麒麟がくる感想あらすじ

麒麟がくる第34回 感想あらすじ視聴率「焼討ちの代償」

麒麟がくる第34回感想あらすじ~視聴率は13.6%でした

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麒麟がくる感想あらすじレビュー

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元亀2年(1571年)9月――。

織田信長は比叡山延暦寺へ攻めこみ、僧侶やそこで暮らす人々を、男女の区別なくことごとく殺害。大きな打撃を与えます。

覚恕は逃げた……と、尋問した従者から聞く光秀。座主である覚恕は東国へ向かったとのことです。

「この者、斬り捨てまするか?」

そう伝吾に問われ、光秀は葛藤しつつ声を絞り出します。

「放してやれ」

一方、大惨事を引き起こした信長は、綺麗な透き通った、幼い子どものようなキラキラした目をしています。

うーん、この信長……。無心の顔はすごく美形に見える、染谷将太さんの年齢不詳の端正な顔が映えるけれど……表情がつくと、すごく歪むというか、感情がむき出しになって怖くなる。だからこその信長だと感じます。

柴田勝家が、そんな信長に報告します。

坊主どもはことごとく討ち果たした。比叡山は死に絶えたも同然である!

と、無邪気に喜ぶ信長。

「よし、皆のもの、大儀であった!」

エイエイオー! エイエイオー!

勝家が晴れやかな一方、光秀は複雑な表情をしています。

 

光秀に対する褒美は志賀の地2万石

光秀は、布で包まれた生首の検分をしています。

その首に一礼。生々しい描写が続くことに注目ですね。

最近は、昔よりもこの手の残虐表現に気遣うようになりました。遺体の映像が出る前には、テロップ表示も出る。

そういう時代に、いくら本物ではないとはいえ、遺体をこれだけ見せる意図はあると思います。

信長は、満足そうに語りかけてきます。

「十兵衛。そなたの申す通りであった。高僧どもは皆この近くで見つかった!」

そして、覚恕のもとにいた坊主どもの首を見るか?と聞いてくる。猫が鼠の死骸を持ち込むような軽さでそう言い切るのです。

光秀はこう断ります。

「先ほど検分いたしました」

そうか。信長はそう応じながら、此度の勝ちは光秀あってのもの、明智の一党も活躍したと褒め称えます。覚恕は逃したが、山中の者はほぼ全て討ち取った。そう勝ち誇るのです。

光秀は苦しそうに、全ての者を討てという下知に背き、自分の一存で女子どもは逃したと言います。

そのうえで「お許しくださいませ」と頭を下げて、訴えるのでした。

「それは聞かぬことにしておこう。他の者なら、その首刎ねてくれるところじゃ」

信長はそう言いながら光秀の前にしゃがむ。

何気ない動きのようで、甲冑をつけながらこうすることは大変だと思います。それを染谷さんは軽々とこなす。

そして光秀の胸を叩きながら言います。

「山中に巣食う女子どもは、ここに刃を忍ばせておる。いずれわしらに牙を剥く。以後は、皆殺せ」

そう言い切り、にっこりと笑う信長。

此度の一番の手柄がそなたであることに変わりはない、とケロッとしている。そして、この一帯、志賀の地・領地二万石を光秀に与えると約束しました。それが褒美であると。

しかし……信長も、私たちも、わかっていないことがあるかもしれない。

光秀にとって、血で贖ったような領土や功績は、むしろ重荷になること。信長はそんな心を見ようとすらしない。

信長のこの比叡山焼き討ちを、大袈裟だとか、ありえないとか、自業自得だと庇うことも、当時のことや被害者の心を見ようとしていない。

光秀だって、ああも積極的に参加したからには、大河で描くような甘ったるい英雄のわけがない――そんな意見があるとすれば、人間心理を単純化しすぎではないでしょうか。

罪悪感とともに悪事を働いた人もいる。その心を、もっと見ていくべきかもしれない。

 

激怒する将軍

京の二条城では、将軍義昭が激怒しています。

三淵藤英も、摂津晴門も、ここまでのことはないはずだと言っていた。

それなのに、女子どもまで斬られた! 城内に運び込まれたものの有り様を見よ!

そしてこう言い切ります。

「なにゆえ、この戦を止めようとしなかった!」

そう怒る将軍に、摂津晴門はのらりくらりと返します。

いかな田舎者の信長といえど、叡山には指一本触れられない――覚恕もそう言っていたし、打つ手がなかった。

義昭は苛立ちながら、田舎者だからこそそれがやれると思わなかったのかと問い詰めます。

「信長は何をしでかすかわからぬ男ぞ!」

そう信長の本質を突きつつ、京雀の目線も伝えます。

幕府は信長の言いなりで、叡山滅亡の片棒を担いだと囁かれてしまう。仏門の灯りが消えて闇になるのは、幕府が無能だからと言い募るのです。

宗教と人心の不可分だなぁ。こういうドラマを、今年こそ見たかった。

コロナ禍のもと、宗教にとっても大きな分岐点を迎えると指摘されている。人の命を救うはずの宗教が、その施設や礼拝によりむしろ危険であるとわかったとき、人の心は神とどう向き合うのか? そういう瀬戸際です。

人類と神の向き合い方の、ひとつのターンが劇中の時間軸――信長は、どの時代、どの国でもごく少数現れる、何をしでかすかわからない存在なのです。

 

大和の代理戦争

晴門は、義昭に責任転嫁します。

上洛を助けた大恩人だから、信長に遠慮があると。

しかし義昭のメンタルも以前より強くなってきていて、そなたにも遠慮というものがあるのかと、晴門に嫌味を言い返します。

晴門は、毒を含んだ口調で問いかけます。この際はっきりと、信長との関わりを絶つ覚悟はあるのか?

横から三淵藤英が、そんなことできるのかと問い詰めると、可能であると晴門はいう。では、どのようにして?

答えは“代理戦争”。

筒井は幕府側、松永は救援を織田に求める。そこで旗幟鮮明にすれば勝算があるという目論見です。

藤英の問いに対し、晴門は、周辺の大名に声をかければよい、戦は数を集めたものが勝つ、田舎大名に頭を下げたくない大名に呼びかけると言うのです。

しかし、これはある意味、悪魔に魂を売りかねない流れでもありますね。

信長を排除しようとすれば、結局戦が起きる。信長に目を瞑って、とりあえず全国統一すれば結果的によいのでは? 人命をただの駒として数え、心なんて見なければできるかもしれません。

義昭に、それができるのか?

そもそも比叡山の焼き討ちだって、摂津晴門ら幕府の古い勢力が私利私欲を優先したのが原因。そういう根幹から目を逸らし、問題を解決しようとして、また新たなトラブルを増やす。そんな濁った流れに突っ込んできます。

義昭は、何かを見失っている。

駒に命ある蜻蛉を土産にしたあたりから、それが現れてきた。

死んでしまった蜻蛉の数にさして意味はない。あるのは、自分の心に従い、命を軽視しかねない流れになってきたことではないでしょうか。

そんな演技がまたも素晴らしいですね。

顔がひきつる義昭に扮した滝堂賢一さん。あの少年のような明るさは消えてゆきます。

首を傾けつつ、どす黒い演技を見せる片岡鶴太郎さん。なんでも顔の筋肉が生理的に動く境地に達しているそうですが、そういう魔法のかかるような空気を、本作は醸し出しているのでしょう。

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