平将門/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた 日本史オモシロ参考書

平将門の乱はナゼ起きた? 怨霊が怖すぎる首塚伝説を含めてスッキリ解説!

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たとえ歴史が苦手でも、誰もが何となく聞いたことがある、有名な事件ってありますよね。

戦国時代で言えば本能寺の変
近現代なら二・二六事件五・一五事件

いずれも小学生の歴史で取り扱われるほどメジャーな出来事ですが、では平安時代に最も著名な事件って何なのか?

やっぱり「平将門の乱」ではないでしょうか。

関東で反乱したっていう設定も、なんだか「武士!」というイメージが強いですし、さらには首塚や呪いの話まであって、話題性には事欠きません。

実は今も、東京駅からスグのところに首塚があって、それを取り壊せないために、周囲を囲うようにしてビルが建っています。
かつてGHQが撤去しようとして事故が起き、結局、そのままにしたっていう怖すぎる経緯もあるのです。

そんな平将門とは一体どのような人物だったのか。

なぜ乱を起こしたのか。

更には、どうして怨霊とまでいわれるようになってしまったのか。

一つずつ見て参りましょう。

 

高望王の孫だった

まずは、この乱が起きた9世紀頃の世情について簡単にお話しますね。

将門が生まれるよりも少し前から、関東ではとある傾向が固まっていました。
国司として京都から派遣されてきた貴族が、地元の有力者たちと婚姻関係を結び、勢力を拡大していたのです。

そんなことがあっちこっちで起これば、当然衝突も起きるようになっていきます。

何かトラブルが起きれば、その解決のため朝廷が一肌脱ぐ場面ですが、この頃の中央政府には「地方を治める」とか「地方の治安維持をする」といういう概念が希薄だったので、自力でどうにかするしかありません。

そうした関東の有力者の中には、臣籍降下した元皇族の末裔も含まれていました。

将門もそうした家系の一人。
具体的には、桓武天皇のひ孫・高望王(たかもちおう)の息子が将門の父だといわれています。

桓武天皇





ひ孫(高望王)

将門の父

平将門

上記のように把握しておくと、多少わかりやすいですかね。

 

伯父の平国香と対立し、更には源護とも戦いに発展

将門が成人する頃、彼らは現在の茨城県常総市付近をシマにしておりました。
そして将門がそれを受け継ぐと、伯父の平国香などと対立することになります。

そのうち小競り合いが頻発するようになり、国香と姻戚関係にあった源護(みなもと の まもる)とも一戦交えます。

実はそこまでの詳しい経緯がはっきりわかっていないのですが、仮説としては
・将門と護が女性に関する議論で大ゲンカになった
・源護と平真樹(たいら の まき/たいら の まさき)という豪族が領地争いをしており、将門がその仲介を務めた
などがあります。
どっちにしろ、ありがちな土地争いというか、いかにも古代の話らしいというか。

親戚同士のドンパチなら、長引くことこそあれ、公的に大きく取り沙汰されることはそうそうありません。

しかし、護は地元での小競り合いだけでは済ましませんでした。
中央政府に採決を仰いだのです。

 

敵の中に「お役人様」がいて一気に立場が危うくなる

将門と護は朝廷から「こっちで裁判するから二人とも出頭するように」(意訳)と言われ、おとなしく上京しました。
もちろん二人一緒に行ったわけではなく、将門のほうが先に京へ到着しました。そして自分の立場や経緯を訴え、大赦を得て帰国しています。

いち早く上京したことや、陳情で勝っている(?)ことからすると、当初の将門はごくまともというか、決して恐ろしい人物ではない感じがしますね。

とはいえ「やればやり返される」のもまた当然の話です。

将門は再び自身の領地を攻められ、一時は本拠にまで敵の侵入を許してしまいました。
その分もやり返していますが、ここから話がややこしくなってしまいます。

「将門にとっての敵」である人物の中に、中央政府から何らかの役目を与えられていた「お役人様」がいたことから、次第に将門の公的な立場が危うくなっていくのです。

現代でいえば「民事裁判で争っていたところ、敵の中に裁判官や警察官がいて、なんだか不条理だけど自分がヤバくなってきた」という感じでしょうか。

そしてそれがハッキリしてしまったのが、天慶元年(938年)のことです。

 

さらには国司を敵に回して絶体絶命

このころ将門は、武蔵の国司vs足立郡司の争いに介入していました。
さらに翌年、常陸国の住人・藤原玄明(はるあき)の訴えを信じ、常陸国府を攻略して国司から印鎰を奪うなどの暴挙を働いてしまいます。

国司は朝廷から任じられてこの地にやってきているわけですから、その権力の証である印を奪うことは、朝廷への反逆を意味してしまいます。

これよりも後の時代に成立した「将門記」という書物では、この後に将門が自ら「新皇」と名乗って朝廷へ反逆する姿勢を明らかにし、城を建てて役人の任命などもしていた……とされていますが、それがどこまで本当なのかはわかりません。
将門記の著者が不明な上、当時将門の近辺にいた人物ではなく、「都で将門のことを伝え聞いた知識人」だろうといわれているからです。

いずれにせよ、国司から印を奪った時点で、朝廷としては将門を放置しておくわけにはいかなくなります。
大ピンチ!

朝廷は、東海道・東山道に追捕使を任じ、藤原忠文(藤原式家の人)を征東大将軍に任命。
「将門を討った者には褒美を与える!」
と他の土豪たちにもお触れを出して、本格的な将門討伐にかかるのです。

その中でいち早く動いたのが、下野国の押領使だった藤原秀郷でした。
彼は奥州藤原氏の祖先でもあります。
後に源義経が逃げ込んだことでも知られている奥州藤原氏ですね。この辺、歴史がつながっていてオモシロイところです。

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