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まんぷくモデル安藤百福の生涯96年をスッキリ解説! 日清食品の誕生物語

更新日:

「人生何が起こるかわからない。カーネル・サンダースだって60過ぎてからフライドチキンを始めたんだ」
そんな台詞をハリウッド映画の中で聞いたことがあります。

いかにもアメリカっぽい喩えですが、これがもし日本であれば、ピッタリ当てはまるのが安藤百福(あんどう ももふく)ではないでしょうか。

齢50才を目前にして、仕事も財産も失う――そこからインスタントラーメンを作り上げ、日本の国民食、いや世界に愛される食品にした男。

一言で言えば、それが安藤百福です。

彼は一体どんな発想で、いかなる工夫をして、インスタントラーメンを世に生み出したのか。

NHKの朝ドラまんぷくモデルにもなった偉人の生涯を、生い立ちから追ってみたいと思います。

カップヌードルミュージアムに立っている安藤百福の像

※文中敬称略

 

台湾で生まれ育ち、料理が得意な少年に

ときは明治43年(1910年)。
当時、日本の領土であった台湾・嘉義庁(現在の嘉義市・かぎし)で百福は誕生しました。

ハレー彗星接近の年に生まれたこの子を、祖父は「彗星の申し子」だとして喜んだ――そんな話も伝わっております。

百福は、もとの名を「呉百福」と言い、のちに日本へ帰化するのですが、両親は幼い頃に亡くしております。
彼は、2人の兄&2人の妹と共に、台南州(現在の台南市)へ移り、織物販売業を営む裕福な祖父母のもとで育てられるのでした。

当時を偲ばせる台南庁舎の絵葉書/Wikipediaより引用

祖父は厳しい人でした。
マナーや家事の仕方を孫たちにしっかりと仕込み、自分の面倒は自分で見るよう躾けます。彼らの工場には多くの職人たちが出入りをしており、いつも賑やかな環境でした。

常に商売と身近な場所で育った百福は、ものづくり、商売に興味を持つ少年に育ちます。
そろばんを触って遊ぶこともありました。

躾どおり幼い頃から掃除、洗濯、調理を学び、自立心も旺盛。
高等小学校(現在の中学校)に上がると、誰に言われるまでもなく、自分と妹たちの朝食と弁当を作るようになります。
やがて妹二人と祖父母の家を出て暮らしたいと言い出し、許されました。

百福が得意なのは、なんといっても料理です。
「男子厨房に入らず」
という、戦前を表すような古き言葉も、百福には当時からまったくあてはまりません。

台湾の豊かな食材、調味料、香辛料。
様々な調理法を試して食事を作ることは、辛いどころか楽しいことだったのです。

料理の腕前だけではなく、好奇心も旺盛で、常に新たな味を模索していました。
これが後の業績へと繋がっていくのです。

食材豊富な台湾の揚げ物屋台

また百福は、在学中に友人の推薦で司書となりました。
退屈な仕事ではありますが、仕事の合間に様々な本を読み、知識を身につけることが出来たのも後に役立ったのでしょう。

そして昭和7年(1932年)、22才になった百福は起業を決意。
目を付けたのは、当時まだ珍しかったメリヤスでした。
現代では「ニット」と呼ばれる製品です。

百福は亡父の残した資金を元手に、台北で「東洋莫大小」(東洋メリヤス)という会社を興します。
そしてその翌年の昭和8年(1933年)には、会社の本拠地を日本の大阪へと移すのでした。

 

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大阪で起業間もなく戦争が始まった

大阪に拠点を映した百福は、様々なアイデアで会社を発展させようとします。

社長自ら各地の工場に足を運び、顧客の注文をもとに独自の太さで糸を作る――そんな百福の丁寧な商売は人気を博し、成功をおさめました。
当たって砕けろ精神で、当時の繊維業大手であった「丸松」にアポなし訪問をすることも。
また奇想天外なアイデアにも取り組みました。

百福は、蚕(かいこ)にヒマ(トウゴマ)の葉を食べさせると、桑の葉よりも成長が早くなることを知りました。
そこで考えたのです。
「蚕にヒマの葉を食べさせて、蚕から絹糸を、ヒマの実から油を取れば一石二鳥だ!」

しかしそんな斬新な思いつきも、戦争拡大を前に社会情勢が厳しくなり、実現には至りません。

飛行機の潤滑油に利用できたため栽培を奨励されたヒマシ油/Wikipediaより引用

昭和16年(1941年)、12月8日。
台湾出張中の百福は、日米開戦の報をラジオで聞いて、仰天しました。

『もはや商売どころではない』
中国、アジア、そしてアメリカへと、無限に広がりつつある戦線の拡大。

そんな最中でも様々なアイデアを考えていた百福ですが、軍用機エンジン部品に手を出したことが、彼の運命を暗転させます。

ある日、エンジン部品資材が誰かに盗まれてしまいました。
憲兵隊にそのことを通報すると、イキナリ逮捕されてしまったのです。

「本当は貴様が横流ししたんだろ! 他人に罪をなすりつけるつもりか!」

あらぬ罪を押し付けられた百福は留置所で過ごすことになりました。

留置所内では、殴る蹴るの暴行が日常で、百福は棍棒で腹部を殴打され、正座した足の下に竹を入れられるといった拷問を受けました。
食事を取ることさえままならない日々。
百福は飢えを味わい、食物の大切さを噛みしめます。

幸い、知人の口添えがあり、拘束は45日間で済みました。
が、出所後も、商売どころではありません。
大阪は連日の空襲により焼け野原と化していたのです。

そして昭和20年(1945年)、8月15日。
疎開先の兵庫県で、百福は玉音放送を聞いたのでした。

焦土と化した大阪(左側に見える線路は南海電鉄)/Wikipediaより引用

 

闇市でラーメンのために並ぶ人々

日本が敗戦を受け入れると、百福は、前年に結婚した妻とともに、疎開先から大阪へ戻りました。

街は酷い有様でした。

とにかく食べる物がなく、人々は芋の蔓まで口にするような状況。
ラーメン一杯のために列を作る人々の姿は、百福に強烈な印象を与えました。

闇市でカストリ酒を飲む人々/Wikipediaより引用

「人間は一杯のあたたかいラーメンを食べるために、あんなにも並び、待つものなのか。衣食住が生活の基本というが、何と言っても“食”こそが大事ではないか?」

食の大切さを百福は痛感します。
と言ってもすぐにインスタントラーメンに取り掛かるのではなく、戦後は、無償で払い下げられた土地で製塩業を始めました。

薄い鉄板を並べ、そこに海水を流し、太陽光で熱して凝縮する製塩。
さらに彼は、漁船二艘で鰯を捕り、干物にして売り出します。
人を幸せにしたいと願う百福は、売れ残りの塩や、塩にのりを加えたふりかけを近隣の人々に配りました。

そんな彼を慕い、多くの若者たちが百福の工場に出入りするようになります。

百福と妻はそんな若者達を、優しく迎えました。
時にはそんな若者がいたずらをして警察に睨まれることもありますが、日本の未来を担う若者だからと、百福は庇いました。

若者の育成のため「中華交通技術学院」という学校も作りました。
食べることで人を幸せにする――そんな小さな一歩は、焼け跡の工場から始まったのでした。

 

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「そんなに言うなら、自分でやったらどうです?」

昭和23年(1948年)、百福は製塩工場を「中公総社」から「サンシー殖産」という名に変更しました。
同じころ「国民栄養科学研究所」を創設します。

終戦後3年経ったにもかかわらず、日本は食料難でした。粗悪な食品しか手に入らず、栄養失調になる人もたくさんいたのです。

百福はそんな状態を憂い、高栄養価の病院食を作ろうとしました。

思いついたのが、食用ガエルのエキスです。
日本で食用ガエルはあまり一般的ではありませんが、中華料理では栄養価の高い食材として重宝されています(日本でも本格的なお店では食べることができますので、興味のある方はどうぞ)。

百福はこのカエルを圧力釜に入れまして。
そのまま電熱器にかけて2時間放置しました。すると圧力釜が大爆発を起こしてしまったのです。

このときの掃除は大変だったそうですが、飛び散ったカエルはこのあと百福と妻でおいしくいただいたそうで。
味はよく、出産直後であった妻は体力も回復します。

カエルは失敗したものの、百福は諦めません。
今度は、牛や豚の骨から抽出したエキス「ビクセイル」の商品化に成功。優秀な病院食として、厚生省(現厚生労働省)からも認められました。

ビクセイル開発のために厚生省に出入りするようになった百福は、ある疑問が芽生えます。

当時、厚労省の指揮の下、余剰物資の小麦でパンやビスケットが生産されていました。
日本人の口にあうのはそうしたものよりも麺類だろうに、とアタマを働かせたのです。

【日本人はラーメンが好きだ!】
そこで百福は、小麦で麺類を作ったらどうか?と提案しますが、相手にされません。

「そんなに言うなら、あなたがやってみたらどうですか?」
と突き返され、途方に暮れるのみ。
国民栄養科学研究所の研究員も「ラーメンの研究なんて……」と渋ります。

このときはいったんラーメン作りを諦めた百福。その挑戦は、持ち越されることになるのです。

故郷・台湾の牛肉麺

 

ここで、日本におけるラーメンの歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。

かん水を用いた中華麺が初めて日本で作られたのは、15世紀とされています。
17世紀には、滅亡した明から亡命してきていた朱舜水が、中華麺を水戸光圀に振る舞ったとされています。

しかし、一般的に広まることはありません。
庶民も口にするようになったのは、明治の開国以降です。中国大陸や台湾からの留学生、出稼ぎ労働者たちが、中華料理を広めるようになったのです。

20世紀に入ると、中華料理店やラーメン店が開業しました。
太平洋戦争の最中に閉店したものの、戦後闇市で復活。百福が見たのはまさにこのラーメンでした。
それだけ日本人の口に支持されていたのですね。

ちなみに現在のラーメンは庶民的な食べ物であり、健康に悪い食品の代表格のように言われることもありますが、かつてはそうではありません。

叉焼の肉、栄養分が溶け込んだスープは栄養価たっぷり。
特別な日のごちそうでした。

 

脱税容疑で巣鴨プリズンへ

この年、百福は意外な落とし穴にはまります。
集まってくる若者へ小遣い代わりに渡していた金をめぐって、脱税疑惑をかけられるのです。

「小遣いではなく、あれは給与だ。源泉徴収して税金を納めなさい!」

そんな理由で、戦犯も収容されていたあの巣鴨プリズンに2年間も収監されてしまうのです。

戦後、多くの戦犯も収容されたことで知られる巣鴨プリズン/Wikipediaより引用

やっと処分取り消しを受けて、出所したのは昭和26年(1951年)のこと。
再出発をはかろうとした百福ですが、またも落とし穴にはまってしまいます。

知人に頼まれ、信用金庫の理事長になるのですが、杜撰な経営がたたってあっという間に経営が破綻してしまうのです。
昭和32年(1957年)のことでした。

残ったのは借家のみ。
妻子を抱えて、47才で味わうドン底です。
「人間五十年」と考えますと、もう残り数年ということになります。普通の人でしたら心身ともに疲弊して、寂しい生活が待っていたことでしょう。

しかし、百福は諦めません。
「失ったのは財産だけ。その分、経験が血や肉となって身についた」
という……なんて前向きなハートでしょうか。

これは強がりなどではなく、彼にはあるアイデアがありました。

 

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チキンラーメンへの道のり

それは他でもありません。一度は諦めたラーメンです。

このころ「経済白書」に「もはや戦後ではない」と言われるようになっており、終戦直後の深刻な飢餓は、既に過去のものとなっていました。

それでも、だからこそ、ラーメンの需要はあるはずだ。
百福はそう確信しておりました。

かといって、ラーメン店や屋台をやろうというのではありません。
あっという間にできる即席ラーメンを作る。
それが百福の考えでした。

百福の考えた成功に必要な条件はこの5つ。

・飽きの来ない味
・常備できる保存性
・手間いらず
・安価
・安全かつ衛生的

なんてアイデアを出したところで、ラーメン作りに関してはズブの素人です。国民栄養科学研究所の研究員の助けも借りられません。

もちろん諦めたりはしません。
百福は裸電球を吊り下げた小屋を自宅そばに作り、自転車で調味料や調理器具を運び込むと、朝の5時からヘトヘトになるまでラーメン作りに没頭しました。

睡眠時間は2時間から4時間。ナポレオンや野口英世も驚きそうなハードワークぶりです。

百福が研究に使った台所の復元(カップヌードルミュージアム)/Wikipediaより引用

試行錯誤の日々は続きます。
材料は小麦粉だけではなく、片栗粉、山芋、チキンエキス、ほうれん草、脱脂粉乳までも使ってみました。
麺を作り、茹でて、失敗した麺は捨てる。ひたすらその繰り返しで、まさに気の遠くなる作業だったでしょう。

それでも粉にまみれて、一心不乱に麺を作り続けました。
昔、身につけた自炊経験が、役に立ちました。

掘っ立て小屋でひたすら麺を作る男。それも鬼気迫る姿であれば、ご近所さんも何だろうと不思議に感じたでしょう。

 

麺の表面に小さな穴が空きお湯をかければ水分を吸収

ようやく理想的な麺の配合が決まると、次は味付けです。
百福の理想は、最初から味の付いた麺でした。

じょうろを観た百福はピンと来ました。
スープをじょうろでかけて、乾燥させればよいのです。

次の問題は保存性。これも難題です。
アタマを抱えながら、天ぷらを揚げている様子を見て百福はは閃きました。

「これだ!」
試しに油に麺をパラパラパラと入れてみると……。
カラッと堅く揚がる麺。
油に通すことにより、麺の表面には小さな穴が空きました。ここから水分を吸収させれば、水をかけたときに以前の状態へ戻すことができます。

更に百福は試行錯誤を重ね、麺をあげる時、枠に入れて一定の形に成型するようにしました。
我々の知るチキンラーメンに段々と近づいてくるのがわかりますね。

ここでいったん小休止。

さて、この「チキンラーメン」。
そもそも何故「チキン」なのでしょうか?
「ビーフ」でも「ポーク」でもなく、なにゆえ鶏なのか。

キッカケは少々時間を遡ります。

ある日、安藤家では鶏をしめて食べることにしました。
このとき、仮死状態だった鶏が暴れて血が飛び散り、子供たちはその様子がトラウマになって、鶏肉を食べなくなってしまったのです。

しかし、鶏肉でだしを取ったスープだけは、美味しいと飲み干します。
それがヒントになったのです。

「よし、味は鶏肉にしよう!」

結果的にこれが大成功の要因となりました。
チキンスープは世界各国で好まれる味。ビーフならばヒンズー教徒、ポークならばイスラム教徒が口にできなかったはずです。

チキンラーメンは、出だしからして国際的な展開が約束されたような、運命の食品でした。

 

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「瞬間油熱乾燥法」ついに完成す!

麺の揚げ方が決まり、味は鳥にチョイス。
さて、ここからいよいよ大量生産のテストです。

百福は、試作の機械で次の工程に挑みました。

1. 生地をローラーにかける
2. 細く切る
3. 麺を蒸す
4. 麺をほぐす
5. 蒸した麺にチキンスープをまぶす
6. 麺をすのこに並べて陰干しする。このとき麺の水分は40パーセント程度にする
7. 枠に8食分入れて160度の油であげる
8. 扇風機で冷ます
9. 包装する
10. ダンボールに30食詰めて完成!

途中で百福が機械で指を切断しかける事故がありましたが、これがうまくいきました。
家族も手伝いながら、一日で400食を作成。
「瞬間油熱乾燥法」の完成です。

世界を変え、愛される食品がいよいよ誕生したのです。

 

チキンラーメン発売開始 そして大ヒット!

大阪梅田の百貨店地下に、食品売り場の試食コーナーがありました。

昭和33年(1958年)8月、そこにいたのはスーツを着込んだ百福。
テーブルの上には丼と箸、そしてやかんだけ。
丼の中には、誰も目にしたことのない“奇妙な糸の塊”が入っていました。

「お湯をかけてたった二分! ラーメンですよ、是非めしあがってください!」

足を止めた客が興味津々、その様子を見ていると、あらフシギ!
糸の塊にお湯が注がれると、ふくれあがり、ほぐれ、麺に変わっていくではないですか。
まるで魔法か手品。そんな驚きの表情を浮かべ人々は足を止めます。

驚くのはこれから。
試食客に丼を渡し、一口すすらせると驚嘆の笑みと共に言葉が溢れ出てきました。

「うわ、これ、ほんまにラーメンやん!!」
「おっちゃん、こっちも買うわ!」
「どれ、ワシにもちょいと……」

食で人を幸せにしたい百福が見たかった笑顔が、そこにはありました。

チキンラーメンはあっという間に完売御礼となります。
アメリカの貿易会社でも大好評でした。

「食はボーダーレス、国境はない」
ラーメンが好きな日本人だけではなく、アメリカ人にも好評であるということに、百福は手応えを感じたのです。

この年の12月、「日々清らかに豊かな味を作りたい」という願いのもと、百福は社名を「サンシー殖産」から「日清食品」に変更しました。

しかし流通関係者は当初渋い顔を浮かべておりました。
チキンラーメンも日清食品も、当時は知名度ゼロ。ヒットするかどうかは不明……というより価格も割高で無謀に近い。

「こんなん乾麺と同じやん。うどん一玉6円、乾麺25円やで。35円で売れるわけないやろ」
といった調子で酷評されていたのです。

それでも百福は確信していました。
チキンラーメンは従来の乾麺とはまるで違う、新しい食品である。
一度食べれば絶対にその違いがわかるはず、人々は絶対に飛びつくはずだ、と。

その通りでした。
一度食べると味と手軽さは人々を虜にして、爆発的に売れ始めるのです。
当初は渋い顔を浮かべていた流通業者も、もっと売ってくれとせがむようになります。

他ならぬ消費者が「もっともっと欲しい」と訴え、無視できなくなったのでした。

 

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健康食品だった!?

栄養価は低く、塩分過多で、添加物も入っている――。
現在ではジャンクフード的ポジションに置かれるインスタントラーメンですが、当時は違いました。

栄養価が高い食品としてチキンラーメンは注目を集めます。

なんせ塩分摂取量にさほど厳しくない頃は、
「ラーメンのスープは栄養が含まれています。残さずお飲み下さい」
と言われていたほどでした。

これは何も百福や日清食品がデタラメに掲げた情報ではなく、国立栄養研究所所長に調査依頼をした結果のことでした。
鶏肉の様々な部分から高い栄養価が抽出されていたのですね。

そして百福はこの結果を厚生省にも持ち込みました。
結果、厚生省は「妊産婦の健康養補給商品」に推奨したぐらいです。
チキンラーメンが健康食品というのは、現代からすれば驚かされますね。

この後にも、チキンラーメンはビタミン添加をして、1960年(昭和35年)には「特殊栄養食品」の認可を取得。現在の栄養価は、日清食品公式サイトに掲載されています。
確かにビタミンB2、ビタミンB1が含まれていますね。

食べ方としては上に卵を載せるのが有名ですが、これは単に美味しいだけではなく、栄養価を補う上でも優れていました。

ちなみに百福は、健康の秘訣を尋ねられると「毎日、昼食にチキンラーメンを食べていますから」と答えていたそうです。

 

テレビとインスタントの時代ががっつりマッチ

日清食品といえば、斬新な広告でも有名です。

特に1990年代前半に放映された
「ハングリー? カップヌードル! 日清!」
のコマーシャルは国際広告映画祭グランプリを受賞したほど。

 

実はこの斬新な広告スタイルは、初期の頃から有名でした。

チキンラーメンを売り出した当時、日本でもテレビが普及し始めました。
初のテレビ局開局は1953年で、爆発的に普及したのは1959年の皇太子ご成婚パレードから。チキンラーメン発売開始のタイミングとちょうど一致します。

百福は、チキンラーメンが軌道に乗るとすぐにテレビ広告を打ち出しました。

 

テレビとインスタント食品の普及には、関連性があると言えます。

1950年代、アメリカやヨーロッパでも「テレビディナー」と呼ばれる食品が登場しています。
当初はオーブン、のちに電子レンジで調理することを念頭としたこの食品は、テレビを見ながら作ることのできる食事として普及しておりました。

ちょうどこの頃、欧米では、女性が積極的に働きに出るようになっていたのです。
そして日本でも高度成長期と呼ばれる時代へ突入。チキンラーメンのみならず、インスタントコーヒー、家電製品が大流行しておりました。

時代のニーズは、まさに家事の簡素化を求めていたのですね。

 

全国区への拡大と類似品との戦い

1960年2月、拡大するニーズに応えるべく、日清食品は新工場をオープンさせました。

一日10万食を作るこの工場の前には、一刻も早く出荷すべく、トラックがずらり。
しかし、ブームになると問題も出てきます。

「類似品の横行」です。

当時は今ほど特許に厳しくなく、ヒット商品のパチもん・パクリ物が横行するのは当然の状況。
もはや嫌な予感しかしませんが、あるとき日清食品に「チキンラーメンで中毒を起こした!」という訴えが入りました。

しかし、製造過程を調べても、問題はない。
古いものを食べたのか。
そんな風に疑いもしましたが、原因は別のところにありました。中毒を起こした人は、他者の粗悪な模造品を食べていたのです。

こうしたコピー品騒動を何とかしようとしても、対策は追いつきません。
ついには食糧庁(2003年廃止)がこう言い出します。

「業界で協力しなさい」

税金貰って何やってんだか。と言いたくなりそうなところですが、百福はこれまた前向きに捉えます。前向きというよりもシンプルにリアリストなんでしょうね。
果てしなきイタチごっこで消耗するよりは、業界で一致団結してよりよい食品作りを目指したほうがよい。

かくして1964年、「社団法人日本ラーメン工業協会」(現日本即席食品工業協会)が設立され、百服は初代理事長となりました。
私たちが現在、様々なメーカーのインスタントラーメンを安心して食べられるのも、こうした百福や業界協力のおかげなのですね。

1970年代までに、日本では年間35億食のインスタントラーメンが消費されるようになりました。
まさに国民食です。

 

絶え間なき挑戦 次はカップヌードルへ

チキンラーメンで大成功を収めても、走ることを止めない百福。

それはアメリカで海外視察の際に見かけた光景でした。
日本と違い現地には丼がないため、紙パックにチキンラーメンを入れて食べていたのを見て思いつくのです。

「最初からパックに入れたインスタントラーメンを作ってみたら、どうだろう?」

1966年から温めてきたこのアイデアを、百福はついに着手することにしました。
が、道のりは険しいものでした。

最初の難関は、もちろん容器です。

試行錯誤の結果、紙パックではなく発泡スチロール(ポリスチレン)にしました。
断熱性が高く、持ち運びやすく、かつ低コストで製造できるのが強みです。

今ではほとんど見かけなくなりましたが、少し前までは発泡スチロールが当たり前だったのを読者の皆様もご存知でしょう。
そして技術大国となった現在では考えにくいかもしれませんが、当時の日本のテクノロジーでは、その容器をうまく作ることができませんでした。

そこで百福は、アメリカ企業と合弁会社を新たに設立。
こだわったのは片手で持てるようなデザインでした。

今日では当たり前の手の平サイズのあのカップ型ですが、当初はまだ手探りで、百福は130種類ほどのサンプルを作らせ、枕元に置き、日夜考えます。
朝、目が覚めると容器を手に取り、気に入らないものを排除する消去法です。
しっくりくるもの、という自身のフィーリングを頼りに模索し続けました。

 

無理ならアイデアを絞り出す!

しかし、なかなかクリアできない問題が残りました。

発泡スチロール独特の臭いです。

現在では紙製品のカップが主流ですが、微かに残るあの臭いをご記憶の方もおられるでしょう。

そんな臭みをできるだけ抑えるにはどうすればよいか?
試行錯誤を繰り返していたある日、百福は、ブリキ製の菓子缶に容器と熱湯を入れて、一晩放置しました。
と、これが大成功。この経験を元に、容器を除臭室に入れて熱風をかける方法が採用されます。

次は蓋です。
インスタント食品の保存能力を最大限に活かすには、密封性を堅持することは避けられません。
密封するにはどんな仕組みにするのがよいか。

アメリカ出張からの帰路、飛行機内で百福の手にマカデミアナッツの小さな容器が配られました。

紙にアルミホイルをつけたその蓋に、百福ははっとします。お土産用にと一つ余分にもらうと、大事に持ち帰りました。
そしてこの容器をヒントに、おなじみのアルミ蓋を作り上げたのです。

容器と蓋ができれば、いよいよ中身。チキンラーメンより分厚くなる麺をどうするか。こげてしまわないかと心配していましたが、実際に揚げてみるとうまくいきました。
具は素材にこだわり、当時は珍しかったフリーズドライを採用。味だけではなく、蓋を開けた瞬間カラフルな具材が見えるように工夫をこらしました。

画像を見ると、すぐさまコンビニへ走りたくなりますね。

さて、こうしてできた容器と中身でありますが、無事に入れることができなければ意味がありません。
実際、容器の上から麺を入れようとするとバラバラになってしまい、袋詰めのチキンラーメンよりはるかに難しそうでした。

ここで思いついたのが、麺をカップに入れるのではなく、麺にカップを被せる手法でした。
ほんとアイデアマンと申しましょうか。

これにてようやくカップヌードルの完成となったのです。

 

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極寒の長野 浅間山荘事件が後押しとなった

昭和46年(1971年)、ついにカップヌードルが販売開始されました。

しかし、チキンラーメンほど爆発的に火が付きはしません。
そこで日清食品はあるイベントを仕掛けます。
見目麗しきモデルたちが歩きながらカップヌードルを食べる、というものです。

「あのモデルが食べているのは何?」
流行に敏感な若者は気になって仕方ありません。

当時の日本人からすれば、立ったまま食事をするというのは、マナー違反で、だらしがないとされていました。
しかし若者はそんなことは構いません。
格好いいことなら、真似したいわけです。

銀座三越前で試食イベントを開くと、ジーンズやミニスカート姿の若者たちが、立ったまま平気でカップヌードルをすすりました。
これも百福の読み通り。
アメリカで、百福は立ったままハンバーガーを食べる若者を見ていました。

「いずれ日本人もそうなるだろう」
眉をひそめるどころか、そう確信を持って、百福は流行を作り出してきたのです。

見た目にもこだわっておりました。
パッケージデザインは、大阪の日本博覧会シンボルマークのデザイナーである大高猛に依頼。
言わば名実ともに揃った状態となったのですが、それでも売上はジリジリとしており、苦闘の日々が続くのです。

値段が割高で、立ち食いへの抵抗感がネックでした。
販売場所を増やすために、お湯の出る自動販売機を投入する工夫をこらしはしましたが、それでも大々的な効果は上がりません。

 

そんな苦境を劇的に変えたのが、昭和47年(1972年)2月。
「あさま山荘事件」でした。

場所は冬の長野県。
山荘を取り囲む機動隊員たちは、寒さのあまりたちまち凍ってしまう食事に難儀しておりました。
そこで提供されたのが、熱いまま食べられるカップヌードルだったのです。

浅間山荘事件でお馴染みの浅間山荘/Wikipediaより引用

そしてその姿は、視聴率90パーセントを越えたとされるテレビ中継に乗って全国へ流されました。
日本中が固唾を呑んで事件を見守る中、捜査員がすするカップヌードルにも注目が集まったのです。

「あれ、何、食ってんだ?」
「なんだろう? 私も食べてみたい」
ツイートのない時代でも、興味を引かれた人が続出。
この事件以降、カップヌードルは爆発的に売れるようになったのでした。

 

ひっそり消えたカップライス ぶっこみ飯とは別物です

発売する商品が次から次へとヒットする。
そんなイメージの日清食品ですが、幻と消えたものもあります。

カップヌードルのあと、古米の処理に悩んだ食糧庁から、その処理を依頼されました。
そこで百福は「カップライス」を作りました。

政治家たちが試食すると、皆が絶賛。
事前の注文も好調で、これは新たなヒット商品になるかと思われたのですが……。
追加注文はほとんどありませんでした。

百福が慌ててスーパーを回ると、買い物客はカップライスを手に取っても、結局はラーメンの方を選ぶのです。
原材料が米のため、麺より価格が高くなってしまうのが大きな敗因。かくしてカップライスは、ろくに売れないまま、ひっそりと姿を消してしまいます。

この失敗は、50億円もの損害を出してしまいました。

しかし時は流れて平成29年(2017年)。

日清食品からカップヌードルの汁にご飯を入れた味を再現したという、カップヌードルぶっこみ飯なる新商品が登場したわけでして。
百福の発想は、ちょっと時代の先を行きすぎていたのかもしれませんね。

 

「食足りて世は平らか」(食足世平)の精神

昭和60年(1985年)、百福は引退し社長の座を息子に譲りました。

リタイアライフを悠々自適に……と思いきや、その10年後の平成7年(1995年)、文字通りの激震が関西地方を襲います。

「阪神・淡路大震災」です。

阪神淡路大震災直後の阪神高速3号神戸線/写真提供:神戸市

真冬の早朝に関西一円を襲った恐怖の天災。

全国ネットで放映されるテレビ画面には、あのときと同じく壊滅した市街地、戸惑うばかりの被災者たちが映し出されておりました。
百福の脳裏には、戦後の焼け跡で飢えていた人々の姿が浮かんでいたのです。

阪神淡路大震災直後の長田区鷹取商店街周辺/写真提供:神戸市

そこで当時85才の百福は、日清食品で救援隊を組織するよう自ら命じます。

給湯機能つきのキッチンカーとライトバンが、1万5千食ものインスタント麺を載せて、避難所へ。
交通網が寸断される中、半日かけてインスタントラーメンが届けられます。

・平成16年(2004年)の新潟中越地震
・平成23年(2011年)の東日本大震災
・平成28年(2016年)の熊本地震

日本列島の巨大地震の多さに思わずゾッとさせられますが、人々が飢えに苦しめられているとき、日清食品はあたたかいインスタント麺を提供し続けてきました。

それは戦後の焼け跡でラーメンをすする人々を見て、百福が思った創業理念「食足りて世は平らか」に基づいた行為なのです。

 

いつまでも止むなき挑戦 96才での大往生

百福の挑戦は、最晩年まで終わりません。

平成17年(2005年)、日清食品が4年の歳月をかけて作り上げた宇宙食「スペース・ラム」が、NASAから正式な認可を受けました。

そして国際宇宙ステーション内で野口聡一飛行士が「スペース・ラム」を食べる中継映像が流れるのです。

宇宙空間で食べるための工夫は大変なものでしたが、日清食品はそれをも克服。

「人生に遅すぎるということはない」
スペース・ラムでの成功を見て、百福はしみじみとそう言いました。

そして平成19年(2007年)、百福は96才で大往生を遂げます。

死の直前までゴルフをし、健康そのもの。彼を元気溌剌にしていたのは、挑戦を忘れない心を持っていたためか、それとも毎日食べ続けていたチキンラーメンのおかげなのか。それとも両方でしょうか。

ニューヨークタイムズ紙は彼の死を追悼し「ミスター・ヌードル」と百福を讃えました。

多くの人の腹を満たし、幸せにしたいと願い続けた百福の人生。その思いは現在も引き継がれ、日本のみならず世界中の人々が彼の発明したインスタント麺を味わっています。

世紀の発明家、安藤百福。

文:小檜山青

【参考文献】

インスタントラーメン誕生物語―幸せの食品インスタントラーメンの生みの親・安藤百福 (PHP愛と希望のノンフィクション)

 




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