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まんぷく立花福子モデル・安藤仁子(まさこ)92年の生涯「武士の娘の娘」は史実なれど……

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2018年後期の朝ドラ『まんぷく』。

ヒロイン・立花福子のモデルとなるのが安藤仁子(あんどうまさこ)であり、チキンラーメン産みの親・安藤百福の妻にあたる女性です。

ドラマでは、若くして名女優として知られる安藤サクラさんが演じ、注目度も俄然高まっている人物ですが、一般的にはその人となりもあまり知られておりません。

イラスト・小久ヒロ

劇中で母親役の松坂慶子さんが「武士の娘」という言葉を連呼しており、
「史実はどうなっているの?」
という疑問をお持ちの方もおられるでしょう。

立花福子こと安藤仁子とは、一体どんな人物だったのか。

92年に渡る波乱万丈の生涯を追ってみましょう。

 

「仁」の名のもとに生まれる

仁子は大正6年(1917年)、大阪で生まれました。

父・重信は福島県・二本松市の「二本松神社」の宮司二男として誕生(二本松市観光連盟)。
二本松神社は、二本松周辺の人々だけでなく、会津を治める歴代領主も信仰しにくるほど有名なところです。

この神社には幕末期、有名な宮司がおりました。
安積艮斎(あさかごんさい)です。

安積艮斎/wikipediaより引用

朱子学者としても有名であり、かの渡辺崋山とも交流があったほど。
彼が開いた江戸の私塾で教えを受けた人物は錚々たるものです。

岩崎弥太郎
小栗忠順
栗本鋤雲
清河八郎
高杉晋作
吉田松陰

そんな偉大な先祖・艮斎が好んだ徳目が「仁」です。

仁子もそこから名付けられたのでしょう。艮斎の偉業を伝えるため、地元製菓メーカーの「柏屋」は、ごんさい豆を販売しております。

二本松藩は戊辰戦争のとき東軍として戦い抜き、二本松少年隊の悲劇でも知られております。
おそらくや重信の家も、苦労をしたことでしょう。

二本松藩出身で、明治期に活躍した人物がおります。
朝河貫一です。

朝河貫一/wikipediaより引用

ダートマス大学を卒業後、日本人初のイェール大学教授までつとめあげた偉大な歴史学者。
太平洋戦争阻止にも尽力しました。彼は、重信の母方のいとこにあたるのです(二本松市HP)。

仁子は、こうした父から伝わった血を誇りにしていました。

もうひとつ、仁子が大切にしていた言葉があります。

それは、
「ならぬことはならぬ」
というものです。

会津藩の「什の教え」にある言葉で、大河ドラマ『八重の桜』のヒロインである新島八重も口にしておりました(会津藩校日新館)。

新島八重86年の生涯をスッキリ解説!最強の女スナイパーが同志社&赤十字に身を捧ぐ

二本松藩と会津藩は、戊辰戦争においてともに戦いました。
誇り高い東北の血と教えが、仁子の生き方としてあったのでしょう。

 

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安藤家の人々

重信は早稲田大学卒業後、宗像家の婿養子となるものの、事業に失敗して離縁されています。
実は彼の名は、安積艮斎と同じ重信です。

偉大な先祖にあやかったのでしょうか。再起をはかり、大阪まで出てきます。

重信は夢を持っていた人物でもあります。
タクシー運転手である傍ら、水力発電の計画に取り憑かれたこともあったとか。

一方、母の須磨は鳥取藩足軽の子孫です。

『まんぷく』では、須磨のモデルである鈴が
「私は武士の娘! 源義経の子孫です!」
と語っておりますね。

しかし、義経は妻子もろとも滅ぼされておりまして、ツッコミどころ満載です。おそらくや須磨は「鳥取藩士の子孫」と名乗っていたことでしょう。

母・須磨は、誇り高く娘にはこう教えていたとか。

「不満があっても、鯨のように飲み込むのです」

英語を得意としており、娘たちも外交官に嫁がせたかったようです。
教師を夢見たほどですから、賢く学問に興味を持っていて、娘にもそれを受け継がせたかったのでしょう。

武士の娘という矜持のある須磨は、夫がその当時の男らしく妾を持っていても、じっと耐え忍んだそうです。

須磨は自立の志を持っていた女性で、一旦は婿を迎えたものの、離縁して教師をめざし、母・みちのを伴い大阪に出てきました。
こうして夫妻は大阪で意気投合し、結婚に至ったわけです。

長姉・晃江(てるえ)は仁子の9歳年上。華やかな性格の美人でした。
内田有紀さん演ずる咲のモデルです。

白馬にまたがり断られるまで求婚していた歯科医も、実在したのだそうで、絵を描くこと、洋菓子が好きな女性でした。
しかし久保健治という貧しい会社員との結婚後、肺結核で夭折してしまいます。享年27。

次姉・澪子(みおこ)は7歳年上です。
控えめでしっかり者、姉の晃江とは違い、しっとりとした和服を好む地味な女性でした。

手のモデルをつとめたことから、19才で有元一雄という画家と結婚。計10人という大家族を切り盛りする生活でした。

杉元は商売っけがなく、家は常に火の車でした。
家計を助けるためか、冨巨代(ふくよ・タカのモデル)と効矩(きく)は仁子のお手伝いとして長いこと働いたようです。

 

苦労した少女時代

仁子の産まれた1917年は、時期的には第一次世界大戦の最中。
日本では経済的混乱が起こりました。

特に大正7年(1918年)の「米騒動」は、全国に拡大してゆきます。
食べるものにも困るような時代でしたが、大正ロマンの頃でもありました。

夢のある父。
教育熱心な母。
そんな家庭における仁子の少女時代は、華やかさもあるものでした。

とはいえ、それも父の商売が安定していればのこと。
重信の収入は浮き沈みがあり、夜逃げのように引っ越し、家財道具を売り払うこともありました。

しかし幼い仁子には、何が起きているのかわかりません。

生活は不安定で、重信は酒を飲み、暴れることすらありました。
そんな中でも、母の須磨は娘をキリスト教会の営業塾で英語を習わせていたのです。

須磨は、書道展に仁子が出展すると、大好物の梅を生涯口にしないと神頼みをしました。
そして死ぬまで須磨は、ついに梅を食べなかったのです。

教育熱心で誇り高い女性でした。

金蘭会高等女学校では、楽しい学生生活でした。

仁子は背の高さを生かす水泳選手として活躍。
ハリウッドスターの帝王的存在であった、クラーク・ゲーブルの美貌にうっとりとしていたと言います。

クラーク・ゲーブル/wikipediaより引用

桑原貞子、馬淵冨美子という友人にも恵まれました。
三人組で、よく遊んでいたようです。

仁子は成績優秀でトップクラス。
級長をつとめたこともあり、先生からも可愛がられていました。

しかし、三年目にして月謝が支払えなくなってしまいます。
仁子は、休学し大阪電話局で働き、復学後も、夜勤で家計を助け続けました。

そんな生活と窮乏のためか、成績は次第に下降。数学と、あれほど得意であった英語が苦手科目となってしまいました。トップクラスから、卒業するだけで精一杯にまで落ち込んでしまったのでした。

姉・晃江と祖母・みちのを失いながら、両親とともに大阪・十三で暮らす仁子。
そんな状況ながら、18歳のとき、六年がかりでやっと女学校卒業を果たしたのでした。

 

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戦火の中、百福との出会い

女学校卒業後、仁子は両親とともに、京都・醍醐にある姉の嫁ぎ先・有元家に身を寄せます。
そして「三条の都ホテル」(現・ウェスティン都ホテル京都)で働き始めました。

電話交換手は地味なもの。ロマンスはありません。いや、正確に言うとないわけではありません。
交換手が購買部で仕入れた缶詰を手にしてやって来たとか、フラれて自殺をはかった従業員もいたとか。

仁子は、恋愛には奥手であったのです。

このころになっても桑原貞子とは交流をしていました。
軍医である夫の戦死後、貞子は薬剤師となり百歳を超えてまで現役であったそうです。たくましい戦後を生き抜いた女性でした。

家族を自らの給料で養う苦しい生活の中、日本は暗い空気に巻き込まれてゆきます。

1937年(昭和14年)日中戦争開戦
1939年(昭和16年)第二次世界大戦開戦
1941年(昭和18年)太平洋戦争開戦
1942年(昭和19年)父・重信死去

戦時中という暗い時代の中、それでも仁子は母との暮らしを支えようと決意を固めます。
そんな彼女の働きぶりが評価され、フロント業務を任されます。

義理堅く真面目な仁子に、ある男性が惚れ込んでしまいました。

安藤百福です。
元陸軍中将・井上安正の紹介で出会いました。

一度は仁子に求婚を断られた百福ですが、
「好きなら攻めて攻め抜け!」
というアドバイスを受け、めげずに求愛し、やっと交際が実ったのです。

昭和20年(1945年)3月13日。
第一次大阪空襲の8日後、二人は京都で挙式しました。

夫は35歳、妻は28歳。
結婚を機に、仁子は十年間勤務したホテルを退職しました。

 

疎開生活、そして製塩業へ

さて、こうして書いてくると百福は女性経験に対して奥手であるかのように思えますが、そうではありません。
台湾に妻子がおりました。

台湾の第一夫人:呉黄綉梅
その長男:宏寿(ひろとし)
その養女:呉火盆

台湾の第二夫人:呉金鶯(来日後、帰国し再婚、この間に二男一女)

新婚夫妻には、仁子の母・須磨と、百福の先妻との間の子・宏寿という養うべき家族がいたわけです。

仁子は宏寿のことを気遣っていました。
それでも彼には複雑な思いがあったのか、知人の家を転々とし、成人後は中国大陸に渡ってしまうこともあったそうです。

のちに「日清食品」社長となるも、父と経営観が異なったためか、二年で身を引いています。

宏寿は知人に預け、上郡で疎開生活が始まります。
百福の機転で、戦時中であっても食糧には困らなかったようです。

電気やトリカブトを川に流し、うまく魚を獲ていたのでした。
夫妻は無事終戦を迎えられたのです。

ただし、悲しい出来事もありました。

夫妻の第一子である女児は、八ヶ月と予定より大幅に早かったこともあり、死産であったのです。

夫妻の悲しみと怒りは深いものでした。
戦時中とは、このような流産や死産、乳幼児の死が重なった時代でもありました。

疎開していた上郡は、塩の名産地である赤穂にも近い場所です。
アイデアマンの百福は、ここで製塩に興味を持ち自分なりに調べていたのでした。

終戦により、百福の事業は一からやり直しとなりました。

幸い貯金はあります。
百福はビジネス上での知人である久原房之助から、土地を買うように助言を受けております。

そして夫妻は泉大津に居を構えました。
この土地には、造兵廠(ぞうへいしょう・武器弾薬工場)がそのまま残されていました。

管理している大阪鉄道局に掛け合い、払い下げをしてもらったのです。そこにある物資を元に、赤穂で見てきた製塩事業を始めようと百福は思い立ったのでした。

百福は顔の広い人物でした。
田中義一・龍夫父子、佐藤栄作とも交流があったほどです。

田中義一/wikipediaより引用

こうした政治家は、こう口にしていたものです。
「今の街中には、働くあてもない若者や戦災孤児がうろうろしている」

その通りでした。
軍を辞めるなり、戦地から引き揚げるなりしたものの、働く場所や家を失ってしまった若者たち。
両親も家もない孤児たち。
そんな行く当てもない人々があふれていたのです。

百福は、こうした若者を雇用し製塩業を行うことにします。

鉄板を海辺に並べ、海水を濃縮する製塩の工夫は、通常の塩田よりはるかに効率的だと彼は誇りに思うほどでした。

余った塩を近所に配り、漁船でイワシを採る日々。
仁子は女学生時代から得意としていた水泳を楽しむこともあったそうです。




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水泳が苦手な百福は、妻について行くことができなかったのだとか。
そんな楽しい日々でした(続きは次ページへ)。

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