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絵・富永商太

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その日、歴史が動いた 幕末・維新

庚午事変の締まらぬ結末は豊臣秀吉と蜂須賀小六のファジーな判断が原因だった!?

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「主君と家臣の物語」というと、なんとなく良好なものを想像しますよね。「忠臣」を「中心」にした話が多いからでしょうか……サーセン、何でもありません……。
しかし、お殿様も家臣も人間です。喜怒哀楽はもちろんのこと、自尊心や責任感その他もろもろの感情をお互いに持ち合わせており、今回はその辺がうまく行かなかった、とある大名家のお話です。

弘化三年(1846年)8月8日は、最後の徳島藩主・蜂須賀茂韶(もちあき)が誕生した日です。

蜂須賀茂韶/wikipediaより引用

 

蜂須賀家と家老・稲田家の特殊な関係が火種となる

大名はどの時代でも大変なものですが、最後の藩主となると、やはり戊辰戦争や明治維新に関わる特大の苦労がありました。
茂韶の場合、先祖代々からの負の遺産のようなものが爆裂するという目に遭っています。

また、茂韶自身の生い立ちも火種の一つでした。
茂韶の父・斉裕は、十一代将軍・徳川家斉の二十二男で、蜂須賀家の養子に入った人です。つまり、茂韶は家斉の孫ということになります。

さらに、十四代将軍・家茂はいとこであり、「茂」の字も家茂からの偏諱でした。
幕末のこの頃に、将軍家との血縁関係が非常に強い人が藩主……というだけ、既にイヤな予感がしますね。

なんせ家督を継いだ時点で、時代は「鳥羽・伏見の戦い」真っ最中でした。成人していたのが不幸中の幸いとはいえ、割と最初から貧乏くじを引いた人といえるでしょう。

しかも、です。
家老・稲田家と蜂須賀家の関係が良くありませんでした。
この原因は、豊臣秀吉の時代まで遡るのですから茂韶もやってらんね~状態だったでしょう。

稲田家は、蜂須賀家の客将、かつ家老という特別な立場にありました。
これは、初代・稲田植元(たねもと)が、著名な初代・蜂須賀小六正勝と義兄弟の契りを結んでおり、秀吉から別々に大名として取り立てようとしたときも「私は正勝と義兄弟となり、共に働こうと固く約束したので」と断固拒否していたほどの仲だったからです。

もともと蜂須賀小六も、同じように義兄弟的に死ぬまで秀吉に仕え、自身は城持ちとなりませんでしたからね(代わりに息子の蜂須賀家政が徳島藩主となる)。

秀吉も植元の義理堅さを高く評価し、望みを叶えたまでは良かった……のですが、江戸時代の間にこの“特別な立場”が火種となりました。

蜂須賀小六/wikipediaより引用

 

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「普段は徳島にいないくせにエラそうな奴ら」

稲田家は、その特別な立場に加えて当時徳島藩の一部だった洲本(現在の兵庫県洲本市)の城代も務めるようになり、半独立状態になります。

そのため、他の蜂須賀家の家臣たちからは「普段は徳島にいないくせにエラそうな奴ら」とみなされ、稲田家自身は「ウチは藩祖と義兄弟の契りを結んだ家なんだから、他の家臣とは違うんだよw」という自負を持っていたのです。

さらに、蜂須賀家は途中で度々血統が変わっているのですが、稲田家は養子を迎えたとしても、全員植元の血を引いていました。
これもプライドに拍車をかけたものと思われます。
こういった理由で、普段から蜂須賀家の内部はあまり良い空気ではありませんでした。

そして戊辰戦争を迎えると、蜂須賀家は血縁のある徳川家につき、佐幕派として行動したいと考えるようになります。
しかし、稲田家は当主・邦植(くにたね)の意向で勝手に尊皇攘夷派につき、主家の許可を得ないまま鳥羽・伏見の戦いなどに参加してしまいました。

後になってから、共に倒幕側に加わりましたが、蜂須賀家は将軍の親戚筋のため士気が上がらなかったのに対し、稲田家はやる気満々。
となると、当然、稲田家の戦功のほうが多くなります。
稲田家の人々は、戦後の明治政府からの恩賞に大きく期待していました。

が、蜂須賀家は士族とされたものの、稲田家は陪臣のため卒族とみなされました。
「卒族」とは、武士の中で身分が低かった者に対して、明治政府が与えた身分です。つまり、家老である稲田家にとっては低すぎるものでした。

 

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ブチ切れた蜂須賀側が稲田家を焼き討ち 死者17名

これが稲田家には納得できず、蜂須賀家に待遇改善を訴えました。
実際に働いたのは稲田家なので至極当然な言い分ではありますが、明治政府から見れば、稲田家の分も含めて蜂須賀家の功績になるから仕方ありません。

訴えても改善が見込めないため、稲田家は洲本を中心とした自分たちの領地を中心にして、「稲田家を独立した藩にしよう」と考え、明治政府にも話を持ちかけます。
稲田家のほうでは「既に戦功があるのだから、すんなり通るだろう」と思っていたようで……いや、それはフラグかと……。

これを聞いた蜂須賀家の家臣の一部がブチ切れました。
「あいつら、臣下のくせに普段からエラそうだし、今度は独立して殿と同じ身分になりたいだなんて、どこまでワガママなんだよ!」

そして稲田家やその家臣の屋敷を焼き討ちするという暴挙を働き、稲田家の被害は自決を含めて死者17人、重軽傷20人、家屋の焼失が25軒という、割とシャレにならない状態になります。
稲田家のほうでは「これに抵抗したら士族になれない」と考え、無抵抗だったというのですから、どっちもどっちというかなんというか……。

この一連の騒動を「稲田騒動」や「庚午事変」と呼びます。

 

その後、稲田家は北海道へ移住 開拓に励んだ

死傷者が出ると、さすがに明治政府も看過できず。
もしも藩知事・蜂須賀茂韶が裏で手を引いていたりすれば、直ちに罷免して別の人物を入れなければなりません。

それに、ようやく江戸幕府を倒して新体制を作ろうというときに、こうした旧時代の遺物の処理で手間取っていては、他の地域への示しがつかないですよね。

明治政府はこの件を慎重に取り調べました。

そして、蜂須賀家の首謀者10人の切腹、その他関係した人物100人ほどが流刑・謹慎などの処分を受けます。
首謀者たちについては当初斬首刑の予定だったのが、茂韶の嘆願によって切腹になったとか。
武士の面子を保たせてくれ、というわけです。

稲田家についても「そのまま洲本にいると、またいつか問題が起きるだろう」ということで、士族の身分と引き換えに、北海道静内と色丹島への移住・開拓が命じられました。

その後の稲田家は、北海道開拓使の下で開拓に励み、地元に根づいたようです。
茂韶はオックスフォード大学に留学したり、駐フランス国特命全権公使などの要職を務めたりしていました。
喧嘩両成敗が成立し、丸く収まった……ということになりますかね。

まぁ、稲田家の初代・植元は草葉の陰で大激怒でしょうねえ。
蜂須賀家に尽くすために独立大名の座を蹴ったのに、子孫がそれを欲しがって主家といざこざを起こして、無用な死傷者を出してしまったわけです。

稲田家を特別扱いし続けた、あるいは城代という半独立状態にしてしまった蜂須賀家も悪いですが、城代でも主家に忠実だった人たちもいますし、責任の割合は6:4くらいですかね。

長月 七紀・記

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参考:蜂須賀茂韶/wikipedia 稲田邦植/wikipedia 庚午事変/wikipedia

 





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