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法然/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

法然と浄土宗はナゼ瞬く間に信者を増やせた?南無阿弥陀仏から始まる鎌倉仏教の代表格

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鎌倉時代の話って、源頼朝とか源義経、あるいは北条政子の話は面白くていいんだけど、アレが嫌だよね、アレ。

そうです、鎌倉仏教です。

似たような堅苦しい漢字が並び、一体、誰がどんなコトを言ったのか、どんな教義だったのか、一気に詰め込みが来るためそれこそ念仏を唱えられている気分になっちゃいます。

そんな調子ですから、そもそも「鎌倉仏教」という言葉から誤解されがちなんですよね。

これらは
◯鎌倉時代に広まった仏教
であって
×鎌倉で生まれた仏教
ではありません。

創始者の多くも、平安末期生まれの人です。
ややこしい話ですが、歴史区分は後世にできたものだから仕方ありません。

今回は鎌倉仏教の中では最もシンプルな宗旨に着目。法然の生涯と浄土宗を見ていきましょう。
いわゆる「南無阿弥陀仏」ですね。

 

鎌倉仏教とは、鎌倉で生まれた仏教ではなく……

まずは当時の仏教に関する背景を把握しておきましょう。

平安時代まで仏教の特徴は
「歴史の長さと儀式を重視する」
「殺生の忌避など、生活に制限がつく」
などが挙げられます。

こうしたことから当時の仏教は
「エライお坊さんの言う通りにしないと救われない!」
という宗教でした。

なんだか横暴な感じがしますよね。

これを変えたのが鎌倉仏教と呼ばれる数多の宗派です。

「仏様はそんなに心が狭くないよ、仏様を尊敬すれば誰でも救ってくださるはず」
と、これまでにない考え方を示したのですね。

よく鎌倉仏教は、
【庶民や武士のため】
なんて参考書とかにも挙げられますが、一部に制限されていたものがようやく広まったということだったんですね。

 

 

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父・漆間時国は武士に殺されるも「恨むな」との遺言

さて、本題に移りましょう。

法然は、長承二年(1133年)、現在の岡山県久米郡久米南町で生まれました。
父親は押領使(おうりょうし)・漆間時国(うるま ときくに)といわれています。

押領使とは、地方における警察のような仕事をしていた役職です。

それだけに恨みを買うことも多かったのか。
法然が8歳のときに時国は、地元の武士に襲撃を受け、亡くなってしまいました。

しかし、時国は自らの職務に疑念を抱いていたのか、元々慈悲深い性格の人だったのか。

襲撃を受けてから、息子の法然に対し
「仇討ちなど考えてはいけない」
と言い遺して亡くなります。

そもそも法然の幼名も「勢至丸」といいました。
これは勢至菩薩(せいしぼさつ)という、阿弥陀如来の脇侍(お供役)として造像される仏様から取った名前だとされています。

また、時国は地元から慕われていたそうなので、総合してみると
「いわゆる”お役人様”ではなく、控えめで信仰心の強い警察官」
みたいな感じでしょうか。

 

修行してスグに数多の師匠を追い抜いてしまう

幼い法然はその後、叔父の僧侶・観覚に引き取られ、久安元年(1145年)頃に比叡山延暦寺へ上りました。
そして10代のうちに出家し、以後43歳までは比叡山で過ごしています。

延暦寺根本中堂

比叡山といえば、天台宗の総本山であり、現代でいうところの大学も兼ねたようなところ。
法然も若い頃から一生懸命に勉強しており、師匠である複数の僧侶にも認められました。

若い頃の法然がどのくらいスゴかったかというと、

・比叡山に上って2~3年で師匠に「私からお前に教えられることはもうないから、他の僧侶に教わりなさい」と言われた
・二人目の師匠も以下同文
・18歳で「法然房」の房号、「源空」という名前をもらった

……という感じです。

法然が出家したきっかけや父が亡くなった時期については異説がありますので、気になる方はググる先生へお尋ねください。

 

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末法思想で荒廃した世の中で

さて、43歳になった法然は、世の中に疑念を抱いていました。

長承二年(1133年)生まれの彼が43歳というと、安元二年(1176年)。
おおざっぱに考えて、1160年代後半~1170年代前半あたりでしょうか。

日本史がお得意な方はピンと来たかもしれませんね。

保元の乱平治の乱が終わって、平家政権ができ、平清盛後白河法皇の関係が不穏になり始めた頃です。

平清盛/wikipediaより引用

また、平安時代は仏教的にいうと「末法の世がやってくるぞー!」という、暗い雰囲気の時代でもありました。
末法とは、「ブッダが亡くなって1500~2000年経つと、仏様の教えが通用しない地獄のような世界になる」という考えのことです。

誰が言い出したのかわかりませんが、そもそも500年もズレる可能性がある時点で、結構ユル~い発想ですよね……。

まあ、地獄の刑罰年数がとんでもないので、仏様の感覚での数百年は、我々人間にとっての一瞬かもしれませんが。

 

ただ一心に阿弥陀仏の名を唱え念じる

それを裏付けるかのように、この頃の西日本では、飢饉や疫病などの災害も頻発していました。
戦乱に天災が重なっては、実生活が厳しくなるのはもちろん、生き延びた人々の心にも暗い影を落としますよね。

現代ではとても考えられない話ですが、道端に死体がゴロゴロ……なんてのも珍しくない時代ですし。

貴族をはじめとしたお金のある人々は、エライ僧侶に祈祷をしてもらって心を安らげることもできたでしょう。
また、志の強い人は、お寺に入って厳しい修行を積み、心の安寧を得たかもしれません。

しかし、世の大半を占めるのは、そうしたお金やツテのない庶民たちです。

また、仏道修行はよほど強固な意思がないと務まらないもの。
いずれの方法も、全ての人が成し遂げられるわけではありません。
身も心も休まらないまま、路傍で力尽きる……そんな光景も、多々見られたことでしょう。

そんな世の中で、法然はこんな風に考えます。

「仏様は、身分や修行に関係なく人間を救ってくださるはず。
新しいやり方を考えて、一般の人々も仏様に助けを求められるようにすれば、多くの人が救われるのではないか」

そして、唐における浄土宗の僧侶・善導の著作から
「ただ一心に阿弥陀仏の名を唱え、念じる」
といった意味合いの一文に出会い、「これだ!」とひらめきました。

 

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「浄土宗」となったのは1175~1185年の間

念仏であれば、お金をかけたり高名な僧侶を呼び寄せたり、長年に渡って修業をするよりも、ずっと早く・誰でも信心を表すことができます。
まさに、法然と当時の民衆に求められているものでした。

この「ただひたすらに念仏をし、仏様に救いを求める」ことを「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」といいます。

有名な「南無阿弥陀仏」がコレです。
「南無」とは「帰依する」という意味ですから、「阿弥陀仏の教えに従う私をお救いください」ということですね。

自らの道を見出した法然は、比叡山を下りて京都の東山に移り住みました。

といっても、当初は積極的に布教しようとはしていなかったようです。
比叡山で長年暮らしていただけに、新しい考えを急に広めようとすれば、かつての師や同輩と衝突してしまうと思ったのでしょうか。

「浄土宗」という名称ができたのは、1175~1185年の間だと考えられています。

法然は「争いを避けつつ、ゆっくりと自分の宗派を世の中に浸透させ、多くの人を救いたい」というつもりだったのかもしれません。

1185年といえば、壇ノ浦の戦いで平家が滅びた年でもありますね。

壇ノ浦の戦い/Wikipediaより引用

この戦いにも参加していた清盛の五男・平重衡が処刑される直前、戒を授けたのが法然だったとか。
この時点で、法然の名はある程度知られていたのでしょう。

重衡は富士川の戦い(戦ったとは言っていない)の後に奈良の僧侶たちを黙らせるため、奈良一体を焼き討ちした人です。
最後の最後に別の宗派の開祖から戒を受けて、救われたでしょうか。

 

そのとき阿弥陀仏に後光が!?

また、比叡山にいた頃から知恵者として知られていた法然を、天台宗のほうが放っておきませんでした。

文治二年(1186年)(または1189年)、天台宗の顕真という僧侶が勝林院(京都市左京区)に法然を招き、仏教談義をしました。
他の天台宗の僧侶たちが法然に難癖……もとい難題を次々投げかけ、そこで法然は「念仏によって救われる」と言い切ったのだとか。

そのとき、御本尊である阿弥陀仏が光り輝き――。

居合わせた人々は
「法然様の教えが正しいんだ! 俺たちも念仏で救われるんだ!」
と沸き立った……と伝わります。

絹本著色山越阿弥陀図/wikipediaより引用

平家が滅びた直後~鎌倉幕府ができるまでの時期ですから、皆「平家はいなくなったけど、これから先安心して暮らしていけるのかな……」と、不安に思っていたことでしょう。

余談ですが、勝林院には似たような話がもう一つあり、そのときもやっぱり阿弥陀仏が光ったのだそうで。
『夕日が差し込んだだけなんじゃ……』とツッコむのは罰当たりでしょうか。

時刻まではわからないので、夕方じゃなかった可能性もありますが。

 

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「専修念仏を禁止してください!」

法然の活躍は、一大ニュースとなって京の町を駆け巡りました。

詳しい経緯は不明ながら、ときの太政大臣・九条兼実の知遇を得たり、多くの人々が法然に弟子入りしたりするほど。
中には、後に浄土真宗を開く親鸞や、平家物語「敦盛の最期」で敦盛を討ったことで有名な、熊谷直実などもいました。

親鸞/wikipediaより引用

この時点で、法然の
「身分の上下に関係なく人を救いたい」
という考えが達成されつつありますね。

むろん法然も人ですから、「このままこの考えを広め続けてもいいのだろうか」と迷うこともあったようで。
1198~1206年の間に幾度も霊的体験をして、自分の方針が間違っていないことを確信、迷いを捨てて衆生のために尽くそうと決めます。

しかし、法然の教えは既存の宗派にとっては好ましくないものでした。

「専修念仏」が世に広まってから、法然の古巣である延暦寺や、奈良の興福寺の僧侶たちが
「念仏を唱えるだけで救われるなんてありえない! 専修念仏を禁止してください!」
と朝廷に訴えるようになってしまったのです。

 

1206年にとんでもない事件が起きてしまう

もはや単なる利権では?
と思ってしまいますが、延暦寺や興福寺からすれば、必死だったことでしょう。

もし、専修念仏で全ての衆生が救われてしまったら、これまで厳しい修行や伝統を守ってきた古いお寺の存在意義がなくなってしまいます。
危機感を覚えるのも無理はないことですね。

とはいえ、まぁ、イチャモンのようにしか見えませんが……。

元々誰かと対立することを好まない法然は、真っ向からぶつかったりはしませんでした。
ところが、です。
1206年にとんでもない事件が起きます。

この頃、法然の弟子も各地で説法をするようになっていたのですが、そのうちの安楽房遵西(あんらくぼうじゅんさい)という僧侶の法会に、宮中に仕える女官が参加し、そのまま出家してしまったのです。
「愚管抄」では、女官が遵西を宮中に引き入れた……ということになっていますが、それはさすがにちょっと(´・ω・`)

きちんと許可を得ていたならともかく、これが当時の治天の君(実際に政治を行う天皇や上皇・法皇)である後鳥羽上皇が熊野詣でのため留守だった&女官の衝動的な行動だったため、当然、上皇は大激怒!

法然に厳しい処分が下されることになるのです。

鳥羽天皇/wikipediaより引用

 

法然も親鸞も流罪 僧籍も剥奪された

これまで、延暦寺や興福寺の度重なる訴えについて、朝廷は
「そうはいっても、法然の教え自体は問題というわけでもないし、既に朝廷の中にも信者がいるし、素行の悪い者もごく一部だから、そういうのだけ処罰すれば問題なくね?」
という態度を取っていました。

そして延暦寺・興福寺も、それで納得するほうに傾いておりました。

しかし、女官の一件ですべてが変わります。

上皇の主導で、遵西と数名の僧侶は死罪、法然は四国へ流罪、親鸞は越後へ流罪という非常に厳しい処分が下されたのです。
しかも法然と親鸞については僧籍を剥奪され、俗人としての名前を押し付けられています。

幸いというべきか、法然自身の関与が薄かったため、一年程度で流罪は解けました。
それでも京都市中に入ることは許されず、しばらくの間は大阪の勝尾寺(大阪府箕面市)に滞在していたようです。

建暦元年(1211年)、京都に入る許可が出た頃、法然、既に78才。
老齢の身で入京するも、間もなく病床に伏してしまい、翌年に亡くなりました。

この、法然が最晩年を過ごした地が京都の有名なお寺の一つ、知恩院の勢至堂です。

知恩院勢至堂/photo by 663highland wikipediaより引用

おそらくや修学旅行で京都を訪れた方の多くが、「どこのお寺も同じように見えて、記憶に残っていない」のではないかと思います。私もそうでした。

しかし、こういった受験や校内試験でのポイントになる部分と絡めていけば、感慨深くなって思い出に残りやすいのではないでしょうか。

ほんと机にかじりつくだけが勉強じゃありませんね。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「法然」 法然/wikipedia 嘉禄の法難/wikipedia

 




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