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能(狂言)の歴史~「観阿弥・世阿弥」の以前から庶民に支持された娯楽が芸術となるまで

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「芸術は爆発だ!」by岡本太郎
という言葉を聞いてどう思います?

いかにも上品で高貴な人たちしか楽しめないモノが、急に身近に感じられませんか。

実は歌舞伎だって始まりは戦国時代の娯楽でしたし、江戸時代には「秘仏」の公開イベントで人がワラワラ集まったり、今日「芸術」に分類されるものの多くは庶民に支持されておりました。

その最たる例が【能】かもしれません。

般若や女性の怖いお面をつけ、地面に足をすりすりさせながら歩く、独特の動き。
室町時代の文化史で必ず出てくる【能】も、元はといえば庶民の娯楽の一つです。

今回はそれ以前のルーツや観阿弥・世阿弥も含め、能の歴史を追いかけていきましょう。

地方にある古びた能楽堂

 

推古朝あるいは奈良時代が起源

能の原型は諸説あります。

いずれも室町時代よりずっと前のことで、
・推古天皇の時代に隋から伝わった「呉楽(くれがく)
・奈良時代に唐から伝わった「散楽(さんがく)
これらが代表的な能の起源とされています。

推古天皇(土佐光芳)/wikipediaより引用

呉楽は日本に伝わって「伎楽(ぎがく)」と呼ばれる芸に変化。
仮面を付けた無言劇で、能との共通点がいくつか存在します。伎楽のお面はいくつか現存しているのですが、能面よりも立体的な傾向があるようです。

散楽は、軽業(かるわざ)や曲芸、手品、物まねなどの見世物のことを指します。
現代で言うなら中国雑技団やサーカスのようなものでしょうか。

それらが伝わってしばらくは公的にも行われていたのですが、782年に「散楽戸(さんがくこ)」(宮廷による散楽の学校)が廃止されて以降、散楽は民間や寺社で行われるものとなりました。
そして平安中期から、軽口や物まねが中心の寸劇となっていきます。

 

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法会や田植えにも息づいていて

院政の頃には、寺院の法会(ほうえ・僧侶や信者の集まり)の合間に余興として見世物が演じられるようになりました。

能の原型を含めたそれらをまとめて「延年(えんねん)」と呼ぶようになります。
こういった単語の変遷もまたややこしいというか、ハードルが高く感じる原因の一つですよね……。

鎌倉時代に入ると、延年の中の「風流(ふりゅう)」「連事(れんじ)」と呼ばれていたものが、劇のような形に変化。
さらにこれが、農村で田植えを囃(はや)す歌に合わさって「田楽」となりました。

何となくお腹が空いてくるネーミングですが、味噌を使う料理と同名なのは、一応理由があります。

田楽の中に足場のついた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸があり、それと料理の田楽で豆腐に串を刺したところが似ているから……だとか。字面だけだとよくわかりませんが、昔の人の連想力すげえということで。
※田楽の由来には他の説もあります

一方、寺社でも祈祷芸として続けられていた「翁猿楽(おきなさるがく)」に、余興としての面が出てきていました。
この頃から特に大和や近江では猿楽座が多々設けられており、その中から後に
【観阿弥・世阿弥】
などが出てくることになります。

また、能とセットで語られる【狂言】は、鎌倉~室町時代に物まね芸が発展してできたセリフ劇のことです。

ただし、江戸時代中期には芝居が含まれる芸能のことを全部「狂言」と呼んでいることもあるので、その辺の時期について調べるときは注意したほうがよさそうです。
受験の範囲では、そこまで気にしなくてもいいですけれども。

 

室町初期に観阿弥が登場!

室町時代初期には、芸の分野でこんなものが好まれる傾向があったようです。

京・奈良→勧進田楽
大和→物まね芸
近江→歌舞

こういった状況の中で、能の大成者ともされる観阿弥が登場。
彼は、女曲舞師(おんなくせまいし)・乙鶴(おとづる)に曲舞を学び、これを猿楽に取り入れて、それまでになかった芸風を作り上げます。
また、作劇の腕前も人々の共感を得ました。

当時は田楽のほうが人気があったのですが、観阿弥と、その息子・世阿弥が京都の今熊野神社で見事な能を演じ、これを見物して気に入った室町幕府三代将軍・足利義満がパトロンとなったことで、能も世間の注目をあびるようになります。

足利義満/wikipediaより引用

「美童だった世阿弥の見目と演技を義満が気に入ったから」
ともいわれていますが……まぁ、男色が珍しくなかった時代ですし、現代でも綺麗な同性に見惚れるという話は珍しくありません。そこは深く考えなくても良さそうですね。

観阿弥は役者の年齢や体格などに合わせて役者の指導を行い、個性を活かすことにも長けていたといいます。
現代的にいうなら「役者ごとのハマり役を見つけるのがうまかった」みたいな感じですかね。

 

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古い演目を当世風にアレンジした世阿弥

また、世阿弥は父の死後、古来からある演目を当世風にアレンジしたり、上流階級の好みに合わせた華麗な芸風に変化させるなどして、さらに能を発展させていきました。

伊勢物語や源氏物語、そして平家物語など、古くから親しまれていた物語を元ネタとした曲を多く作っているのが、世阿弥作品の最大の特徴です。
歴史好きにも馴染みのある人物をテーマにしたものを、いくつか挙げてみましょう。

・「融(とおる)
河原左大臣・源融(みなもとのとおる)がかつて風雅を尽くした屋敷の跡に、東国からとある僧侶が訪ねてくると……。

・「蝉丸」
百人一首にも採られている歌人・蝉丸は、実は醍醐天皇の皇子だったが、幼い頃に失明したため捨てられてしまい……。

・「葵上(あおいのうえ)
源氏物語の主人公・光源氏の最初の正室である葵の上が亡くなる「葵」の段そのままの曲。主役(して)は六条の御息所。

・「敦盛」
出家した後の熊谷直実が「わき(シテの話を聞き出す相方役)」となり、平敦盛の菩提を弔うと……。

・「景清」(他作者説あり)
平家方の武士で落人伝説もある藤原景清が主役(して)。落ち延びた景清の下を、娘・人丸が訪ねてきたが……。

他にも世阿弥作の曲は非常に多く、現代でも上演頻度がとても高くなっています。
また、彼は脚本だけでなく、「能とはどうあるべきか」といった論述書も多く書いていました。マルチ作家という感じですかね。

しかし、世阿弥本人の後半生は、幸福とはいいがたいものでした。
六代将軍・義教が、世阿弥よりも甥っ子の音阿弥の芸を愛好したため、相対的に世阿弥の評価が下がってしまったのです。

足利義教/wikipediaより引用

次第に宮中への出入りなども禁じられ、息子に先立たれ、さらには佐渡に流されるという不幸っぷり。

流罪になった理由は、はっきりわかっていません。
「何らかのきっかけで義教の怒りを買ったから」ともいわれていますが、むしろあの義教を怒らせて流罪で済むわけがないので、違うような気もしますね。功績と差し引いて減刑、とかなさそうですし。

晩年に帰京したという説もあります。
ただ、世阿弥の没年や最期の地はわかっていません。こういうのは文化人にはままある話ですけれども、可哀想すぎやしませんか……。

また、他にも近江猿楽の犬王や、田楽の増阿弥など、優れた芸能人が切磋琢磨していたのもこの時代です。
特に、増阿弥は四代将軍・足利義持に庇護を受けていました。

 

能楽座も解体ギリギリに……

六代将軍・足利義教は音阿弥の他に、世阿弥の娘婿である金春禅竹(こんぱる ぜんちく)という能楽師を特にひいきしていたといいます。

音阿弥は、著作を行わず、純粋な役者として好まれました。
禅竹は神道や仏教にも通じ、能と宗教をからめた著作が得意だったそうです。

足利義満・足利義持・足利義教それぞれの好みの差が何となくわかる気がしますね。
親子兄弟でここまで好みが違うというのも面白いものです。

音阿弥は【嘉吉の乱】によって足利義教が討たれると、一時パトロンを失い、苦しい状況に陥りましたが、八代将軍・足利義政が新たな後ろ盾となり返り咲きました。

足利義政/Wikipediaより引用

しかし、他の能楽師たちはそうはいきません。
各地の有力大名に庇護を受けようと散っていったり、民衆にウケる芸風に変化して生き残ろうとしました。足利将軍家に見切りをつけた人もいたでしょう。

いずれも情勢は厳しく、能楽座も解体ギリギリまで落ちぶれてしまいます。

そんな中で、音阿弥七男・観世小次郎信光の系統が、物語を重視した新しい能を作るようになり、新しい観客を獲得していきました。

この時期の名作としては「安宅」が挙げられます。
歌舞伎で有名な「勧進帳」の元になった演目で、源頼朝の追っ手から逃げる途中の源義経が、安宅の関(現・石川県小松市)を超える際、武蔵坊弁慶が一芝居打ったというあの話です。

 

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武家では「自分で能を演じる」ように

室町時代後期~戦国時代にかけての【能】はさらに進歩します。

まず、裕福な町人のセミプロが演じる能「手猿楽(てさるがく)」や、能の台本である謡曲を一般人が楽しむ「謡(うたい)」などが生まれました。

手猿楽は、宮中や堂上公家(清涼殿に上がれる格を持つ公家の中でもエライ人たち)を含めた京都全体。
謡は、公家・武家・町人と社会全体。

いずれも能に関連して流行した、当時の一大エンターテイメントです。

現代では、手猿楽が話題に上ることはほとんどありませんが、本流の能とは別に、江戸時代まで続いた家もあったとか。

また、大名や武士の教養として「自分で能を演じる」ことが定着したのもこのあたりです。
その理由を断定するのは難しいことですけれども、上記の通り、能には武士の悲哀を描いた物も多いので、共感した者が多かったのかもしれません。

能とはちょっと違いますが、
織田信長が幸若舞を愛し、特に『敦盛』を好んで舞っていた」
というのはとても有名な話ですよね。

 

秀吉に続いて家康も支持した

また、豊臣秀吉も能を非常に愛好した武士の一人です。

自らプロの役者に学んで演じたり、能楽師を金銭的に支援して能楽座を復興させたり、素人上がりの役者を保護して新人育成を奨励したり、能の世界にとって大恩人ともいえる立場。
なんか意外ですかね?

しかし派手好みの秀吉に合わせてか。このころから能装束が豪華になっております。
また、現在知られている能面の種類が出揃ったのも同時期のことでした。

養子である豊臣秀次も能を愛し、京都五山の僧侶や山科言経などの公家に命じて「謡抄(うたいしょう)」という謡曲の解説書を作らせていました。

『新しもの好きの信長や、派手好みの秀吉が好きだったのなら、質実剛健が旨の家康はどうなの?』

そんな疑問を抱いた方もいらっしゃるかもしれません。
と、これがなんと、家康も能のファンでした。
浜松にいた頃から観世大夫元忠・身愛(ただちか)という能楽師親子を庇護しているほどですから、かなり年季が入っています。

家康は幕府を開いた後、江戸に各家の家元や役者を住ませていました。徳川秀忠以降の将軍たちも基本的に能を奨励し、これに各大名が続いて、能はすっかりおなじみの芸術になっていきます。

このため、大名に人気のある曲だけが演じられるようになり、新しい作品は出てこなくなりました。
しかし、そのかわりに演出や内面描写を重視する演技で変化をつけて、複雑さを生んでいく方向に進んでいます。

この流れによって、舞台で演じられる能は基本的に武家のものとなり、庶民は勧進能など、ごく限られた機会でしか触れられなくなりました。

 

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今はジーパン&ジャケットでもOK!

代わりに、庶民は謡や、謡曲の一部だけを抜き出した「小謡(こうたい)」に親しんでいきます。
謡本の刊行も盛んになりました。

江戸時代には歌舞伎や人形浄瑠璃のような他の芸能も盛んでしたし、読本のバリエーションも非常に豊富で、エンタメには困らない状況になっていましたから、庶民はライブで見る能にはこだわらなかったのかもしれませんね。

能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」のように、元ネタが同じものも多々あります。

現代では、何となくしゃちほこばった印象のある能ですが、このように国民の多くが親しむ時代から、格式が高くなっていったという経緯がありました。

とはいえ、この記事を書くにあたって参考にさせていただいた「能楽ハンドブック」の序文によると、1990年代の時点で「ジーパンにジャケット」で能楽堂に行っても差し支えない状況にはなっていたようです。
オフィスカジュアル程度にはきれいめにしておいたほうが無難でしょうけれども。

「服装よりも携帯電話の電源オフや、動作・持ち物によって出る音のほうに気を使うべき」というご意見の方も多々見られました。

最近はネット上に能のあらすじが見られるサイトもありますので、予め話を知っておき、当日は場の空気を楽しむのもアリかもしれません。

文化史は政治史や戦史と違い、実際に見たり聞いたりできます。
たまには生のライブ感覚を味わって、記憶に焼き付けるのもよさそうです。




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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「能楽」「観阿弥」「世阿弥」
能楽ハンドブック

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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