麒麟がくる感想あらすじ

麒麟がくる第42回 感想あらすじ視聴率「離れゆく心」

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家康に覇権の風格

姫昌と姫発の父子は、暴君である紂王に耐えてはいました。それでも我慢しきれず、かつ暴政は人を救わぬとの思いを掲げて、革命を成し遂げたのです。

ずっと耐えてきた家康は「逆らう」のではなく「己を貫く」という。彼は運命に束縛されていることを嘆いている。

彼を束縛する宿命は何か?

その己の宿命を貫くとすれば、どういうことか?

麒麟がどういう経路で到来するのか、はっきりと筋道が見えて来ました。

この家康の言動は極めて重要でしょう。

彼は妻子への愛は語らない。それどころか、自分の感情すら語らない。家臣の怒りと不信感、三河の誇りを語るのです。

妻子への愛は、あくまで彼自身のもの。漢の建国者である劉邦は、逃走の際に我が子を車から突き落としました。とんでもない父だ! 実はそれだけとも言い切れない。

曹操は苑城で嫡子・曹昂を戦死させた。それでもその戦いの追悼をする際には「我が子よりも、忠臣・典韋を死なせたいことが悲しい」と号泣したのです。

そして、ここでふれてきた姫昌には、伯邑考という子がいました。

紂王は人質としていた伯邑考を切り刻み、釜茹でにし、その肉汁を姫昌に食わせた。そして紂王は、そのことを嘲ったのでした。

大義のために妻子を犠牲にすることは、主君としてはむしろ評価される。

ここでの家康には、そういう風格が出てきた。

我が子の肉を食らってでも、己を貫き、麒麟の到来を成し遂げる運命を見出してきた。

これも本作特有の価値観を貫いていると言えます。

妻子を失う悲しみを訴えた方が、号泣は誘うのです。けれどもここでの家康は涙ひとつこぼさない。もしも光秀が、今話したことを全て誰かに打ち明けたら危険であるのに、そのことは踏まえていないように思える。

彼は変わった――何かが降りた。その運命から逃れることなく、受け入れ、突き進む風格が出てきた。

風間俊介さんの成長が凄まじい。揺るぎない風格が出てしまった。こんな立派な徳川家康像を見てしまって、感激すら覚えます。

日本を代表する主君を、それにふさわしい役者が演じる。声音から表情まで、もう一段と磨きがかかって神々しさすら感じてしまった。圧巻です!

しかしこうなると2023年に家康を演じる松本潤さんにはどれほどの重圧となるか……大河の未来を開く意味でも、素晴らしい家康がやって来ました。

そしてそんな家康を前にして、何かを悟った光秀も素晴らしい。

彼は人の形をした運命を、麒麟を連れてくる人物を見出した。そう思えたのです。

 

宣教師と会い、機嫌のよい信長

光秀は京・二条の館へ向かいます。

そこでは宣教師が信長に熱心に神の教えを伝えていました。

「真理を伝えに参りました。我らを遣わしたのは逆らえぬ力、デウス、つまり我らの神であります」

この言葉をどう捉えるか?

へー、カトリックはそうなんだ……と片付けてよいものかどうか。

人とは、自分自身の意思で動いて行動しているもの?

それとも、逆らえぬ力の影響も受けている?

ここが問題です。

光秀がやってくると、信長は上機嫌で宣教師パードレの話をします。

この世で形あるものはいずれ消えてゆく。消えぬのは形のないもの、風のようなものだという。

ではキリシタンの神は見えぬのか?

触ることはできないのか?

そう尋ねると、信じる心があれば見えるようになるのだと。信長は感心し、信者になろうともしたと笑いながら語るのでした。

光秀は「今日はご機嫌がよろしうございますな」と指摘します。

どうやらパードレの問答ではなく、九鬼水軍が毛利の水軍に勝利し、本願寺の補給路を絶ったことに喜んでいて、長引いた戦にようやく終わりが見えてきたようです。

そして光秀の要件を聞いてきます。光秀はお願いしたき儀として徳川のことを持ち出します。

「さすが十兵衛、早耳だな」

信長は平然という。

武田と通じたのだから当然であると。

ちょっとここは引っかかります。信長が自信過剰になっているのかもしれませんし、菊丸の件が伝わっていないとも思えます。

菊丸を殺し損ねて、秀吉の配下はしらを切ったのか。それとも別の理由でしょうか。

 

「帝に招かれ、御所に入ったであろう」

光秀は、家康も三河の者の面目が潰れてしまうと苦言を呈します。

けれども信長は自信満々なのです。

幼い頃、竹千代時代から知っている。あれは小心者で争い事を好まないからには拒むまい。

拒まなかったとしても、それはそれでよい。岡崎での鷹狩りの際、三河の者が尾張の者を睨む目をしていた。油断ならぬと言うのです。

光秀が味方を失うと説得しても、信長には通じない。むしろ光秀が三河の者の肩を持つと不機嫌になっています。

荒木の二の舞だと強気な信長。白黒をはっきりさせると言います。

「それでは人はついてこない!」

光秀がそう訴えると、信長は語気を強めます。

「ついてこねば成敗するだけじゃ!」

そして混乱しきって、こう願い出すのです。

「頼む、これ以上わしをこまらせるな! わしが唯一頼りに思うておるのはそなたじゃ」

そう懇願しておいて、そのそなたが近頃妙な振る舞いをしていると言い出すのです。

「わしにはその方が気がかりじゃ」

「私が?」

「帝に招かれ、御所に入ったであろう」

帝は何用で光秀を招いたのか。いかなる用かとしつこく問いかける信長。

月見で三条西実澄に招かれたと光秀は説明します。

「そこでわしの話が出たのか? 申せ、帝はわしのことを話されたのであろう? なんと仰せになった?」

御所のことは口外してはならぬと口止めされていると返すしかない光秀。

しかし信長には通じません。

自分の権威をもってしても口を開かない! 頼んでも手をついても話てくれない!

きっと悪いことを話したのだと猜疑心を募らせ、光秀が左様なことはないと言ったところで通じないのです。

「わしの話をしたのか? 言え、言え、言え! 申せ、十兵衛、申せ! 十兵衛、わしに背を向けるか!」

「ご容赦を!」

「おのれ、申せ、申せ、申せ、この!」

信長は扇で光秀を殴り、光秀の額には血が滲みます。

 

悲しみ、恐怖が、転じて暴力へ

信長は怒りがおさまりません。

「なぜじゃ……なぜこうなる? 帝を変えよう。譲位していただこう。それを急がせよう。それがよい」

「殿!」

けれども光秀の言葉は届かない。

武士がいなければ朝廷は弔いひとつできない。信長はそう蔑むのです。彼の勤王路線に決別するセリフといえますね。

そしてその怒りを光秀にもぶつける。

明日から丹波攻めをし、一年以内に片付けよ。さなくば、わしにも考えがある。

そう光秀を追い出すのでした。

信長は悲しさの境地に到着しつつある。

大胆なようで臆病。父や母に叱られ、受け入れてもらえず、涙を目にいっぱいにためていたこと。

金ヶ崎で戻ってきて、自分の敗報に帝や帰蝶が失望しないかと寝転がっていたこと。

大好きな誰かが受け入れてくれないこと。嫌われてしまうこと。認められないこと。

それが怖い。

けれど、素直にそう言えなくて、暴力になって出てしまう。

狂っているのではなく、染谷さんが言う通り、ただひたすらに純粋なのだと思えてしまう。

子どもが泣き叫ぶように、獣が毛を逆立ててしまうように、彼は怒る。爪を立てて大好きで信頼するものを引っ掻いてしまう。

ただただ安心して自分が甘えられる腕が欲しいだけなのに、それすらわからず猜疑心に沈み込んでいってしまう。

単に狂っている像ではなく、暴君でもなく、悲しくて純粋な信長に仕上げてしまう。

本当に染谷将太さんが凄い。全く新しい信長像を作り上げてしまった。圧倒されます。

 

駒を通じで描かれるのは

帰宅する光秀。そこには駒がいました。

どうやら細川家に嫁いだたまと約束をしているのだそうです。お帰りの日は、薬を用意してお待ちしているのだと。

「毎度かたじけない」

そうお礼を言う光秀。

と、ここで失礼してもよろしいですか。最終回が近づき、やっとわかった気がするのです。

駒は何者か?

そこを考えてきて、池端さん自身の経験を思い出しました。

彼の世代は駒のような女性を見てきた。

戦争未亡人。婚約者に戦死された人。戦災孤児。

さまざまな事情で結婚することもなく、自分なりに学んで技術を身につけ、生きていくしかなかった女性たちがかつて日本にいました。

どうもそうした記憶が薄れているらしい。

私がそのことに思い当たったのは、2018年朝ドラ『まんぷく』です。

あのドラマに出てきた女性のモデルには、駒のような方がいました。戦争未亡人として、再婚せず、薬剤師となって生き抜いた女性です。

それがドラマですと、キャピキャピした専業主婦になっていて、一体これは何なのかと驚かされたのです。

その次の『なつぞら』には、駒のような立場の女性が複数名登場して安堵しましたが。

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原因は「事なかれ主義」であり、かつ女性キャラクターのコンテンツ化という問題だとは思いました。

駒を不要だとする主張は「良妻賢母にならない戦災孤児はいらない」と選別するような話です。

萌えない。アイドルみたいに思えない。若い頃は恋する乙女でかわいかったのに、インテリババアになってまで出てきて意味があるのか?

そういう目線には、出てくる女性はが全て萌えるかどうかだけで見る、アイドル人気投票、あるいはガチャを引くゲームのようなものを感じてしまうのです。

アイドルを見るように、戦国時代の女性を楽しむ。そういうサブカルのノリが面白かったとすれば、それは生真面目なメインカルチャーが先にあり、あくまでオルタナティブとして存在したからだと思います。

しかし今はサブカルがメインになってしまっている。

これは正直、ドラマの作り手にとっても憂鬱極まりないことでしょう。

そういう目線に媚びた結果、あからさまなツンデレ戦国女性だの、おにぎりマネージャーだの、西郷どんにメロメロする天璋院だの出されて、いい加減呆れ果てた。

それが2010年代大河ではありませんでしたか?

ヒロインなり、イケメンをコンテンツ化するとすれば、あくまで二次元範囲に止めるべき……いや、二次元でも危ういか。

ともあれ大河で萌え論争をやらかすと悲惨なことになると、私たちは学んだはずです。

再度繰り返しますが、池端さん世代が見た戦争の傷跡を想像すべきではないでしょうか。女性の人生はコンテンツではありません。

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