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安藤百福像

まんぷく

まんぷくモデル安藤百福の生涯96年をスッキリ解説! 日清食品の誕生物語

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「人生何が起こるかわからない。カーネル・サンダースだって60過ぎてからフライドチキンを始めたんだ」
そんな台詞をハリウッド映画の中で聞いたことがあります。

いかにもアメリカっぽい喩えですが、これがもし日本であれば、ピッタリ当てはまるのが安藤百福(あんどう ももふく)ではないでしょうか。

齢50才を目前にして、仕事も財産も失う――そこからインスタントラーメンを作り上げ、日本の国民食、いや世界に愛される食品にした男。

一言で言えば、それが安藤百福です。

彼は一体どんな発想で、いかなる工夫をして、インスタントラーメンを世に生み出したのか。

NHKの朝ドラまんぷくモデルにもなった偉人の生涯を、生い立ちから追ってみたいと思います。

※文中敬称略

 

台湾で生まれ育ち、料理が得意な少年に

ときは明治43年(1910年)。
当時、日本の領土であった台湾・嘉義庁(現在の嘉義市・かぎし)で百福は誕生しました。

ハレー彗星接近の年に生まれたこの子を、祖父は「彗星の申し子」だとして喜んだ――そんな話も伝わっております。

百福は、もとの名を「呉百福」と言い、のちに日本へ帰化するのですが、両親は幼い頃に亡くしております。
彼は、2人の兄&2人の妹と共に、台南州(現在の台南市)へ移り、織物販売業を営む裕福な祖父母のもとで育てられるのでした。

当時を偲ばせる台南庁舎の絵葉書/Wikipediaより引用

祖父は厳しい人でした。
マナーや家事の仕方を孫たちにしっかりと仕込み、自分の面倒は自分で見るよう躾けます。彼らの工場には多くの職人たちが出入りをしており、いつも賑やかな環境でした。

常に商売と身近な場所で育った百福は、ものづくり、商売に興味を持つ少年に育ちます。
そろばんを触って遊ぶこともありました。

躾どおり幼い頃から掃除、洗濯、調理を学び、自立心も旺盛。
高等小学校(現在の中学校)に上がると、誰に言われるまでもなく、自分と妹たちの朝食と弁当を作るようになります。
やがて妹二人と祖父母の家を出て暮らしたいと言い出し、許されました。

百福が得意なのは、なんといっても料理です。
「男子厨房に入らず」
という、戦前を表すような古き言葉も、百福には当時からまったくあてはまりません。

台湾の豊かな食材、調味料、香辛料。
様々な調理法を試して食事を作ることは、辛いどころか楽しいことだったのです。

料理の腕前だけではなく、好奇心も旺盛で、常に新たな味を模索していました。
これが後の業績へと繋がっていくのです。

食材豊富な台湾の揚げ物屋台

また百福は、在学中に友人の推薦で司書となりました。
退屈な仕事ではありますが、仕事の合間に様々な本を読み、知識を身につけることが出来たのも後に役立ったのでしょう。

そして昭和7年(1932年)、22才になった百福は起業を決意。
目を付けたのは、当時まだ珍しかったメリヤスでした。
現代では「ニット」と呼ばれる製品です。

百福は亡父の残した資金を元手に、台北で「東洋莫大小」(東洋メリヤス)という会社を興します。
そしてその翌年の昭和8年(1933年)には、会社の本拠地を日本の大阪へと移すのでした。

 

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大阪で起業間もなく戦争が始まった

大阪に拠点を映した百福は、様々なアイデアで会社を発展させようとします。

社長自ら各地の工場に足を運び、顧客の注文をもとに独自の太さで糸を作る――そんな百福の丁寧な商売は人気を博し、成功をおさめました。
当たって砕けろ精神で、当時の繊維業大手であった「丸松」にアポなし訪問をすることも。
また奇想天外なアイデアにも取り組みました。

百福は、蚕(かいこ)にヒマ(トウゴマ)の葉を食べさせると、桑の葉よりも成長が早くなることを知りました。
そこで考えたのです。
「蚕にヒマの葉を食べさせて、蚕から絹糸を、ヒマの実から油を取れば一石二鳥だ!」

しかしそんな斬新な思いつきも、戦争拡大を前に社会情勢が厳しくなり、実現には至りません。

飛行機の潤滑油に利用できたため栽培を奨励されたヒマシ油/Wikipediaより引用

昭和16年(1941年)、12月8日。
台湾出張中の百福は、日米開戦の報をラジオで聞いて、仰天しました。

『もはや商売どころではない』
中国、アジア、そしてアメリカへと、無限に広がりつつある戦線の拡大。

そんな最中でも様々なアイデアを考えていた百福ですが、軍用機エンジン部品に手を出したことが、彼の運命を暗転させます。

ある日、エンジン部品資材が誰かに盗まれてしまいました。
憲兵隊にそのことを通報すると、イキナリ逮捕されてしまったのです。

「本当は貴様が横流ししたんだろ! 他人に罪をなすりつけるつもりか!」

あらぬ罪を押し付けられた百福は留置所で過ごすことになりました。

留置所内では、殴る蹴るの暴行が日常で、百福は棍棒で腹部を殴打され、正座した足の下に竹を入れられるといった拷問を受けました。
食事を取ることさえままならない日々。
百福は飢えを味わい、食物の大切さを噛みしめます。

幸い、知人の口添えがあり、拘束は45日間で済みました。
が、出所後も、商売どころではありません。
大阪は連日の空襲により焼け野原と化していたのです。

そして昭和20年(1945年)、8月15日。
疎開先の兵庫県で、百福は玉音放送を聞いたのでした。

焦土と化した大阪(左側に見える線路は南海電鉄)/Wikipediaより引用

 

闇市でラーメンのために並ぶ人々

日本が敗戦を受け入れると、百福は、前年に結婚した妻とともに、疎開先から大阪へ戻りました。

街は酷い有様でした。

とにかく食べる物がなく、人々は芋の蔓まで口にするような状況。
ラーメン一杯のために列を作る人々の姿は、百福に強烈な印象を与えました。

闇市でカストリ酒を飲む人々/Wikipediaより引用

「人間は一杯のあたたかいラーメンを食べるために、あんなにも並び、待つものなのか。衣食住が生活の基本というが、何と言っても“食”こそが大事ではないか?」

食の大切さを百福は痛感します。
と言ってもすぐにインスタントラーメンに取り掛かるのではなく、戦後は、無償で払い下げられた土地で製塩業を始めました。

薄い鉄板を並べ、そこに海水を流し、太陽光で熱して凝縮する製塩。
さらに彼は、漁船二艘で鰯を捕り、干物にして売り出します。
人を幸せにしたいと願う百福は、売れ残りの塩や、塩にのりを加えたふりかけを近隣の人々に配りました。

そんな彼を慕い、多くの若者たちが百福の工場に出入りするようになります。

百福と妻はそんな若者達を、優しく迎えました。
時にはそんな若者がいたずらをして警察に睨まれることもありますが、日本の未来を担う若者だからと、百福は庇いました。

若者の育成のため「中華交通技術学院」という学校も作りました。
食べることで人を幸せにする――そんな小さな一歩は、焼け跡の工場から始まったのでした。

 

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「そんなに言うなら、自分でやったらどうです?」

昭和23年(1948年)、百福は製塩工場を「中公総社」から「サンシー殖産」という名に変更しました。
同じころ「国民栄養科学研究所」を創設します。

終戦後3年経ったにもかかわらず、日本は食料難でした。粗悪な食品しか手に入らず、栄養失調になる人もたくさんいたのです。

百福はそんな状態を憂い、高栄養価の病院食を作ろうとしました。

思いついたのが、食用ガエルのエキスです。
日本で食用ガエルはあまり一般的ではありませんが、中華料理では栄養価の高い食材として重宝されています(日本でも本格的なお店では食べることができますので、興味のある方はどうぞ)。

百福はこのカエルを圧力釜に入れまして。
そのまま電熱器にかけて2時間放置しました。すると圧力釜が大爆発を起こしてしまったのです。

このときの掃除は大変だったそうですが、飛び散ったカエルはこのあと百福と妻でおいしくいただいたそうで。
味はよく、出産直後であった妻は体力も回復します。

カエルは失敗したものの、百福は諦めません。
今度は、牛や豚の骨から抽出したエキス「ビクセイル」の商品化に成功。優秀な病院食として、厚生省(現厚生労働省)からも認められました。

ビクセイル開発のために厚生省に出入りするようになった百福は、ある疑問が芽生えます。

当時、厚労省の指揮の下、余剰物資の小麦でパンやビスケットが生産されていました。
日本人の口にあうのはそうしたものよりも麺類だろうに、とアタマを働かせたのです。

【日本人はラーメンが好きだ!】
そこで百福は、小麦で麺類を作ったらどうか?と提案しますが、相手にされません。

「そんなに言うなら、あなたがやってみたらどうですか?」
と突き返され、途方に暮れるのみ。
国民栄養科学研究所の研究員も「ラーメンの研究なんて……」と渋ります。

このときはいったんラーメン作りを諦めた百福。その挑戦は、持ち越されることになるのです。

故郷・台湾の牛肉麺

 

ここで、日本におけるラーメンの歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。

かん水を用いた中華麺が初めて日本で作られたのは、15世紀とされています。
17世紀には、滅亡した明から亡命してきていた朱舜水が、中華麺を水戸光圀に振る舞ったとされています。

しかし、一般的に広まることはありません。
庶民も口にするようになったのは、明治の開国以降です。中国大陸や台湾からの留学生、出稼ぎ労働者たちが、中華料理を広めるようになったのです。

20世紀に入ると、中華料理店やラーメン店が開業しました。
太平洋戦争の最中に閉店したものの、戦後闇市で復活。百福が見たのはまさにこのラーメンでした。
それだけ日本人の口に支持されていたのですね。

ちなみに現在のラーメンは庶民的な食べ物であり、健康に悪い食品の代表格のように言われることもありますが、かつてはそうではありません。

叉焼の肉、栄養分が溶け込んだスープは栄養価たっぷり。
特別な日のごちそうでした。

 

脱税容疑で巣鴨プリズンへ

この年、百福は意外な落とし穴にはまります。
集まってくる若者へ小遣い代わりに渡していた金をめぐって、脱税疑惑をかけられるのです。

「小遣いではなく、あれは給与だ。源泉徴収して税金を納めなさい!」

そんな理由で、戦犯も収容されていたあの巣鴨プリズンに2年間も収監されてしまうのです。

戦後、多くの戦犯も収容されたことで知られる巣鴨プリズン/Wikipediaより引用

やっと処分取り消しを受けて、出所したのは昭和26年(1951年)のこと。
再出発をはかろうとした百福ですが、またも落とし穴にはまってしまいます。

知人に頼まれ、信用金庫の理事長になるのですが、杜撰な経営がたたってあっという間に経営が破綻してしまうのです。
昭和32年(1957年)のことでした。

残ったのは借家のみ。
妻子を抱えて、47才で味わうドン底です。
「人間五十年」と考えますと、もう残り数年ということになります。普通の人でしたら心身ともに疲弊して、寂しい生活が待っていたことでしょう。

しかし、百福は諦めません。
「失ったのは財産だけ。その分、経験が血や肉となって身についた」
という……なんて前向きなハートでしょうか。

これは強がりなどではなく、彼にはあるアイデアがありました。

 

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チキンラーメンへの道のり

それは他でもありません。一度は諦めたラーメンです。

このころ「経済白書」に「もはや戦後ではない」と言われるようになっており、終戦直後の深刻な飢餓は、既に過去のものとなっていました。

それでも、だからこそ、ラーメンの需要はあるはずだ。
百福はそう確信しておりました。

かといって、ラーメン店や屋台をやろうというのではありません。
あっという間にできる即席ラーメンを作る。
それが百福の考えでした。

百福の考えた成功に必要な条件はこの5つ。

・飽きの来ない味
・常備できる保存性
・手間いらず
・安価
・安全かつ衛生的

なんてアイデアを出したところで、ラーメン作りに関してはズブの素人です。国民栄養科学研究所の研究員の助けも借りられません。

もちろん諦めたりはしません。
百福は裸電球を吊り下げた小屋を自宅そばに作り、自転車で調味料や調理器具を運び込むと、朝の5時からヘトヘトになるまでラーメン作りに没頭しました。

睡眠時間は2時間から4時間。ナポレオンや野口英世も驚きそうなハードワークぶりです。

百福が研究に使った台所の復元(カップヌードルミュージアム)/Wikipediaより引用

試行錯誤の日々は続きます。
材料は小麦粉だけではなく、片栗粉、山芋、チキンエキス、ほうれん草、脱脂粉乳までも使ってみました。
麺を作り、茹でて、失敗した麺は捨てる。ひたすらその繰り返しで、まさに気の遠くなる作業だったでしょう。

それでも粉にまみれて、一心不乱に麺を作り続けました。
昔、身につけた自炊経験が、役に立ちました。

掘っ立て小屋でひたすら麺を作る男。それも鬼気迫る姿であれば、ご近所さんも何だろうと不思議に感じたでしょう。




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※ドラマのレビューは『まんぷく感想』をご覧ください。

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