寛弘2年(1005年)、藤壺に出仕したまひろの名が決まります。
藤(原)+式部=藤式部
藤原氏の出であり、父が式部省で蔵人であったことから決定。
かくして藤壺での日々が始まりました。
なお、史実と照らし合わせると、内裏の焼失失後に紫式部が出仕するのはまだ早いようで。
倉本一宏先生は寛弘3年(1006年)出仕説を支持されていて、そこはドラマならではのアレンジでしょう。
空気を読まない新人・藤式部
出仕を始めたまひろが、藤壺を案内されてゆきます。
道長と倫子により、一通り揃った文房具。
相当お高いもので、現在でたとえるなら新入社員のパソコン周りがモニタも複数並ぶような最新鋭スペックのもので取り揃えられたようなものでしょう。
周囲にしてみれば、気になるはず。
物語の執筆を書くため出仕をすることになったまひろですが、女房としての勤務を期待されている様子。「お手伝い」するとうっかり言ってしまい、それを聞かれてしまいます。
集団の中で「なんかあの人感じ悪くない?」となりそうな言動をしちゃっているんですね。
頭の中は物語がみっちみちしていて、冷たい目線に気を回す余裕はないのでしょう。
しかし、いざ書き始めようとすると、物音がうるさいわ、人の気配がするわで集中できない。
実の娘である賢子ですら鬱陶しかった彼女が、そんな環境に耐えられるはずもありません。
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地味でつまらぬ女は才を発揮せねばならない
そして案の定、まひろのもとに藤原公任と藤原斉信がノコノコやってくるわけですよ。
「藤式部と呼ばれているのか」と言いながら、妻たちが寂しがっているとまひろの前に座ります。
ゴシップに敏感な斉信は、推挙したのは中納言(公任)なんだと探りを入れている。
「己の才を存分に活かせ」と励ます公任。
斉信は「何かあれば中宮大夫の俺に申せ」と請け負っております。
そして二人は「藤壺の女房は高貴な姫君ばかりで頼りない」とこぼしています。
結局、彼女らも中宮様と育ちが同じで、中宮様の御為という気持ちは薄く、テキパキと動かないとか。
世間知らずなのだと言いながら、見栄えが良くとも鈍いのは困ると公任がこぼしております。
するとまひろが、こう宣言します。
「私のような地味でつまらぬ女は、己の才を頼みとするしかありません。左大臣様のお心に叶うよう、精一杯努めて参ります」
かつて公任や斉信がロッカールームでしていた下世話な話をまひろが聞いてしまったことを、彼らは当然知りません。覚えているかどうかもわかりません。
しかし、まるで胸の内を見透かされるような言葉に不意打ちを受けたことでしょう。
二人はこのあと、「地味でつまらぬ女」という言葉に心当たりがあるようで、しばし呆然としております。
あの盗み聞きした打毱以外の場面でも、まひろの話題になるといつもそんな風に評していましたもんね。
まひろはなかなか不気味でおそろしい性格をしております。
そりゃこんな性格だったら、同僚から好かれないでしょう。
さて、まひろはそんな環境の中でも、とにかく執筆しようと努めます。
お嬢様だらけのほのぼのオフィスか?
斉信が、中宮大夫として女房たちに指示を出しています。
聞きたいことはあるか?と確認しても、ボーッとしていて返事すらない。少し待ってようやく「ございませぬ」と返ってくる程度。
斉信が愛したききょうのように、気の利いた返事ができる女房はここにはおりません。
斉信に「中宮大饗」はぬかりなきよう準備しろと注意されても、もう毎年同じだと笑いさざめくだけです。そればかりか「中宮大夫は威張りたいだけ」とまで言われております。
ハングリー精神がないのでしょうね。
ききょうのように「私のセンスを見せてやる!」というガツガツした意欲はない。
なんだコイツ等、つまらない連中だ――と、斉信は改めて彼女のことでも思い出したでしょう。
中宮の女房たちを見ていると、いかにききょうが生き生きとした存在であったのかと思えてきます。定子だけでなく、彼女も宮中を華やかにしていました。
そんな女房では、新入りの藤式部の話題に。
父が従五位の下なんだって。
それなのに中納言と親しくて、四条宮で歌を教えていたんだって。
などなど、素直な小少将の君だけは興味津々で、まひろのことを赤染衛門に聞いていました。
これじゃ執筆できない!
「光る君」
そう紙に書いて灯りを消し、眠るまひろ。
しかし、いびきや、寝言、衣擦れの音が聞こえてきて、どうにも落ち着きません。
ここで上から覗き込むカメラワークがよいですね。
つまらない大河ドラマはカメラワークも単調でおもしろくないものですが、今年は随所に工夫が見てとれます。
そして朝がきました。
「お目覚めあれ!」
そう告げられているのに、寝坊してしまうまひろ。
赤染衛門は、まひろは物語の執筆が仕事であり、自分は学びごと指南だと異なると確認した上で、役目が違っても朝は起きるようにと警告します。
遅刻したまひろは「誰ぞの足でも揉みに行ったの」とチクリと嫌味を言われますが、この段階ではまだ意味がわかっていない。
後で「足を揉む」ことの意味を尋ねるとこう返ってきました。
「やだ、おとぼけになって」
見かねた赤染右衛門が「夜伽に召されるということ」だと教えます。召人(めしうど)と呼ばれる役目ですね。ムッとしたことが顔にハッキリと出ています。
まひろは、ききょうのようにセクシー対応はできそうにありません。
かくして中宮大饗が始まりました。
女房は大忙しで、美しい布が下賜されてゆく。
下手すれば謀殺の現場になる鎌倉時代の宴席もあまり楽しそうには思えませんが、平安時代も参加したいとは思えません。
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主催者の中宮にせよ、御簾の奥に座っているだけです。
宴はどの時代も楽しいかというと、そう単純なものでもありません。
日本の場合、味よりも格式や縁起を重視した物を食べ、神事に通じるような見せ物を鑑賞する――そんな儀礼的な要素が大きい時代が続きます。
美味しいものを食べて、楽しく振る舞おうと変えていったのは、戦国末期の英雄三傑の時代になってからのことです。
織田 信長は儀礼よりも味重視のメニューにしてゆきます。
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豊臣 秀吉は自ら能を舞い、大々的な花見を開催し、楽しませようとしたものでした。
徳川 家康はこの二人より地味なようで、それは相対的な評価に思えます。
といっても、江戸時代も折り返し地点を過ぎると、武士は困窮してしまい、代わって最高のパリピとなったのが、江戸の町人たちでした。
それこそ遊郭は夢のような宴の中心地。
来年の大河ドラマ『べらぼう』では、主人公はじめパリピが多数登場し、さぞかし楽しげな映像となることでしょう。
まひろはパリピ正反対の鬱陶しい性格ですので、イベントがともかく嫌で仕方なかったようです。人が多くいるだけで疲れるタイプですよね。
「はぁ」
そう嘆くまひろの声がなんとも生々しい。
ギャンブラーとなった道長
いつも無表情な中宮も、敦康親王とは楽しそうに遊びます。
お手玉を受け取った中宮は、わざと遠くへの放り投げ、女房たちが気を取られている隙に、そっと隠していたお菓子を敦康親王に与え、微笑むとこういいました。
「ないしょ」
そうつぶやく中宮の姿をまひろは見逃しません。
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さて、そんな敦康親王の担当者が藤原行成でした。
敦康親王にかかる生活費の予算を道長に示すと「親王家別当の行成が言うならばよい」とすぐに通されます。
その上で中宮と親王の仲はどうだ?と尋ねます。
親王は中宮を慕っていると答える行成に対し、道長は、さらに伊周が藤壺を訪ねてくることはないのかと探りをいれています。
伊周は目立つことを控えている。洞察力の鋭い、間諜適性のある行成です。
それでも道長としては、伊周の復帰は敦康親王後見を見据えてのことだと油断できません。
中宮に子ができなければ、伊周の力は大きくなるかもしれない。気を抜けないと考えてはいるけれど、自分からは積極的に動かず、行成に調べさせる。
こうしたところが、亡き兄である道隆とその子である伊周との違いでしょうか。
あの二人は「子を産め! 子を産め!」と定子に迫っていたものです。
道長が好きで仕方ない行成は、親王様はこれからも伊周の手に渡すようなことはないと言い切りました。
「この身を賭して、お守りします!」
「頼んだぞ」
なかなか情熱的な行成です。
明子といい、道長はこういう迫ってくる愛にはそっけないんですよね。
今後、まひろに用意した高級文房四宝を、行成には贈るかどうか。
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行成の作品は現在まで国宝としても残されておりますが、晩年にならないと最高級の紙を使えてないようです。
「リモートワークじゃダメですか?」「出勤しなさい!」
行成との密談の後、まひろがだるそうに退職願いを出してきました。
道長に対し、ここでは執筆は無理だと打ち明けている。
落ち着いて物語を書くことができない。里に戻って書きたい。
流石に道長もカチンととして、「局まで与えたではないか」と声を荒げます。
しかし、皆が忙しく働いている中、空気を読まず、のんびり筆を執っているわけにはいかないと打ち明けます。
「書くことは己の使命だろう」
そうイライラを隠さない道長。さらには「内裏のことを見聞きして糧にするんじゃなかったのか?」とまひろに詰め寄ります。
彼女が、なおもうんざりした顔で、気は散るし夜も眠れないと答えると、眠れないなら寝所を用意するとまでいう道長。
さすがに道長も鈍感ですね。
周囲の気持ちもあるからとそれを断るまひろ。そんなことをされたら、ただでさえコネで出仕していると思われているのに、特別枠召人認定確定するじゃないですか。
まひろはしつこく、里に帰ると粘るしかありません。
道長は苛立っています。
続きが書けたら、帝がまひろに会いにくるから、どうか藤壺で書くようにと懇願するのです。
「道長様、私の書くものに、まことにそのような力があるのでございましょうか? これがまことに帝の心を惹きつけていると道長様はお思いですか?」
いつものごとく、面倒くさいことを言い出すまひろですが、気持ちはわかります。もっと確実性のある策で動いてもらわないと、危なっかしいことこの上ありませんよね。
とはいえ、まひろは大量の越前紙を道長の好意で得ています。雇用主になんて態度をとっているのでしょうか。
「わからぬ。されど俺にはこれしかないのだ。賭けなのだ!」
道長は懇願しますが、まひろは突っ込みます。
「賭けに負けたらどうなさいますの? 私はどうなりますの? お役御免無用の身となりましょうか?」
ちゃっかり自身の雇用を確認するまひろ。しっかりものですね。
道長は彼女の心配を否定しますが、まひろはなおも「まことでございますか?」と突き詰めます。契約確認をするために煽ったんですかね。なんてめんどくさい性格なんだ。
そしてこう来ました。
「物語を書きたいと言う気持ちに偽りはございませぬ。続きは里で書きます。必ずお持ちします」
結局、里に帰ることを押し通し、虚無の目になる道長。
まぁ、確かに、納品さえできれば、どこで作業してもいいもんですけどね。
メンタル強者のまひろさん
今年と来年は、大河の新境地を開拓したといえます。
このめんどくさいクリエイターとプロデューサーのやりとりをみて、どこか既視感があると思った方もおられるのではないでしょうか。
たとえば昭和平成のころ、作家が編集者との攻防を明かすことがしばしばありました。そんな裏話を思い出した方もいると思います。
人間の心のぶつかりあいは、血が流れようが流れまいがおもしろい。
戦国幕末ローテーション以外の時代劇も増えた方が良いと思う理由はそこにあります。
史実の紫式部が、出仕後即座に里へ戻ったことは、確かにそうです。
その理由をひねってきたのがこのドラマの持ち味といえます。
『紫式部日記』を読むと、いじめられてしまった紫式部は悪くないように思えます。
とはいえ、あれはあくまで本人目線。
本作はあえて「めんどくさいクリエイターであるがゆえ」としてきましたが、これは良いことではないでしょうか。
来年も依頼主の言うことを聞かないクリエイターが出てきますので、楽しみですね。
現代社会は依頼主の権限が強化されすぎて、弊害ある現場もあると聞きます。
大河で、それはまずい、クリエイターのわがままは日本古来の伝統であると啓蒙できるのだとすれば、素晴らしいことではないですか。
鞭で打っても、鶏が卵をポンポン産むようにはなりませんからね。
孟子にあります。
恒産なければ恒心なし。
まっとうな待遇でなければ、メンタルもちませんので。
よい仕事をさせたいなら、まずはよい待遇から!
中宮の心がひらく
まひろは中宮に別れの挨拶をしに行きます。
風の吹き抜ける場所に立つ中宮を「お寒くはございませぬか」と気遣うまひろ。
炭を持って来させようかと尋ねると、こんな答えが返ってきました。
「私は冬が好き。空の色も好き」
まひろは驚き、中宮様はお召しになっておられる薄紅色がお好きなのかと思っていたと言います。
「私が好きなのは青、空のような」
そう語り出す中宮は何か解き放たれていくように思えます。
しかしここで他の女房が来て、そのようなところではお風邪を召すと御簾を勝手におろしてしまいます。
中宮の愛する空の色は塞がれ、彼女がまるで籠に閉じ込められたように……。
まひろは「何をしているのか?」と問われ、「里に戻る」というと、「あがったばかりではないか」と呆れられています。
それでも彼女は悪びれずに「勤めを果たす」と言い切ります。
こんな調子じゃ、そりゃあ同僚からは好かれませんよね。
何あの人、感じ悪いよね〜、と悪口を言われるパターンです。
めんどくさいヤツにとって、リモートワークは最高だ
まひろが自宅に戻ると、みな元気そうにしていました。
弟の惟規が驚きながら、どうしたのかと尋ねると、まひろはしれっと「帰りたくなってしまった」と言います。
あんなに目を潤ませてみなに見送られていながら、なんでこんなにあっさり、サバサバしているのか。
いとは「追い出されたのでしょうか!」と心配していると、家で書いた方が捗ると答えるまひろ。
賢子と父の藤原為時は出かけているそうです。
涙で別れてまだ8日目だよ、と惟規が呆れていると、乙丸は8日も頑張ったといたわっています。
まひろは能天気に「大根、美味しそう」だのなんだの言っていて、どこまで厚かましいのでしょうか。
まぁ、ここでメソメソしても状況は何一つ変わらないし、執筆を頑張るならば美味しいものでも食べて、心のエネルギーもチャージしないとなりませんね。
まひろは何一つ間違っていません。合理性の塊です。そのせいで空気が全く読めていないだけ。
惟規はそれでも気になって、姉に「いじめられたのか?」と気遣っています。
高貴な姫様ばかりで意地悪な人はいないと説明すると、この先、また戻るかどうかはまだ決めかねているようです。
「わかりにくい女だね。まあいいけど、俺は姉上みたいな女子(おなご)には惚れない」
「私も惟規みたいな男には惚れない」
「だよねー」
よいことを断言した!
大河にせよ、朝ドラにせよ。天下万民が好きになるような好感度ヒロインをやたらと求めるんですよね。
その結果、無個性になる。
うっすら気持ち悪くなる。
マザーとつけて呼びたくなるような不気味なヒロインが生まれ、コタツ記事では麗々しい言葉が乱舞するようになる。
でも、誰からも好かれる人間なんて、存在するわけない。気の合う人同士でやっていければいい。
まひろはその方面に振り切っているため、見ていて爽快です。
力で秩序を決める世は、乱世である
寛弘3年(1006年)、陣定である人事が話題になりました。
なんでも伊勢守に平維衡を任じるとかで、平致頼と合戦を起こした者はよろしくないと道長が断言しています。
武力による争いは戦乱の世を招くと危惧しているのです。
すかさず右大臣の藤原顕光が反論。帝がそのようにしたと抗弁しますが、道長は武で争うものを任じてよいのか、右大臣はそれでもよいのかと食い下がります。
平維衡一人くらいで大袈裟だと言われても、全ては些細なことから始まると道長。
除目に平維衡は入れぬよう苦言を呈し続けました。
陣定が終わると、藤原道綱が「なるほどと思った!」と道長に賛同し、左大臣らしくない怒り方だと公任は困惑しています。
この人事には裏があると説明する行成。
平維衡は右大臣の家人で、帝が言い出した人事ではなく、右大臣の推挙によるものだとか。
ならばなぜ、行成は帝の仰せの通りと続いたのか、斉信が問い詰めます。
帝が仰せなら仕方なかったと返す行成。
一方、藤原実資は、道長の言動に感服していました。
実資も帝の叡慮ならば反対しないつもりでありました。しかし、道長の真剣な態度を見て、今では己を激しく恥じておると認めています。
すると藤原隆家が急にカットインします。
朝廷は武力を持つべきではないか? これから先はそういう道を選ぶこともよくよく考えるべきでは?
兄の伊周が止めても持論展開を続ける隆家には、志があるようにも思えます。
結局、除目では空欄だった伊勢守に平維衡の名が書き加えられたとか。
もはや道長も手出しできなかったそうですが、ここのやりとりも、大変興味深いものがありました。
それぞれがあまりに綺麗に、己の運命や本質を見抜いて話していて、どうしてもそこは後世の人間ゆえの知恵は入るものです。しかし、勉強になるならばよいことだと思えます。
ここは日本史の構造がよくわかる場面といえます。
日本は中国や朝鮮半島と異なり、武官と文官の区別が曖昧にされてきました。
結果、武士と貴族の垣根がくずれ、武官上位の武士の世が到来したと思えるのです。
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もちろん他に様々な要因はあり、その一つが外敵の侵入でしょう。
中国史はいかにして中原を守るか――それが課題としてのしかかり続けた歴史を持ちます。朝鮮半島もそうです。
一方で日本は海に囲まれている。そんなところに歴史の特徴が出ていると思えます。
文武の分別は、歴史がくだって武士の世となっても、だんだんと緩んでゆきます。
来年の『べらぼう』は「武士は文武が大事だ!」と引き締めをはかる松平定信と、それに争う蔦屋重三郎の攻防が見られることでしょう。
作家は実体験だけで書くわけでもない
自宅で物語の続きを読むまひろ。
惟規は「面白いよ、それ!」と大きなリアクション。このトボけた弟にもわかりやすい、少しいやらしくてコミカルな場所なのでしょう。
しかもこうきた。
「大勢の男と睦んでないのによく書ける!」
それを言いますか。
まひろは睦まなくても書けると反論します。
しかし、いとは心配そうだ。下品な殿御たちの話を帝が喜ぶのか……と。
さらに惟規はこう聞いてきます。
「中宮様はうつけだと皆言っている。皇后定子様は聡明で中宮はうつけだと。それは本当か?」
奥ゆかしいだけでご意志はしっかりあると返すまひろ。
怖い顔をする姉に対して、惟規は「怒るなよ」と言うしかできません。
まひろが、中宮の話でこうも怒るということは、心を掴まれつつあるからでしょう。
このやりとりも面白いものがあります。
惟規の理論を展開するならば、モテモテの人が世界最高の恋愛小説を書くことになりますよね。
ところがそういうわけでもありません。
紫式部と『源氏物語』もそうともいえるし、イギリスの恋愛小説の女王とされるジェーン・オースティンも、生涯独身です。
要は観察眼と想像力ですね。
道長は弓馬の台頭を懸念する
道長は除目の通り「伊勢守に平維衡を任じた」と帝に報告しつつ、速やかに交代するよう付け加えています。
さらには身内にも厳しく接してきたとも思えぬ帝の判断に異議をさしはさみ、名に傷がつかぬとよいと批判。
帝は反省し、そこまでゆゆしき間違いとも思えない……と口ごもります。
道長はお上に初めて申し上げると前置きしながら、言いました。
「今は寺社ですら武装し、武力で土地を取り合っている。さらに国司になるようなものが弓矢を専らにするようになればどうなのか」
武力を盾にして、朝廷を蔑ろにする者が出てくる。血で血を洗う世にならぬよう、この国のためを思えばこその諫言だと険しい表情の道長。
すばらしい。見る見るうちに聡明になってきました。
例えばこの時代の貴族であれば誰もが好きな『長恨歌』は、ただの悲恋としてだけではなく、背後にある安禄山の脅威も読み解けます。
武装した国司が、本朝の安禄山になったらどうするのか――そんな教訓にできる。そこまで到達した道長はすばらしい。
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道長は三男でマイペースだったものの、執務の中で磨かれてきたように思えます。
まさに大器晩成型なのでしょう。
柄本佑さんが見事に演じられ、彼あっての道長だと思えます。
帝も心打たれ、伊勢守交代に同意するのでした。
中宮が求めるもの
まひろが再出仕しました。
背後で「やめたんじゃないの?」と言われても我が道を突き進む。
思えば清少納言は、悪口に参ってしまい、里に下がったものでした。
紫式部はもっと早々と里に下がったため、両者を比較するとメンタル強者は清少納言とされてきました。
しかし本作では、本人がめんどくささを炸裂させて里下がりをしていて、何を言われようと受け流しているので、紫式部がとんでもないメンタル強者に見えてきます。
吉高由里子さんだからこそ、こうも強く見えるのでしょう。
まひろは帝に渡す物語の続きができたので、左大臣に渡すと中宮に報告しています。
「帝がお読みになるもの、私も読みたい」
「えっ」
口を開いた中宮に、思わず驚くまひろ。
「帝がお気に召された物語を知りたい」
しかしその手には続きしかありません。
そこでまひろはこれまでの展開を口で説明することにします。
中宮からすると、光源氏はどうしても敦康親王と重なってしまうようにも思えますが、中宮は微笑み、こう言います。
「帝みたい」
中宮にとって、帝は光り輝くように美しい人でした。
主人公の名前を聞かれたまひろが「光る君」と答えると、中宮はさらに「その皇子は何をするの?」と問いかけます。
「何をさせてあげましょう?」
まひろの逆質問に対し、中宮は少し微笑みながら「ん〜……」と考えています。
定子は満開の桜のように美しかったけれども、彰子のほころび始めた梅のような美しさも素晴らしいではないですか。見上愛さんの魅力がこぼれてきます。
道長は、まひろから続きを受け取り、心の底からこう言います。
「大儀であった」
編集者のように聞こえる声音でもあります。一通りページをめくって「これで終わりか?と聞くと、まだ続くとまひろが不敵に言い切る。
そのうえで、これまでわがままを申したけれど、お許しいただくならば藤壺に戻り、中宮様の御ために力を尽くしたいと言います。
驚く道長。
ありがたいけれど、よく気の変わるわからん女だと返します。
するとまひろが「中宮様の好きな色は空のような青だ」と、以前の出来事で知った彼女の一面を説明します。
驚きながら聞き返す道長。
中宮には、表に出てこないお言葉がたくさん潜んでいるのかもしれない。
そんな彼女ともっと話してみたいとまひろは嬉しそうにしています。やはり心惹かれるものがあるんですね。
腹が立つ、でも読みたくなる物語
帝が藤壺へお渡りになりました。
まひろと向き合い、まずは中宮に声をかける帝。こうしてみてくると、中宮目線になって、帝が「光る君」にみえてきます。
思えば『源氏物語』が映像化されるたび、光源氏役は伝説的な美男から選ばれてきたものでした。
塩野瑛久さんも、光り輝くほど美しい俳優としてこの伝説に入りましたね。めでたいことです。
そんな帝は、まひろのことを覚えていました。
高者未だ必ずしも賢ならず。下者未だ必ずしも愚ならず。
白居易を引用しながら、政治に意見を言う女子は亡き女院以外いないとして、まひろのことを覚えていました。
そして「光る君は敦康か?」と問う。
「ないしょにございます」
そう堂々と言ってのけるまひろ。
帝は硬い声音で、あの書き振りは朕を難じていると思って、最初は腹が立ったと明かし、それでも次第に物語が心に沁み入って、不思議であったと声を和らげて語ります。
その上で、朕のみが読むのは惜しい、皆に読ませるようにと言います。
物語は女子供だけのものではないと笑みを浮かべるまひろ。中宮様にお読みいただければこの上ない名誉だと答えます。
賭けの成功を確信したのか。道長の表情もやわらぎました。
道長はまひろだけと向かい合い、褒美を渡します。
箱を開くと、扇が入っていました。
そこに描かれているのは、鳥を追う少女と向き合う少年――あの日、偶然出会ったまひろと三郎の姿です。
鳥は鳥籠で飼うのが間違いだ。自在に飛んでこそだ。
そう語っていた道長は、まひろを青い空に放ちました。
そしてそのまひろが、中宮の心を解き放とうとしています。
青い空が好きなこの鳥は、どこへ飛んでゆくのでしょうか。
そのころ、錫杖の音が響き、大和から僧兵が押し寄せていました。
道長に面会にきたのは、赤い袈裟を身に纏った興福寺別当の定澄(じょうちょう)。その定澄に促され、背後に控えていた慶理が道長に対して凄みます。
「興福寺の僧侶3000は既に木幡山に集結している」
その上で「我らの訴えを陣定でとりあげよ、さもなくばこの屋敷を取り囲み、焼き払い奉る」と脅してきます。
「やってみよ」
脅しに屈することなく、冷静に答える道長でした。
MVP:藤原道長
三男坊であり、どこかおっとりとしていた道長。
父なり姉なりの意向に操られ、この二人の死後も安倍晴明に頼り切りで、どこか頼りないものでした。
糸の切れた凧にでもならないか?と心配でしたが、ここにきて自主性が発揮され、聡明さが際立ってきた。
これは道長に接する者の反応を見てもそう思えてきます。
崇拝者の行成はさておき、注目したいのは公任と実資です。
公任は「道長がああも怒るのは理由あってのこと」と探ろうとする。
実資は、なんと「己を激しく恥じている」とその深慮遠謀に完敗したと認めました。
晴明の死後、道長はまひろに導かれるのかと前回は思っていました。
そうではなく、まひろという暴れ馬を制御する上で磨かれ、強く賢くなっていきます。
支え合う人間関係として実にうまく描かれていました。
一皮剥けたリーダーぶりが頼もしく、器の大きさに相応しいだけの中身が見えてくる。
柄本佑さんも迫力が増してきて、ますます磨きがかかってきましたね。
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「いじわるコミュニケーション」という業
大河と関係ないようで、実はそうでもない。
今週のまひろの姿も連想させたネットの騒動について言及させてください。
日頃より批評家の俊才として敬愛している北村紗衣氏先生が『ダーティハリー』について言及したところ、理不尽な炎上をしております。
こちらに経緯がまとまっております。
◆さえぼうと『ダーティハリー』:ロマン優光連載305(→link)
私はアメリカンニュースシネマも『ダーティハリー』も、よくわかりません。
わかっているのは、この話題で挑むのは無謀。三舎を避く相手といえます。
私がむしろ興味があるのは、こうしたよくわからん炎上が発生する心理状態といえます。
こういうとき、どうしたって策や人の心の流れを見たくなる。悪い癖です。
北村氏がこうも叩かれるのは、
「俺たちの好きな映画を、女如きがウダウダ言いやがって!」
というミソジニーがあると思えるのです。
私はある仮説を立て、検証したことがあります。
『麒麟がくる』の駒へのアンチは執拗だった。
あれはキャラクター設定の問題ではく、受け手のミソジニー(女性嫌悪)由来ではないか。
この仮説をもとに駒アンチの書き込みを読んだところ、なかなかの比率で北村氏のような女性研究者や批評家は俎上にあげられておりました。
ドラマの破綻でなく、偏見からの批判を拡散することは、差別の拡散ではないでしょうか。
ドラマの感想は自由にすればよいとは思います。それでも私は駒アンチをみかけたら警戒することを怠りません。差別主義者である蓋然性が高いのです。
今回もダーティハリーはどうでもよく、発言者の性別が問題であると私は思います。
と、ここまでは特筆すべきでもない話ですね。さらに進めましょう。
私はそれだけでなく、映画やコンテンツを自分の個性付けに用いているからではないか?と感じました。
『動物のお医者さん』という大変おもしろい漫画がありました。
その単行本のおまけで、こんな読者投稿のエピソードが紹介されていました。
ある小学生が『動物のお医者さん』を読み出したところ、クラスメートが「それは私が先に読んでいた、ファンをとるな、読むな!」と怒り出したというのです。
また、自分がまだ買えていないという理由で、本屋で単行本の上に別の本を重ねて隠すファンも言及されていました。
作者はファンなのに読者を減らされても……と困惑していたものです。
これは小学生だから起きたことでしょうか?
いえ、そうではなく、普遍的な人間心理と思われます。
精神科医・兼本浩祐氏の『普通という異常 健常発達という病 (講談社現代新書) 』にこの心理状態が出てきました。
◆「いじわるコミュニケーション」や「ありがとう」の掟...「自分は普通」と思う人が持つ病の元「対人希求性」とは?(→link)
いじコミというのは、適度な量のいじわるをお互いの社会的階層(子ども社会のなかでの大げさにいえばスクールカーストのようなもの)や個人的力量に応じて小出しにジャブ打ちしながら、自分の子ども社会における立ち位置を決めていく技術のことです。
ランドセルの色。
好きなドラマや漫画。
好きなキャラクターなどなど。
そうしたもので自分のキャラクター性が定義づけられると思った側は、それが重なる相手を攻撃し出す。
自分が上だ、自分こそ本物のファンだ。そう言い出す心理状態です。
今週の藤壺のチクチクした空気も、これで説明できるところはあると思えます。
いいところのお姫様が「出仕」するという個性を得る。それをアクセサリーとして自分を定義づけできる。
それをメンタル強めの新人・藤式部がやってきて、さらなる個性で上書きしていったら、なんかムカつくわけですよ。
藤式部にしてみれば「知らんがな」となるけれども、相手からすればそうならないと。
私にも心当たりはあります。
何かが被った相手に目をつけられ、コケにされる現象があまりに多いのです。
マニアックな趣味を突き詰めている自覚はありますので、大人しくしていた方が人間関係は平和に構築できます。
しかし、大河レビューを始めるとそうならないことを痛感しております。
ドラマの評価が一致しないだけで、全く知らない相手から「お前とはもうこれっきりだ!」と罵倒されるとか、クソレビュアーと言われるとか。
当たり前のことになりすぎて、今ではもう達観の域に突入しております。
今、大河ドラマというのは、そこまでメジャーな存在ではありません。
若い世代にとって「NHKは強制サブスク」と呼ばれるほどですし、見応えのある歴史劇は他に数多く配信されています。
もはや大河ファンは一般社会では多数派ではない。だからこそ個性付けに使うこともできる。
己の個性に「歴史好き」という知性の香りを振り掛けつつ、センスをアピールするには、なかなかよいアクセサリになるわけです。
大河だけ見ていても歴史知識を得るには不十分で、こと2015年以降の幕末ものはむしろ有害だと私は思います。それはとりあえず横に置きまして。
そんな大河を自分の一部、アイデンティティとして取り込むと、それを貶されるということは自分自身を傷つけられるようでカーッとなってしまうのでしょう。
自己アイデンティティと大河評価を一致させる傾向が強いのは、低視聴率の作品であるとも感じています。
一部のファンは本当に攻撃的です。
「ファンの心を尊重しろ、あのドラマを貶すことは許さない!」と怒り狂う割には、批判を否定する過程で相手をボコボコにすることには躊躇がないと痛感しております。
作品そのものの評価は横に置くとして、そういう言動は前述した『動物のお医者さん』を読むなとクラスメートに怒る小学生女子と大差ないように思えます。
だからこそ、好きな大河ドラマを批判されただけで、
「私の心を傷つけた」
と怒り狂うのでしょう。アイデンティティを攻撃されたと感じたのでしょうね。
とある方は滔々と自己陶酔気味『いだてん』がいかに素晴らしいかを語っておりました。
ドラマよりもそれを見抜く己の慧眼自慢に思えたものです。
それに対して私が「東京五輪プロパガンダの側面はどう思うのか?」などと反論したところ、後日、口汚くお前は精神異常者だと罵倒するメールが届き、一方的に絶縁されました。
その人はドラマについて語るのではなく、己のセンスを披瀝したうえで、称賛を求めていたのだとその時私は悟ったものです。
あのドラマには「世間の愚民どもは最低視聴率だのなんだの言うが、それを見抜ける我々こそはハイクラスエリート」と言いたげな記事が付き纏っていました。
「オリンピックなんて興味がなかったけれど、このドラマのおかげで好きになりました」
そんな洗脳報告のような投稿も、しばしば目にしたものです。
陶酔は恐ろしいものですね。そのプロパガンダの後開催された東京五輪の惨状を思い出すと、私は到底賛同できませんが。
もっと別の何かを見出せればよいのですが、私にはどうにもできません。でも、まひろの生き方にヒントがあると思います。
『光る君へ』のまひろは、ここ十年でも根性がひねくれていて、空気が読めない主人公トップクラスに入るのではないでしょうか。
大河主役でも根性が捻じ曲がっていく人物はいます。
『鎌倉殿の13人』の北条義時が最終回で政子に殺されたとき、当然の報いであり、同情心は湧きませんでした。
ただし、序盤のあの明るい笑顔を思い出すと、根っこは悪くなったんだなぁと感じる。
一方でまひろはどうか?
乱世に生まれなくてよかったなぁ……と思うぐらいの性格でしょう。
この時代だから空気の読めないわがままクリエイターですが、乱世だったら何をしているかわからない。
惨劇の後でもケロリとして「悲しんでも命は戻らないから。大根でも食べよ」と言い出しそうな不気味さが漂っています。
こういうドラマの中に気の合いそうな人間を見出して「わかる!」と納得することが楽しいのであって、他のファンの顔色を窺っていてはそういうことにならないと思うんですよね。
マイペースで生きていいじゃないですか。
何をしようと結局、私たちはどうせ天下万民に愛されませんからね。空気を読むのをあえて止めるのもひとつの生き方でしょう。
気の合わない側から言わせれば、自分の好きな大河を貶す私は、とんでもない悪党に思えるのでしょう。そういうヤツはとっちめたくなりますよね。
わかるようで、めんどくさがりの私にはちょっと理解しにくい心理です。
ゆえにいちいち気に入らない相手の発言をスクリーンショットで保存し、貼り付けて、悪口を言い合って盛り上がってしまう心理も、わかるようでわかりません。もっと別のことに時間と労力を使えばよいでしょう。けれどもやめられない人はいるんですよね。
こういう心理は、朝ドラの感想でも見かけました。
あるユーザーは、アンチが盛んだったドラマのヒロインをアイコンにし、ハンドルネームの一部にまで取り入れ、バイオには堂々と「反省会でネットの楽しさに目覚めた」というようなことを書き連ねています。
やめるように言われても引用して朝ドラファンダムに乗り込んでいき、己に酔いしれている。
その様は回転寿司店で醤油差しを舐め回す少年と大差ないように思えますが、本人はイキイキ。
この手の罵倒は、どうにもワンパターンです。
『虎に翼』の場合、アンチの誤認を現役法曹関係者が訂正することもあります。
そうすると一見素直に無知を謝ったようで、後の投稿でネチネチと悪口を続行することもみられます。
叩くことが目的となっていて、理由は後付けなのでしょう。そんなことにアイデンティティを見出して何をしたいのか。
曹操は己を罵倒する陳琳の文章を読み、腹は立つけれど相手の文才は大した者だと感服しました。
ドラマの感想でも、そういう瞬間がないか?と思いますが、たいていは芸のない投稿で失望させられます。
賞賛にせよ、批判にせよ。理屈が通っていて納得できるのであればよいのですが、大抵はそうでもないので、虚しいことです。
本人もなぜそうしてるのか、見失っているのかもしれません。
もう大河なり、朝ドラなり、ダーティハリーなり――コンテンツではなく、それを守るだの真のファンの地位だのダシにして、罵詈雑言を引っ掻きまわす、そういうネットワークにとらわれているのでしょう。
一種の中毒ですね。
私は大河ドラマと自己をそこまで一致させていません。
大河の主演俳優や脚本家がするならば理解できるものの、一人のファンがどうしてそこまで思えるのか。
何事もほどほどにするのが大事だと思います。
歴史サイトでこんなことを書くのは愚かかもしれませんが、武士や大河ドラマに自己アイデンティティを過剰に重ねるのは避けた方がよろしいかと。
しかも言動不一致がどうにも目立ちます。
武士に一体化しているわりには、文武の鍛錬より人の悪口にかまけているのは何事でしょう。
御成敗式目以来、人の悪口は懲罰対象です。
せめて目につかぬところですべきではありませんか。
武士であるからには、まず武士の道とは何か考えてみるべきではないでしょうか。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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【参考】
光る君へ/公式サイト










