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中大兄皇子と中臣鎌足の出会いも!?
一つは、蹴鞠が公家の社交に欠かせないスポーツだったことです。
有名どころでは、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの話がありますね。中大兄皇子が法興寺で蹴鞠をしていた際に沓を落としてしまい、それを中臣鎌足が拾った……というものです。
「このとき中大兄皇子がやっていたのは、蹴鞠ではなかった」という説もありますが、いずれにせよ、ちょっとしたきっかけで仕事に影響を与えるような関係ができる、というのはままあることですよね。
「職場以外で話してみたら、案外いい人で仕事を頼みやすくなった」というのもよくある話ですし、現代ならゴルフってところかもしれません。
もう一つの理由はもっと単純で、蹴鞠が上は皇室、下は庶民まで楽しまれたスポーツだったからです。
蹴鞠に必要なのは鞠と場所だけで、高価な道具や衣装はなくてもできます。
正式な作法ではいくつか用具が要りますが、庶民はそこまで形式を重んじてはいなかったでしょう。
ちょっと良くない例えですが、発展途上国でもサッカーが盛んなのは、ボールと平地さえあればできるスポーツという面が大きいそうです。蹴鞠もそれと同じだったんでしょうね。
また、屋根の下から出られない上流階級の女性たちでも、庭先で男性たちが蹴鞠をやっていると、すだれギリギリのところで楽しく観戦していたとか。
そういった場面は源氏物語にも出てきますし、清少納言も「上品ではないが面白い」と評価していますね。
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こちらは、現代人がサッカーや野球のテレビ中継を見るのと同じ感覚と考えてよいかと思います。
最も長く続いている蹴鞠の流派・飛鳥井流
そんなわけで、公家の中で蹴鞠を得意とした人の家が家業とし、流派を持つ家がいくつかありました。
そのうち、飛鳥井流は最も長く続いています。
江戸時代初期に、徳川家康から蹴鞠道家元と認められたことが大きいでしょう。他の流派は、それまでの間に廃れてしまっていますから。
飛鳥井家は明治維新の際、他の公家同様、東京にやってきましたが、屋敷の跡に建てられた白峯神宮には、精大明神(せいだいみょうじん)という蹴鞠の守護神が祀られています。
現在ではサッカーを中心とした球技・スポーツの神とされ、信仰を集めているそうです。
球状のものを蹴る競技ということで、蹴鞠とサッカーが対比されることは珍しくありません。
そしてサッカーと神様といえば、サッカー日本代表のシンボルマークに使われている八咫烏。
厳密には神の使いであって神様じゃありませんが、こまけえこたあいいんだよ。といっても、白峯神宮に八咫烏は祀られていないのですけれども。
実は、八咫烏がサッカー日本代表のシンボルマークになった理由ははっきりしていないらしいんだとか。
神武天皇が道に迷っていたとき、天から案内として遣わされたのが八咫烏なので、縁起がいいことは間違いありませんが。
「蹴鞠の名人が信仰していた熊野神社に八咫烏が祀られているから」
という説もあります。
熊野本宮大社の主祭神はスサノオノミコト=武神ですし、勝負事という意味では当たらずといえども遠からず、というところでしょうか。
また、熊野本宮大社には「八咫烏ポスト」というものがあり、昔ながらの円柱形のポスト(ただし色は黒)の上に八咫烏がかたどられています。
社務所でこのポストが書かれた「八咫烏ポスト絵馬」も売っていて、はがきとして投函できるとか。
旅先から送るのはもちろん、お土産や記念品としても良さそうですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
飛鳥井教定/Wikipedia
飛鳥井家/Wikipedia
白峯神宮/Wikipedia
白峯神宮