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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

合戦に明け暮れた足利尊氏の生涯 尊氏を知れば鎌倉幕府の滅亡から南北朝~室町幕府の成立まで全部見える

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人の心は複雑なものです。
そもそも心や感情が先にあって、理屈が生まれたのは後でしょうから、後付の仕組みに当てはめようとすることそのものが屁理屈なのかもしれません。
歴史上の人物の場合は、当時の上京や史料などがあるので、リアルな人間関係よりは推測しやすいところがありますが。
本日はその辺を手がかりにしながら、一見不可思議な行動が多いあの人の生涯を見ていきましょう。

正平十三年・延文三年(1358年)4月30日は、室町幕府初代将軍・足利尊氏が亡くなった日です。
有名な人ほどメインで扱ったことがないという当コーナー特有の現象により、今の今まで尊氏の生涯をきちんと書いたことがありませんでした。何ででしょうね。(もしかしなくても:ボケ)

まあそれはともかく、彼の初名は”高”氏なのですが、例によって”尊”氏で統一しますね。

【TOP画像】広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/Wikipediaより引用

足利尊氏の画と言えば、こちらの騎馬武者姿が有名だが、現在こちらは家臣の河野師直ではないかと言われている/Wikipediaより引用

 

下野に由来する地名だが実際は鎌倉に滞在!?

よくある話で、尊氏の出生地がどこなのかははっきりしていません。

足利氏はその名の通り下野国足利(現・栃木県足利市)を本拠とするわけですが、鎌倉幕府ができてからは源氏の名家のひとつとして鎌倉にいることが多かったからです。
また、母が上杉氏の出身だったため、その本拠地だった丹波国上杉荘(現・京都府綾部市)で生まれただろうという説も有力になっています。
そのため、「もしかすると、尊氏は足利に行ったことがなかったのでは?」ともいわれています。新田義貞が鎌倉幕府にモブ扱いされ、地元で苦労していたのとは対照的ですね。

ちなみに、足利家と新田家の初代は兄弟同士ですので、まさに血を分けた一族だったりします。末路は全然違いますけどね……。

そんなわけで生まれた場所はわからないのですが、その代わりかのように生まれたときから微妙な立場にあったことははっきりしています。

実は尊氏は、父の正室生まれでもなければ、庶出の長男でもなかったのです。正室生まれの兄・高義がいて、順当に行けば彼が足利家を継ぎ、尊氏は弟・直義とともに長兄を支えていくことになっていたでしょう。
しかし、高義が若くして亡くなってしまい、その子供たちはまだ幼少ということで、尊氏が跡目を継ぐことに……なりませんでした。

長兄が亡くなったとき、尊氏は12歳。まだ元服はしていませんでしたが、これに合わせて元服をし、兄の代わりに跡を継いでも不思議ではない歳です。なのに父・定氏はそうせず、なぜか自分が再登板しています。

「正室の血筋を引く少年を当主にするのは心もとないが、だからといっていきなり側室生まれの次男に継がせると後々面倒そう」
といった考えだったのでしょうけれども……。この摩訶不思議な思考回路は、後の尊氏とも少し似ている気がします。
親子って、似てほしくないところが似るものですよね(遠い目)

 

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父親がなくなり、27歳でようやく足利当主に

15歳で元服した後もすぐには家督を継がせてもらえず、しばらくの間は日陰とも日向ともいえない場所に置かれた尊氏。非公式に結婚して息子をもうけたり、不幸まっしぐらというわけではなかったようです。

とはいえ足利家は代々北条一族から正室をもらうことになっていたので、尊氏も例にもれず、北条氏から正室を迎えています。赤橋登子といって、後々室町幕府二代将軍・義詮を生む人です。
ここでもまた、「側室生まれの長男」と「正室生まれの次男」という複雑な構図ができてしまったのですが、これは後々哀しい形で解決することになります。

そうこうするうちに貞氏が亡くなり、尊氏は27歳でやっと足利の家督を継ぐことができました。
それと同時期に、上方では南朝の後醍醐天皇が「今度こそ鎌倉幕府を倒してやる!」と音頭を取りはじめます。今日では当時の年号をとって「元弘の乱」と呼ばれている戦いです。

鎌倉幕府もタダでやられる気はありませんから、全国の武士に動員をかけます。尊氏は「父の喪中なので……」という至極まともな理由で断ろうとしましたが、「幕府が危ないってときにフザけてんの?」(※イメージです)と言われて無理やり出陣させられました。
「太平記」などでは、これをきっかけに尊氏が鎌倉幕府や北条氏に恨みを持つようになったとされていますが、たぶん彼の性格的に、親兄弟に筋を通したかったんじゃないでしょうか。

 

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楠木正成に勝ち、賞賛を浴びるも一人でさっさと帰ってしまう

このとき尊氏が向かった先は、これまた南北朝の主役の一人・楠木正成の赤坂城でした。正成は奇計でもって生き延びましたが、戦としての勝者は尊氏です。試合と勝負の差みたいなもんですね。

そのため幕府からも他の武士からも「さすが足利氏! おれたちにできないことを(ry」(※イメージです)と賞賛を浴びましたが、尊氏はよほど不服だったらしく一人でさっさと鎌倉へ帰ってしまいました。
あまりの非礼ぶりに、北朝方の花園上皇が「いくらいい仕事したからってちょっと……」といわれてしまっています。

元弘の乱が終わったことで、関係者が次々と処罰され、後醍醐天皇は廃位の上、隠岐島への流刑。
尊氏は第一の功績者として幕府に従五位上の位をもらいますが、その翌年に後醍醐天皇が再三倒幕計画を立てた際、鎌倉幕府を見限っています。
このとき正室・登子と嫡男・義詮は鎌倉で人質になっていましたが、密かに連絡をとって脱出させました。

一方、側室生まれだった長男・竹若丸は、同じように脱出したものの、駿河国浮島ヶ原(現・静岡県沼津市)で幕府の追手にかかって殺されてしまったといわれています。
長庶子の行く末もきちんと世話しようと思っていたのか、それとも幼くして亡くなったことを哀れんだか、尊氏は後々同じ駿河で竹若の菩提を弔いました。
新田家の初代・義重と足利家の初代・義康がちょうど竹若と義詮と同じく、「庶出の長男&嫡出の次男」という関係でしたので、尊氏も似たような処置をするつもりだったのかもしれません。これより後の時代でも、そうした扱いをした・された人は多いですしね。

むしろ足利尊氏よりずっと人気があるだろう楠木正成/Wikipediaより引用

 

尊氏が六波羅探題を滅ぼし、新田義貞が鎌倉幕府を……

「源氏の名門・足利が後醍醐天皇についた」というビッグニュースは、それだけで各地の武士を大きく動かしました。
さらに、後醍醐天皇の意向を受けて各地に「一緒に幕府を倒そう」という手紙を出し、兵をまとめて六波羅探題(鎌倉幕府の京都における拠点)を滅ぼします。

同時期に、これまた源氏の名門である新田義貞が兵を挙げ、鎌倉を攻めて幕府本体を滅ぼしました。
「同族が離れたところで協力し、大きな組織を滅ぼした」という実に胸アツな展開のはずですが、この後の流れが派手すぎて、なかなかそういう視点で見られることは少ないですね……(´・ω・`)
もしかしたら、お互いのご先祖があの世とか草葉の陰で「見ろよ、俺たちの子孫めっちゃいい仕事してる! 皆エライ!!」とかハッスルしてたんじゃないでしょうか。

まあそのへんの妄想はさておき、鎌倉幕府が滅亡してご機嫌な後醍醐天皇は、後世に悪名高き「建武の新政」を始めます。

尊氏も従三位に昇格、武蔵守の役と「尊」の字を拝受して、いよいよ存在感を強めていくはずでした。
が、自らは実質的な要職に就かず、自分の配下を建武政権に送るという形を取ります。
これまた不思議な行動ですが、尊氏の人格評に「人からの贈り物や褒美を気前よく部下にやってしまう」というものがあるので、彼としてはそれと似たような感覚だったのかもしれません。

弟・直義には鎌倉を任せていましたが、北条氏の残党により一時奪取されてしまったため、尊氏は再び鎌倉へ来ています。
このとき後醍醐天皇へ「北条氏征伐のため、私に征夷大将軍の位をいただけませんか」と申し出たのですが、後醍醐天皇の頭の中では「征夷大将軍くれってことはコイツ、今度は自分が鎌倉で幕府作る気だな。走破させん!」となってしまったようで、尊氏の望みはかないませんでした。

 

後醍醐天皇との間にできた溝は少しずつ大きくなってしまい

弟を救うために申し出たのに理解されず、尊氏はしびれを切らして、位を受けることができないまま東へ向かいます。
後醍醐天皇はこれに驚き、慌てて「征東将軍」の位を与えました。「東の蛮族を打つ権限は与えるが、幕府を作るのは許さない」という意思表示かと思われます。

このときから少しずつ、尊氏と後醍醐天皇の間に溝ができていきました。
どちらかというと尊氏は「後醍醐天皇を関東から支える」つもりだったようですが、上洛を拒んで鎌倉を本拠にしようとしたことで、「やっぱアイツ幕府作る気じゃん! すぐ潰さないと!!」と思われてしまいます。
後醍醐天皇は新田義貞に「尊氏ブッコロ!!」(超訳)と命じ、今度は源氏同士で戦うという悲劇に陥ったのです。
これには草葉の陰のご先祖達も「(´;ω;`)ブワッ」状態だったに違いありません。この間2年位しか経ってませんしね……。

尊氏はこれに驚き、髪を落としてお寺にこもり、謝意を示しました。

しかし既に討伐の兵は鎌倉へやって来ています。
「直義が殺されそう」「高師直もヤバそう」(超訳)という報を聞き、「弟や部下が死んだら俺が生きていても意味がない」と気を取り直し、兵を挙げました。
元々その寛容さや、いざというときの肝の座りようで、部下には絶大な信頼を受けていた尊氏です。あっという間に足利軍の士気は上がり、義貞を押し返して京都へ向かいます。

後醍醐天皇は比叡山へ逃げましたが、続いて義貞や正成の軍がやって来て敗れ、尊氏は京都から退いて西へ逃れていきます。
この間、光厳上皇(後醍醐天皇が流刑に遭っていた間に即位した天皇。125代の中には含まれていない)に連絡を取り、後醍醐天皇に逆らったことをフォローしてもらったり、政治的な試みもしていました。
西へ向かう間に光厳上皇から連絡が届いたことで、尊氏は西国の武士をまとめることに成功し、湊川の戦いで勝利を収めて再び京都へ入りました。

後醍醐天皇/Wikipediaより引用

 

有能な君主の元、忠実な武働きを望んでいたのではないか

しかしあくまで後醍醐天皇に逆らう気も、害する気もなかった尊氏は、清水寺にこんな起請文を出しています。

「この世は夢のようなものだし、私はもう世を捨てて山にでも入ってしまいたい。この世での栄誉は全て直義に与えてください」

現代人からすると「おいおい、いきなりどうした」とも思えますが、政治の波に揉まれすぎて嫌気がさしていたのでしょう。上司に恵まれない、オー人事、オー人事のCMまんまです(古い)。

これまた私見ですが、尊氏は絶対的な君主の元で忠実に武働きをするのに向いていたのかもしれません。上が頼りないからこそ、あれこれ悩んだりダイナミック逃避行&再起をしたわけで……。まあそれは、正成や義貞にもいえることですが。

尊氏はあくまで後醍醐天皇を立てるべく、和議を申し入れました。後醍醐天皇もこれを受け入れ、光厳上皇の弟・光明天皇に譲位して、やっと尊氏vs後醍醐天皇の争いは終わります。
……もしもっと早く和議が成っていたら、もしくはそもそも後醍醐天皇が尊氏を疑わずにいたら、義貞も正成も死なずに済んだ気はします。やっぱり上司がアレだと部下の苦労がハンパないというか生死に関わるものですね。( ̄人 ̄)
こうして丸く収まるかに見えた一件ですが、後醍醐天皇はまだ悪あがきをします。
「この前渡した神器は偽物だから、まだワシが天皇だよ~ん!!」(※イメージです)と言い張り、吉野へ逃げて南朝を作ってしまうのです。天皇ともあろう方が恥ずかしくないんですかね。

一方、北朝となった光明天皇は尊氏を征夷大将軍と認めて、幕府を作ることを認めました。間もなく後醍醐天皇は亡くなりましたが、息子の後村上天皇に「北朝絶対殺すマンになれ」(超訳)と遺言したため、この後もしばらく南朝と北朝の対立が続いていくことになります。

 

今度は弟・忠義と観応の擾乱へ発展

尊氏は弟・直義に実務を任せ、自分は名目上のリーダーとしての立場を守ろうとしました。
が、やがてこの構図は部下からの反感を買い、今度は観応の擾乱という悲劇に突入していきます。

観応の擾乱の話は以前していますので、ここでは割愛しますね。気になる方はこちらで→過去記事:史上最大の兄弟ゲンカ「観応の擾乱」 足利尊氏 vs 直義(ただよし)は毒殺で決着!? 【その日、歴史が動いた】
不本意であろう形で弟を処分することになってしまった尊氏は、この後、病気がちになっていきます。既に40代後半でしたから、寄る年波もあったでしょう。息子・義詮もこの頃には仕事ができるようになっていましたので、そこからくる安堵が体を弱めたのかもしれません。

また、この後、観応の擾乱のもう一人の関係者だった、もう一人の息子・直冬との戦によって矢傷を受け、そこに腫れ物ができてしまったとされています。その腫れ物が原因で亡くなったのだとか。

傷+病気というと破傷風や敗血症が思い浮かびますが、直接死因になるような腫れ物って何でしょうね?(´・ω・`)
教えてまり先生!(突然のネタ振り)

というわけで、尊氏一人の人生を追いかければ鎌倉幕府打倒~南北朝時代の始まり・室町幕府の開府までを(多分)理解することができると思うのですが、何で学校の授業ってそういうやり方しないんでしょうね。
戦前は「後醍醐天皇に逆らった」=「無類の逆賊」というレッテルを貼られていたので、そのせいかもしれませんが。そのせいでご子孫の方は随分御苦労なさったそうで。

しかし、そういった尊氏に惹かれる人が多いのもまた事実。
最後に、今回記事を書くにあたって一部参考にさせていただいた、こちらのホームページをご紹介させていただきます。

◆足利尊氏のホームページ

歴史人物をピンポイントで取り上げていらっしゃる方は数あれど、ここまで深く・わかりやすく・見やすくを兼ね備えた個人運営のホームページはかなり珍しいのではないでしょうか。歴史でつまづく方が多い一因である、人物の読み方などもかなり細かくふりがながふられています。

足利氏の成り立ちから新田義貞、楠木正成まで網羅していますので、鎌倉幕府打倒~室町幕府開府までを楽しく理解するのにうってつけかと。

長月 七紀・記

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参考:足利尊氏/Wikipedia

 

 





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