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北条貞時/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

北条貞時は永仁の徳政令(借金チャラ)を出してどうなった?物騒な41年の生涯マトメ

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1274年と1281年、2度にわたる「元寇」の危機を乗り切った鎌倉幕府

日本側のダメージも小さくなく、こんなとき最も頼りとなるのが「トップの手腕」でしょう。

皇族から迎えていた将軍様(当時は惟康親王)はお飾りも同然です。

今回は、実質的な長であった、第九代執権・北条貞時の生涯を見て参ります。

 

数え7歳で元服 烏帽子親は惟康親王か

貞時は、八代執権・時宗の嫡男として文永八年(1271年)に生誕。
二度目の元寇【文永の役】の三年前です。

蒙古襲来絵詞/Wikipediaより引用

おそらく、貞時が物心ついた頃、時宗は仕事に忙殺されていたでしょう。

元服は建治三年(1277年)、数えで7才とかなり早めでした。

もしかすると時宗が、このあたりから自分の健康に不安を感じていたのかもしれません。
他に子供がいませんでしたし、おそらくや側室を抱えるような余裕もなかったでしょう。

となると、さっさと貞時を元服させて
「次はコイツが当主だから! 逆らうヤツはわかってんよな!!」(超訳)
と意思表示をしておいたほうがよさそうです。むろん、だからといって万全でもないのが、中世~近世の恐ろしさですが……。

このころ『吾妻鏡』の記述が途絶えてしまい、貞時の元服式の様子や、烏帽子親が誰だったかについてハッキリしていません。
数少ない記録に
「出御」
などの単語が見られることから、少なくともときの将軍・惟康親王が出席していたのは間違いなさそうです。

その場合、慣例に従って惟康親王が烏帽子親と考えられるのですが……すると今度は、偏諱(一字を貰うこと)がないのが不思議な気もします。

「時」は北条氏の通字だからいいとして、「貞」の字はどこから来たのかよくわかりません。

同時代の人物、かつ目上の立場に「貞」がつく人物はいないため、謎が深まる一方。
一説には、北条氏の祖先とされる平貞盛から取ったともいわれています。

 

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父の時宗は34才で他界してしまう

「貞」の字そのものには「節操があり正しいこと」とか「占いで神意をうかがう」などの意味があり、基本的には良い意味となります。

この時代に関係することだと、貞永式目御成敗式目)の「貞」もそうですね。
あるいは、鎌倉時代の刀工に「貞次」という人物がいます。

ただ、全体的に見て『この時代の武士には、あまり似つかわしくない字だなぁ』という印象もあります。

これは私見ですが、時宗が息子に
「(貞永)式目をよく守り、常に節度を保ち、執権をきちんと勤め上げられるように」
という願いを込めて名付けしたのでは? なんて気もします。

今も昔も、親が子供に期待や祈りを込めて名前をつけるのは変わりませんものね。

北条時宗/wikipediaより引用

しかし、時宗はその結果を見ることなく、貞時満12歳のときに亡くなってしまいます。
弘安七年(1284年)のことで、貞時は無事に第九代執権となりました。

後ろ盾としては、貞時の外祖父である安達泰盛がいましたが、他に頼れる親族のいないのが辛いところ。
「幼い」というだけで侮られるものです。

と思ったら、実際、貞時が執権に就いてわずか四ヶ月後に、一門の北条時光(ときみつ)が興福寺の僧侶と何やら企んでバレ、拷問の末に佐渡へ流罪――という事件が起きています。幸先が悪い><;

また、数少ない味方である泰盛も、得宗家の勢力を削減して御家人らの既得権益を犯し、幕府の中で孤立。
このとき泰盛の行った施策は
「弘安徳政(こうあん の とくせい)
と呼ばれているのですが、その中で九州の武士に対する統率を強めようとしたことも、やはり内外の反発を招きます。

結果、北条貞時の乳母の夫・平頼綱(得宗家執事)をはじめとした、反安達勢力との対立が激化してしまいました。

戦争が終わったばかりなのに、なんでまた仲間割れしてしまうん?(´・ω・`)

 

貞時様のために、泰盛とその一派をブッコロス

北条貞時を補佐すべき、執権の女房役・連署は、北条業時(ほうじょう なりとき)という人でした。
一瞬、北条義時(よしとき)にも見えてしまいますが、違いますよ。

業時は、安達泰盛と義理の兄弟でしたが、このころ彼の勢力はさほど強くありません。

安達泰盛/Wikipediaより引用

なんだかややこしくなってきましたね。
対立の構造を図式化してみましょう。

【対立してる人たち】
安達泰盛&御家人
vs
平頼綱&御内人(幕府ではなく北条氏に仕えている武士)

【半ば蚊帳の外】
北条貞時&北条業時

みたいな感じです。

弘安八年(1285年)11月。
ついに頼綱が実力行使に出ます。

「貞時様のために、泰盛とその一派をブッコロスべき!!」
と計画し、実行してしまったのです。

元寇直後に何やってんすか……。

 

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霜月騒動

どうやら、泰盛が貞時の邸(やしき)に出仕したところを、頼綱の手勢が取り囲んだことにより戦闘が始まったようで。

最終的に泰盛と、その嫡子である宗景をはじめとした、安達氏のほとんどが自害または討死してしまいます。

平頼綱&北条一派の圧勝!
これを【霜月騒動】といいます。

なんだか、遡ること約140年前に起こった「宝治合戦」のツケを払わされたかのようですよね。
宝治合戦については北条時頼の記事をご参照ください。

北条時頼/wikipediaより引用

【関連記事】北条時頼

時期的には、弘安の役が終わり、時宗が亡くなった翌年の話なんですよね。
おそらく時宗は成仏できてな……まぁ現代までにはできてるかな。

余談ですが、このとき貞時の邸も戦火に巻き込まれたとか。
上記の通り、平頼綱は北条氏に仕えている人で、主人の家を焼くことにためらいはなかったのか?という……やっぱり、中世、怖いよ、中世。

 

調子に乗る頼綱、権力乱用が目立つように

霜月騒動に勝利しただけあって、その後しばらくは頼綱が実権を握りました。

しかし、いくらお飾りとはいえ将軍である惟康親王をないがしろにしたり、そもそも頼綱は御家人ではなく御内人(北条氏に仕える武士)だったことから、あまり評判はよろしくありません。
特に、泰盛派だった宇都宮景綱などの有力御家人に睨まれます。

それでも調子に乗って空気を読めなかった、あるいは読まなかったのでしょうか。
頼綱は次第に貞時の花押なしで書類の決裁を行ったり、息子たちに高い官位をもらうなど、権力乱用が目立つようになります。

京都の公家が日記に書き留めるほどですから、よほどのことだったのでしょう。
たぶん六波羅探題とか篝屋(かがりや・京都にあった武士の詰め所みたいなもの)あたりから話が漏れたんでしょうね。

頼綱が実権を強めていた正応二年(1289年)には、将軍・惟康親王が京に返され、後深草上皇の皇子である久明親王が新たな将軍に立てられています。
惟康親王は閉め出されるような形で鎌倉を追われたらしいので、頼綱に対する恨みや悪評を多少誇張して伝えた可能性もあります。

しかし、それも長くは続きませんでした。
永仁元年(1293年)、23歳になった北条貞時が頼綱を滅ぼすのです。
配下とはいえ、さすがにヤリ過ぎたのでしょう。

これを【平禅門の乱】といいます。

ちなみに、
「鎌倉大地震の混乱に乗じて頼綱の屋敷を襲撃する」
という、割とエゲツない方法でした。

鎌倉大地震は4月12日。
それから10日後、4月22日に平禅門の乱は起きています。

地震の規模はマグニチュード7.0以上で、建造物倒壊、土砂崩れなどで2万3000人ほどの死者行方不明者というまさに大震災でした。

おそらくや北条氏とか御家人の中にも被害者は多かったはずで、そんな状況下に貞時もよく兵を出せたものです。
それほど御家人たちの恨みが募っていたか、このチャンスを逃せないと覚悟したか。あるいはその両方か。

頼綱の邸が、鎌倉の南方にあったこともポイントしれません。
同エリアにあった寺社の被害が伝えられているので、
「頼綱邸もおそらく崩れている!」
と伝わり、
「今こそ好機!」
となった……てのも、ありえそうですね。

 

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得宗専制政治が始まり、結果、反感を買い

ともかく、この一件でようやく実権を確実なものとした北条貞時。
霜月騒動で処分された金沢顕時らを復帰させると、一門の人間も数多く抜擢しました。

そして北条一門をはじめとした御内人と、御家人の統制を強め、自身の権力を保とうとします。

貞時が実権を掌握してからが一般に【得宗専制政治】と呼ばれている時代です。

得宗とは、北条氏の本家の当主のことを指す単語です。
なぜ「専制」なんて言葉が付随するのかというと、五代執権・北条時頼の時代に置かれた「引付衆」を廃止してしまおうとしたからでして。

引付衆は裁判を迅速・公正に行うために作られた役職でしたから、これを廃止するということは、
「これからの裁判は、俺が好きなように判決出すから!」
と宣言しているも同然でした。

が、それが失敗だったのかもしれません。

それでなくても執権職は多忙を極めます。
次第に裁判が滞り始め、貞時の評判にも傷がつき始めてしまいました。

そのため引付衆が廃止されたのはほんの僅かな間のことで、すぐに元の体制に戻り、貞時の評判だけが悪化したままとなってしまいます。

そんな状態で、貞時はまた、強引なことを取り決めてしまいます。
評定衆の会議ではなく、得宗および特定少数の北条氏一門・御内人らからなる「寄合衆」の会議で重大次項を決めることにしたのです。

現代風に言うと、
「株主会議や社内会議ではなく、経営者一族の会議で会社の方針をすべて決めてしまう」
ようなものでしょうか。

いかにも反感を買いそうで、なぜに気づかなかった……(´・ω・`)

 

鎮西探題を設置し西国強化

御本人の名誉のために言っておきますと、一応、他の仕事もシッカリ取り組んでいます。

薩摩沖に現れた元のものと思しき船への警戒を強めるため、永仁四年(1296年)に【鎮西探題】を設置したり、北条一族に西国の守護をさせました。
西国支配と国防の強化を兼ねた一石二鳥の方針です。

が、これまた地方武士からすると面白くないんですね。

だって、いきなりよくわからんヤツがやってきて、
「今日から俺がここの主だからヨロシク^^
え? 不満? 俺、北条氏の一員なんだけど? やんの?^^」
って、そりゃ、誰だって腹が立ちますよね。

一方で、締め付けるばかりでなく、御家人救済のためのこともいくらかはしているのですが……結果が……うん、その……。

例えば、元寇の恩賞を少しでも与えるため「御家人」の定義を緩めました。

曽祖父母の代に幕府から下文(くだしぶみ)という公文書をもらったことがあれば、その家を御家人として認めることにしました。
当初は祖父母の代が対象でしたので、一代広げて恩賞を与えやすくしたのですね。

 

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借金チャラ! って、貞時も必死だったのでしょうけど

こうした懐柔策は、なかなか押し引きの上手な印象がありますよね。
しかし、その後、大ポカをやらかしまいます。

悪名高き【永仁五年の徳政令】です。

借金チャラ法で有名なアレ。
江戸時代生類憐れみの令と並んで「悪法の代名詞」みたいな印象がありますよね。
※生類憐れみの令は、最近、かなり再評価されていますが……

【関連記事】生類憐れみの令

徳政令も、本来は御家人のためにしたことです。
貞時としても必死だったのでしょう。

問題は、御家人だけのことしか考えていなかったことで。
一応、順を追って説明させていただきますと……。

御家人たちの多くは、土地を担保にお金を借り、元寇の戦費に充てました。
もちろん恩賞を貰えると思ったからです。
戦費<恩賞
と考えたからこそですね。

しかし、無事に合戦が終わると、与えられる恩賞の余裕はなく、お金の返済だけが残り、結果、土地を取られてしまいます。
そこで出された徳政令というのがこんな感じでした。

・20年以内の借金だったら、土地を返しなさいよ。もちろん、借金はチャラ!
・御家人にお金を貸していたのが一般人だったら、20年より前でも土地を返せよ、借金もチャラじゃい!!

いくらなんでも、貸し手のことを考えなさ過ぎですよね。
そしてその弊害はスグに出てきます。

 

彗星の観測を機にアッサリ隠居

徳政令を機に、ほとんどの貸し手が御家人に貸し渋るようになりました。

この辺、皆さんも歴史の授業で習ったと思います。
貸し渋りによって御家人は生活費を借りることもできなくなり、余計に苦しむようになったのです。

こうした事情は、おそらく貞時のところまで届いたことでしょう。
正安三年(1301年)、凶兆とされていた彗星が観測されたのをキッカケに、貞時はあっさり隠居してしまいます。

バックレにちょうどいいタイミング!と、思えるのは気のせいですかね……。

執権職は従兄弟かつ娘婿でもある北条師時(もろとき)に譲りました。
が、例によってこれは形式上の話で、実権は失っていません。

執権でなくなっても、北条宗家の当主であれば「得宗」には違いありませんからね。
相変わらず、オレ、TOP!というワケです。

ただし連署は、北条宣時から北条時村に交代しまして。
これが後の騒動の発端になります。

嘉元三年(1305年)、貞時の邸が焼けてしまい、師時の邸に移っていたことがありました。
その翌日、内管領(御内人のトップ)である北条宗方が「貞時の命令」という名目で、連署の北条時村をブッコロしてしまったのです。

『北条貞時もブッコロして執権職をもぎ取ろう!』
と考えていたという説もあります。

貞時は直ちに、
「そんな命令出してないんですけど!」(※イメージです)
と軍を出し、宗方とその与党を誅殺しました。

これを【嘉元の乱】といいます。

にしても……
「気に入らないからとりあえずブッコロス!」
って、止めなさいってば(´・ω・`)

 

息子・高時のために円喜と時顕を登用する

延慶元年(1308年)、将軍・久明親王が例によって京に送り返され、その息子である守邦親王が九代将軍となりました。

久明親王は和歌に専念、政治的な活動はほとんどしません。
そのため京都に帰った後も、幕府とは比較的良好な関係だったようです。

その辺に気が咎めたのか、それとも世代交代を意識したのか、貞時は幼い息子・高時(1303年生まれ)の将来を心配したかのような行動を取り始めます。

まず、高時の後ろ盾として、御内人・長崎円喜(ながさき えんき)と、御家人・安達時顕(あだち ときあき)を登用しました。

長崎円喜は平清盛の孫・資盛の血を引くとされ、先祖代々北条氏に仕えた長崎氏の人です。
所領が伊豆国田方郡長崎郷(現・静岡県伊豆の国市)だったことから、「長崎」を称するようになったとか。

彼は鎌倉幕府が新田義貞に滅ぼされるまで、北条氏に仕え続けています。
やったことは綺麗とは言いがたいのですが、忠誠心はあったといえるでしょう。

一方、安達時顕(ときあき)は、その名の通り安達氏の一員で、霜月騒動のときはまだ幼かったため、乳母に抱かれて逃げていたのだそうです。
そして北条時村(七代執権・北条政村の息子)に庇護されて成長し、貞時に抜擢されました。

こうして脇を固めつつ、延慶二年(1309年)1月には、高時の元服式を行います。

貞時が元服したとき同様、満6歳でのこと。

しかし、こうした折角の下準備も、貞時自身の行動によってほとんどダメになってしまうのです。

 

酒におぼれ政務もおろそかに……

何がキッカケだったのか?
晩年の貞時は酒に溺れ、政務を疎かにするようになりました。

親戚から書面で諌められても、ドコ吹く風。
若い頃にそういう話がないため、よほどのことがあったのは間違いないのですが……このあたりで幼い下の息子たちが立て続けに亡くなっているからかもしれません。

貞時がサボっていても、一応、幕府の機能は働いておりました。
長崎氏をはじめとした御内人や、外戚の安達氏、他の北条一門が主導する「寄合」が仕事をしていたのです。

しかしこのことは
「得宗専制には大した意味も効果もない」
ということを証明することになってしまいまして。

貞時はそこに気付いていたのか、いなかったのか。
判然としないまま、応長元年(1311年)に世を去ります。

亡くなる間際にも、円喜と時顕に息子の補佐を命じていたという話があり、なんとなく危機感は持っていたのでしょう。

お気づきになった方もおられるでしょうか。

鎌倉幕府が滅亡したのは1333年のこと。
つまり、貞時の死からわずか22年後に当たります。

そして、貞時の息子である高時は、1303年生まれ。
幕府が滅びたときにはちょうど30歳になります。

そう、貞時の次の世代こそ、幕府滅亡の当事者たちなのです。

いよいよ鎌倉時代が終わり、さらにややこしい時代へ移って参ります。

長月 七紀・記

参考:国史大辞典「北条貞時」 北条貞時/Wikipedia

 

【歴代の将軍】

源頼朝(1192-1199年)
②源頼家(1202-1203年)
③源実朝(1203-1219年)
④藤原頼経(1226-1244年)
⑤藤原頼嗣(1244-1252年)
⑥宗尊親王(1252-1266年)
⑦惟康親王(1266-1289年)
⑧久明親王(1289-1308年)
⑨守邦親王(1308-1333年)

 

【歴代の執権】




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北条時政(1203-1205年)
②北条義時(1205-1224年)北条家の地位確立
北条泰時(1224-1242年)
④北条経時(1242-1246年)
⑤北条時頼(1246-1256年)
北条長時(1256-1264年)
⑦北条政村(1264-1268年)
⑧北条時宗(1268-1284年)父
北条貞時(1284-1301年)←今日の主役
⑩北条師時(1301-1311年)
⑪北条宗宣(1311-1312年)
⑫北条煕時(1312-1315年)
⑬北条基時(1315-1316年)
北条高時(1316-1326年)
⑮北条貞顕(1326-1326年)
⑯北条守時(1326-1333年)
※( )内は在職期間です

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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