄にあたる徳川家光がこの異母弟を探し出し、保科正之を兄弟として認知しています。

 

パターン5:箔付けのため

島津忠久

島津家の祖である島津忠久は、源頼朝御家人・惟宗広言の妻である丹後局に手をつけた結果、生まれた子という話があります。

信ぴょう性は高くなく、島津家の箔付けのため強引に結びつけたとされます。

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◆天一坊改行

何らかの大きな行動を起こす者が、自称する場合もあります。

徳川吉宗は、異例の経緯で将軍となりました。

本人も将軍の座がめぐってくるとは思っていなかったため、若い頃は身分の低い女性とも関係を持ちました。

そんな若き吉宗との間に生まれたのだと自称したとされるのが、天一坊です。

母の言葉を拡大解釈していたとされます。

◆朝比奈義秀

これは母が箔付けとされた珍しい例です。

和田義盛の子である朝比奈義秀は、際立った武勇を見せました。その様が愛され、母が巴御前であるという伝説が生み出されたのです。

巴御前は木曽義仲の死後の消息は不明です。

『鎌倉殿の13人』ではこの伝説を取り入れ、義盛と寄り添う巴御前の姿が描かれました。

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このように、親子関係が判別できるようになるまで、落胤説はしばしばみられるものでありました。

実際にどの程度の信ぴょう性があるのか?

というと何とも言えません。

たとえ我が子と証明できずとも、そう扱われれば通るというものでもあります。

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