能狂言

厳島神社の能舞台

文化・芸術

信長 秀吉 家康や足利将軍も愛した能と狂言の歴史&観阿弥世阿弥

「芸術は爆発だ!」by岡本太郎

という言葉を聞いてどう思います?

一瞬、ワケわからん、なんやコイツ、となるかもしれませんが、同時に、高貴な“芸術”というものが、グッと身近に感じられませんか。

実は歌舞伎だって始まりは戦国時代の娯楽であり、荘厳なイメージの仏像も江戸時代には「秘仏」公開イベントで人がワラワラ集まってくる、アイドル的存在でした。

今日「芸術」に分類されるものの多くは庶民の支持から現在にまで繋がってきています。

その最たる例として、今回、注目したいのが【能(のう)】。

般若や女性の怖いお面をつけ、地面に足をすりすりさせながら歩く、独特の動き。

室町時代の文化史で必ず出てくる【能】も、元はといえば庶民の娯楽の一つです。

至徳元年・元中元年(1384年)6月8日は観阿弥の命日。

今回は観阿弥・世阿弥やそれ以前のルーツも含めて、能の歴史を追いかけていきましょう。

 


推古朝あるいは奈良時代が起源

能の原型は諸説あります。

いずれも室町時代よりずっと前のことで、

・推古天皇の時代に隋から伝わった「呉楽(くれがく)」

・奈良時代に唐から伝わった「散楽(さんがく)」

これらが代表的な能の起源とされています。

推古天皇(土佐光芳)/wikipediaより引用

呉楽は日本に伝わって「伎楽(ぎがく)」と呼ばれる芸に変化。

仮面を付けた無言劇で、能との共通点がいくつか存在します。伎楽のお面はいくつか現存しているのですが、能面よりも立体的な傾向があるようです。

散楽は、軽業(かるわざ)や曲芸、手品、物まねなどの見世物のことを指します。

現代で言うなら中国雑技団やサーカスのようなものでしょうか。

それらが伝わってしばらくは公的にも行われていたのですが、782年に「散楽戸(さんがくこ)」(宮廷による散楽の学校)が廃止されて以降、散楽は民間や寺社で行われるものとなりました。

そして平安中期から、軽口や物まねが中心の寸劇となっていきます。

 


法会や田植えにも息づいていて

院政の頃には、寺院の法会(ほうえ・僧侶や信者の集まり)の合間に余興として見世物が演じられるようになりました。

能の原型を含めたそれらをまとめて「延年(えんねん)」と呼ぶようになります。

こういった単語の変遷もまたややこしいというか、ハードルが高く感じる原因の一つですよね……。

鎌倉時代に入ると、延年の中の「風流(ふりゅう)」「連事(れんじ)」と呼ばれていたものが、劇のような形に変化。

さらにこれが、農村で田植えを囃(はや)す歌に合わさって「田楽」となりました。

何となくお腹が空いてくるネーミングですが、味噌を使う料理と同名なのは、一応理由があります。

田楽の中に足場のついた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸があり、それと料理の田楽で豆腐に串を刺したところが似ているから……だとか。字面だけだとよくわかりませんが、昔の人の連想力すげえということで。

※田楽の由来には他の説もあります

一方、寺社でも祈祷芸として続けられていた「翁猿楽(おきなさるがく)」に、余興としての面が出てきていました。

この頃から特に大和や近江では猿楽座が多々設けられており、その中から後に

【観阿弥・世阿弥】

などが出てくることになります。

また、能とセットで語られる【狂言】は、鎌倉~室町時代に物まね芸が発展してできたセリフ劇のことです。

ただし、江戸時代中期には芝居が含まれる芸能のことを全部「狂言」と呼んでいることもあるので、その辺の時期について調べるときは注意したほうがよさそうです。

受験の範囲では、そこまで気にしなくてもいいですけれども。

 


室町初期に観阿弥が登場!

室町時代初期には、芸の分野でこんなものが好まれる傾向があったようです。

京・奈良→勧進田楽

大和→物まね芸

近江→歌舞

こういった状況の中で、能の大成者ともされる観阿弥が登場。

彼は、女曲舞師(おんなくせまいし)・乙鶴(おとづる)に曲舞を学び、これを猿楽に取り入れて、それまでになかった芸風を作り上げます。

また、作劇の腕前も人々の共感を得ました。

当時は田楽のほうが人気があったのですが、観阿弥と、その息子・世阿弥が京都の今熊野神社で見事な能を演じ、これを見物して気に入った室町幕府三代将軍・足利義満がパトロンとなったことで、能も世間の注目をあびるようになります。

※以下は足利義満の事績をまとめた記事となります

足利義満
日本国王の称号を持つ足利義満~室町幕府・三代将軍51年の生涯まとめ

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「美童だった世阿弥の見目と演技を義満が気に入ったから」

ともいわれていますが……まぁ、男色が珍しくなかった時代ですし、現代でも綺麗な同性に見惚れるという話は珍しくありません。そこは深く考えなくても良さそうですね。

観阿弥は役者の年齢や体格などに合わせて役者の指導を行い、個性を活かすことにも長けていたといいます。

現代的にいうなら「役者ごとのハマり役を見つけるのがうまかった」みたいな感じですかね。

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