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平田篤胤/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 江戸時代

江戸時代の国学者・平田篤胤とは? オカルト世界を真面目に追求したフシギな御仁の一生

更新日:

人が、理性や理屈では整理できないことが起きたとき、信じたくなるのがオカルト。
歴史を遡れば占いや呪術などもその類かもしれませんが、もっと身近なことから、真摯かつ熱心にそれを研究した学者が江戸時代におりました。

天保十四年(1843)閏9月11日は、国学者の平田篤胤(あつたね)が亡くった日です。

学者さんというと、どことなく遠い存在のようにも思えますが、彼は現代の我々にとっても馴染み深い、とある概念を広めた人でした。

 

父親との確執からか ハタチになって江戸へ出奔

篤胤は安永五年(1776年)、久保田藩(秋田藩)の藩士の家に生まれました。

20歳までは地元にいたようですが、詳しいことはよくわかっておらず、本人も語りたがりませんでした。
後年の著作からすると、父親からあまり好かれていなかったらしく、勉強がしたいのにさせてもらえなかったフシがあります。力仕事や雑用をさせられてばかりだったようで。

当然、居心地がいいわけもなく、20歳になった寛政七年(1795年)の年明けに出奔、江戸へ向かいました。

当時の秋田藩は財政難による給料借り上げや、後継者争いからお家騒動に発展するなど、不安定な状況。
その上、父親から嫌われていたのでは、地元にいるのがイヤになっても仕方ないですよね。

無一文同然で江戸に出てきたため、下男(げなん・雑用などをこなす)のような仕事をして少しずつお金を稼ぎながら、学問を始めたようです。

 

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備中松山藩士の目に留まり、養子になって道が拓ける

寛政十二年(1800年)、勤め先の旅籠で江戸詰めの備中松山藩士・平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目に留まり、養子になります。

勤勉な下男なら人手として欲しかったでしょうし、篤穏も兵学者だったので、気が合ったのでしょうか。
翌1801年、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と結婚しております。おそらく養父の斡旋でしょう。

結婚してから生活が安定して学問に打ち込めるようになったのか、居宣長の存在を知った篤胤は、著作を複数読んで深く感銘を受け、国学を志すようになります。
残念ながら宣長が亡くなった後のことだったため、直接教えを請うことはできませんでしたが、持ち前の勤勉さで多くの知識を身に着け、さまざまな著作を世に出していきます。

篤胤はかなり手が早く、かつ体力がある人だったようで。
「不眠不休で書き続け、疲れたら机に向かったまま眠り、起きてまた書く」というスタイルだったそうです。

現代の作家にもたまにそういうタイプの人が居ますが、時代によらないんですねえ。うらやましい。

平田篤胤の主な著書リスト・数がスゴい!/wikipediaより引用

 

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「天狗小僧寅吉」と名乗る少年を養子に迎え……

30歳のときに私塾を開き、弟子を取っているほどですから、たった五年で少なくともその筋に知られるような存在になっていたのでしょう。

しかし、彼の著作の中には、宣長の弟子たちからすると「邪道」とみなされるものもあり、詐欺師と言われたこともありました。

篤胤は、特に死後の世界や神の存在について強く興味を惹かれていたようです。
妻に先立たれてからその傾向がより強まった感があるため、もしかしたら妻にもう一度会いたくて研究を進めたのかもしれません。
ホラーものの小説やゲームなら怪しげな呪術などに走るところですが、そうならなかったのは知性のなせる業でしょうか。

30代の間に著作や弟子も増え、各地の神社を巡ったりもしているので、生活に困ることはなかったと思われます。

大きな出来事としては、文政三年(1820年)のとき、江戸で「天狗小僧寅吉」と名乗る少年を養子に迎えたことでしょうか。

寅吉は「神様や仙人の世界に行って、術の修行をしてきた」と話しており、そういったことに関心のあった篤胤としては、詳しく話を聞きたくなったようです。
それにしても養子にしたのは凄すぎですが、通う時間も惜しんで話をしたかったんですかね。

なんせ、寅吉を迎えて二年後には、彼が修行してきた世界に関する本を出しているくらいですから。

 

「神仙界に帰る」と言い出した寅吉に、手紙を託すほどのマジモード

現代よりも神や妖怪の存在が身近だった時代。
とはいえ、実際に行って帰ってきた人なんて胡散臭いにもほどがあります。
当時も「子供を利用して、自分の都合のいいように証言させているに違いない」と批判されたようです。

が、篤胤自身は心底信じており、寅吉が「神仙界に帰る」と言いだしたときには、渡りをつけてくれるよう手紙を預けています。
残念ながら、その望みは叶わなかったようですが……。その後も、多数の著作で異世界の存在を主張しているので、諦めてはいなかったと思われます。

これは、彼が死後の世界や「魂」というものについて、独特の考えを持っていたからでしょう。
篤胤が私淑していた宣長や、その弟子の一人・服部中庸は
「人の魂は死後、別の世界に行く」
と考えていました。

しかし、篤胤は
「死んだ人間の魂は死者の世界に行くが、死者の世界は現世と全く別というわけではない。
神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓上に留まっている。
現世からは死者の世界を見ることはできないが、死者の魂は現世の人々を見守っていて、祭祀を通じて交流はできる。
つまり、死者は永遠に家族や友人・知人を見守っているのだ」
と考えていたようです。

……死者の家族や知人が全員鬼籍に入った場合はどうなるんでしょうね。
屁理屈でサーセン。

 

本居宣長の弟子たちは賛成派と反対派でモメる

また、篤胤は「死者の世界は大国主(おおくにぬし)が司る世界」だと考えていました。

大国主といえば、国譲りの神話や出雲大社の主祭神、縁結びの神です。
この“「縁」は生きている間だけでなく、死後も続く”という考え方は、篤胤の時代以前からあったという説もあるようです。

大国主自体も子沢山な神ですが、それに加えて天津神(皇室の祖先)の子孫たちの縁まで取り結んでいますし、さらに死後の世界までとなると仕事量がハンパじゃないですね。
しかも毎年10月には全国の神様が集まって大会議をするわけで……神様だから平気なんでしょうか。ゴッド、すげえ。

その辺のツッコミはともかく、こうした篤胤の考えは、庶民層に受け入れられて広まっていきます。

飢饉や災害が続いていた江戸時代、家族や友人を失った人も多かったはずですから、「死者は自分たちを見守ってくれている」という考えを信じ、生きる希望とした人がたくさんいたのでしょう。
現代でも、いわゆる“虫の知らせ”や「亡くなった家族が会いに来てくれた」というような話はよくありますよね。

文政六年(1823年)には、松坂にある宣長の墓参りや、朝廷へ自著を献上することなどを目的に近畿へ旅をしています。

しかし、宣長の墓参りということは当然、その弟子たちとも会うことになるわけです。

篤胤の存在は賛否両論だったため、弟子たちのほうではどう迎えるかで多少揉めたとか。
反対派は「篤胤はさまざまな書物を恣意的に解釈して、強引に理屈をつけている」と主張し、歓迎したがりませんでした。
一方、賛成派は篤胤の著作を高く評価し、「篤胤こそ宣長の後継者にふさわしく、どの門人も篤胤には及ばない」とする人もいたようです。

なんだかんだで最終的には賛成派に迎えられ、宣長の墓参りもできました。
伊勢神宮参拝や朝廷への献上も無事に終わり、一段と自信を得たようです。

 

幕府の暦を批判して秋田へ帰国命令&著作活動禁止

以降は暦や易学に傾倒し、神代文字(「かみよもじ」もしくは「じんだいもじ」)などの言語や文字の起源についても研究していました。

神代文字とは、日本に漢字が伝わる前に使われていたとされる日本独自の文字のことです。
鎌倉時代あたりから研究・議論されるようになっていましたが、篤胤の時代はもちろん、現代でも実在したかどうかがわかっていません。
漢字とは違いますが、甲骨文字に似たものもあるため、どちらにしろ中国の影響はありそうです。

死後の世界の存在を確信した後のことですから、次は幽霊と接触するために神代文字や占い・暦の研究をしたのでしょうか。

しかし、その熱心さが仇になってしまいます。

天保十二年(1841年)に幕府の暦を批判した書物を出版したことで、幕府に睨まれてしまったのです。
さほど影響がなかったからか、あるいは幕末に向かった混乱の最中で余裕がなかったのか、篤胤への刑罰は「秋田に帰ること」と「以降は著作活動禁止」の二つだけで済んでいます。
時代が少し前だったらだったら、もっと厳しい刑に処されていたかもしれません。

 

思ふこと 一つも神に つとめ終えず

失意の中、秋田に帰った篤胤は2年後に病没しました。

辞世は
「思ふこと 一つも神に つとめ終えず 今日やまかるか あたらこの世を」
というものでした。

意訳するとしたら
「やり遂げたいと思ったことを何一つ終えられないまま、今日この世をお暇してしまうのか」
というところでしょうか。

死後の世界を信じているのなら、死んだら死んだでその世界に行けるのだから、さほど嘆くことでもないような気がしますけれども。
そのための方法を後世に書き残したかったんですかね。なるほどわからん。

何にせよ、彼の思想が広まったことで、精神的に救われた人は多いはずです。
ならば、やり残したことがあったとしても、悪い人生ではなかったのではないでしょうか。

長月 七紀・記

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参考:平田篤胤/wikipedia

 





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