有名な慣用句ですが、実は意味が一つとは限らないそうで。
多くの方は「続けていればそのうち成功できる」といった意味で捉えているような気がしますが、「成功するまで続けること自体が才能である」といった解釈もあるとか。
「続けることに意味がある」ものといえば、儀式や文化的習慣の類が挙げられます。合理主義の方からすれば無駄に見えることもありますが、「続ける・伝える」ことそのものが重要、というものです。
本日はその一例にあたるであろう、とある芸のお話。
文永三年(1266年)4月8日は、公家の飛鳥井教定(あすかいのりさだ)が亡くなった日です。
この人が個人的に歴史に残るようなことをしたわけではありません。
飛鳥井家全体としてみると、実に公家らしい働きをしています。
本日はそんな感じで話を進めていきましょう。
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雅経の父・頼経は源義経とマブダチ 命を狙われたが
飛鳥井家の始祖は、百人一首にも取られている「参議雅経」という人です。
血筋としては、藤原道長の孫である師実の流れ。また道長か。
百人一首では94番「み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり」の作者ですね。
歌意としては「かつて都だったこの奈良の地に、吉野山から秋の風が吹いてきた。衣を打つ砧の音も響いて、一層秋の夜の寒さが身にしみる」といった感じでしょうか。
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公家ですから、当然和歌は得意。
雅経はまさに「芸は身を助ける」という生涯を送った人でした。
実は、雅経の父・頼経が、あの源義経と親しかったために、親子ともども、源頼朝に罪を問われかけたことがあるのです。
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しかし、雅経の和歌と蹴鞠の才を重んじた頼朝は、罪を許し、息子である頼家や実朝に引き合わせました。
もしかしたら、頼家が蹴鞠に、実朝が和歌に強く興味を持ったのは、雅経がきっかけだったかもしれません。
雅経自身は頼朝の猶子となり、頼朝の側近・大江広元の娘を妻にするなど、かなり気に入られたようです。
頼朝としても、信頼できる公家とパイプを持っておくことは大きなメリットですしね。
疑いが晴れた後は、京に戻り、後鳥羽上皇に仕えて新古今和歌集の選者の一人となりました。
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鎌倉・室町・江戸の武家社会も生き抜いた
そんな人の子孫ですから、飛鳥井家は代々和歌と蹴鞠の師範として存続していきます。
【応仁の乱】では他の公家同様、京を離れて近江(現・滋賀県)や長門(現・山口県)などに移り住みましたが、その先でも家業を続け、伝えました。
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また、八代目の雅親が書に優れていたことで、書道でも飛鳥井流という派ができています。
和歌・蹴鞠・書道――いかにも由緒ある公家といった感じですね。
政治にも長けていた同家は、武家伝奏(幕府からの連絡を朝廷に取り次ぐ役目)もたびたび務め、鎌倉・室町・江戸幕府ともうまく付き合っています。
公家といえども決して安楽ではなかった武家政権の時代を、器用に生き延びた一族といえましょう。
さて、ここで疑問を一つ。
なぜ和歌や書道と並んで「蹴鞠」が取り上げられているのか。
家業とされるほど重要視された理由は何なのか。
理由は二つ考えられます。
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