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麒麟を理解できなくなった世……「西狩獲麟」
さて、そんな光秀ですが。
麒麟が理解されないと知ったらば、ますます絶望してしまうかもしれません。
麒麟そのものが、理解されていない――そんな現象とは何なのか?
このことを示す言葉として「西狩獲麟」があります。出典は『春秋左氏伝』「哀公伝一四年」。
春秋時代の哀公伝一四年――。
西の方で、麒麟が捕らえられました。その姿を見て、人々は不気味な珍獣であるとおそれたのです。
それを聞き、孔子は絶望しました。
「太平の世に出現する麒麟を理解できず、むしろ不気味であると恐れるとは……」
麒麟が何かすら理解できないほど、荒れ果てた人心よ!
古代の伝説的な名君である堯舜の治世を理想とし、道を説いてきた孔子としては、あまりに嘆かわしいことでした。
これを知り、彼は筆を置いたとされているのです。
光秀は儒教の聖典である『四書五経』を僅か二年で読み上げた、秀才であるとされています。徳のある秀才だからこそ「麒麟児」と呼ばれる類の少年だったことでしょう。そんな彼が、これから戦国時代を生きてゆくのです。
麒麟のことを、世の人が理解しようとすらしない――。
人心の荒廃が嘆かわしい。かつての孔子が筆を置いたような絶望が、彼にも襲いかかるのでしょうか?
あるいは思想家たる孔子が筆を置いたように、武士である光秀は何かを投げ捨てるのでしょうか?
作中の光秀の心情の悪影響も不安になるところですが、タイトルを理解されなければ、作り手としてもショッキングなことであるかと思います。
そんな窮地を想像し、解説を書かせていただきました。
麒麟が来ることは、永遠にありません。
これが満足だ、ここで終わりだ、これ以上はないと人が思ったら、進化はなくなる。
誰かがより良い世をめざす限り、麒麟は到来しません。
それこそが理想なのです。
決して辿り着けぬ、より良い世を目指すことこそが道である、だからこそ光秀も悩み続けるのでしょう。
そしてそのことを、観る側も考えて欲しい――制作サイドもそう願っているのではないでしょうか。
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文:小檜山青
【参考文献】
『伝来中国文化事典』寺尾前雄
『新字源』
『周―理想化された古代王朝』佐藤信弥
『論語入門』井波律子
他