伊達忠宗/Wikipediaより引用

伊達家 その日、歴史が動いた

伊達忠宗はデキる息子!政宗の嫡男にして仙台藩の二代目藩主を知ってる?

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「二代目は地味」という歴史のセオリーがあります。

徳川家康徳川秀忠
というのは一般的に知られていても、
足利尊氏→【   】
源頼朝→【   】
を即答できるのは歴史ファンと受験生の皆さまぐらいでしょう。
※答えは記事末に

さらに地方の大名となれば、更に難易度は高まるってもので、それは戦国時代でも屈指の人気武将でも言えること……。

万治元年(1658年)7月12日は、仙台藩の二代藩主・伊達忠宗が亡くなった日です。

この方が誰なのか、言うまでもないでしょうか。
父ちゃんは戦国一のネタ武将こと伊達政宗です。

イラスト・富永商太

 

いろいろ重なってますます影の薄い伊達忠宗

世に、マイナー二代目は多々あれど、伊達忠宗はトップクラスに不遇な状況です。

というのも……。

・キャラの濃すぎるトーチャン(伊達政宗)

・世の中が平和になった直後の藩主継承

・息子(伊達綱宗)のせいで次代にお家騒動発生→改易をギリ免れる

かようにオモシロ案件が前後に重なったため、より一層影が薄くなってしまいました。

しかし、そこは名門伊達家の当主を務めた人物です。
もちろん仕事はきっちりやっています。

忠宗は、慶長四年12月に京都で生まれました。
新暦に直すと1600年1月ですから、関が原に向けて世の中が不穏な情勢になっていた頃です。

正室・愛姫の子供だったので、次男ながら早いうちから跡継ぎ候補とみなされておりました。
7歳のときには徳川家康の五女・市姫と婚約しているくらいですしね。

ただし、市姫は3歳で亡くなってしまい、家康の外孫で池田輝政の娘・振姫が秀忠の養女として嫁ぐことになります。

このとき忠宗17歳、振姫10歳。
夫婦仲についてのエピソードは特にありませんが、二男一女をもうけているので、悪くはなかったと思われます。
残念ながら、三人とも夭折してしまっていますが……。

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生前に家督継承していない 数少ない例外だった

忠宗は若い頃から慎重でおとなしい人物だったらしく、家督を譲られる前の逸話もほとんどありません。

トーチャンがいろいろやって(やらかして?)いたので、陰が薄くなるのも仕方のないことでしょう。
気の弱い人なら胃痛→胃潰瘍→胃がんになっていてもおかしくありませんが、そこは血筋か体質か、あるいはその両方のおかげでなんとかなった……と想像します。

ほとんどの大名が父の生前に家督を譲られている中、忠宗は数少ない例外でした。

実は伊達政宗は、寛永十三年(1636年)に亡くなるまで、家督を譲っていなかったのです。
「まだまだ死んでたまるか!」という気概だったのか、他に何か考えていたのか、何も考えていなかったのかよくわかりません。だって政宗だし。

異母兄の伊達秀宗には、父・政宗とよく似た気概の持ち主だろうと思わせる逸話があるのに対し、忠宗にはそういうものがないあたり、母・愛姫に似ていたのかもしれませんね。
政宗にとっては頼りなく見えたのでしょうか。

しかし、秀宗を宇和島へ送り出してまで長幼の順に家督を譲ると示したのに、「なんとなく頼りない」というだけで忠宗を廃嫡するのも筋が通りませんし、面子に関わります。
その辺が絡まって踏み切れなかった……とかですかね。

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徳川家光が見舞いにやってきて「伊達家は潰さないよ」

実際には、忠宗は父が寝込んでから見舞い客などを丁寧に応接していたようなので、外から見れば「落ち着いた跡継ぎ」に見えていたと思われます。

三代将軍・徳川家光が政宗死去の3日前(しかも早朝)に見舞いに来たときも、そつなく応じていました。

家光は念押しとして、帰り間際に「もしこのまま政宗が亡くなっても、伊達家を取り潰したりはしないから安心せよ」といった感じのことを忠宗に言ったそうです。
忠宗は家光の四歳上で同世代です。
仙台藩ほどの大藩かつ名家を取り潰すと後処理が面倒ですし、家光の判断は打倒だったでしょうね。

こうして無事に父の葬儀と家督相続を済ませ、忠宗は同年8月に初めて仙台へお国入りすると、さっそく藩上層部の入れ替えや制度変更などの改革を行っています。

家督継承前からいろいろと考えていたのかもしれませんね。
政宗から言いつけられていた部分や、アドバイスを貰ったりしていた部分もありそうです。

 

総検地と共に買米制を導入 領民のヤル気をつっついた

難しい引き継ぎの時期を無事に乗り切った後、藩主となって四年目の寛永十七年(1640年)から、四年かけて領内の総検地を行っています。

仙台藩と他藩で土地の単位が異なっていたため、全国基準に合わせる面もありました。

それから、検地に伴って「買米制」を始めています。
「領内で余った米は、一度藩が買い上げて江戸で売り、その利益を農民にも配分する」というものです。少なくとも忠宗の代には非強制的・先払いだったため、農民の懐を潤わせ、さらに新田開発へのやる気を出させる……という効果をもたらし、仙台藩は豊かになっていきます。

人を動かすのは「やりがい」という名の妄想ではなく、”生活に困らず安心できるだけの”お金なんですよね(´・ω・`)
食うや食わずの収入では、結婚も子供を産み育てることもできませんし、そもそも前向きに生きていくことすら難しいのですから。

 

「領民の雇用創出」と「藩の収入確保」を徹底

忠宗は、建築も熱心に行いました。
仙台城に二の丸を作り、政務や日常生活の場にしています。

本丸はもちろんありましたが、政宗も生前「山城はこれから不便になる」と言っていたことがあるので、その遺志を反映したものでしょうかね。
忠宗以降の仙台藩主は、基本的に二の丸で生活と仕事をしていました。

仙台城の縄張り(左側の緑色部分が山で、上部の広いエリアが二の丸・本丸は中央下)/国立国会図書館蔵

他にも父を祀る瑞鳳殿(仙台市青葉区)・瑞鳳寺(同)、白山神社(仙台市若林区)、仙台東照宮(仙台市青葉区)など、多くの寺社を造営しています。

白山神社は古くから地元で信仰されていた神社ですし、東照宮はもちろん家康を祀っています。
父・地元・幕府をまんべんなく尊重する姿勢を見せた、ともいえますね。

忠宗の政策からすると、「領民の雇用創出」と「藩の収入確保」を常に念頭に置いていたのでしょう。
当たり前といえば当たり前ですが、これができない大名はわんさかいました。

仙台は政宗の代に5万人ほどが住む都市になっており、スペイン領メキシコの大使であるセバスティアン・ビスカイノに「江戸と同じくらいの規模だが、建物は仙台のほうが素晴らしい」と評されていたほどです。

江戸は急激な人口増で「とりあえず住めるところをたくさん作れ!」という地域もあったでしょうから、大名屋敷と庶民街の落差が大きく見えたのかもしれませんが。

つまり、忠宗は代替わり早々(お膝元だけでも)5万人を食わせていくための工夫をしなければならなかったことになるわけです。
そりゃ収入と雇用創出を大事にするわけですよね。

 

母の実家(田村家)も復活させている

また、政宗の晩年にあたる慶長年間には、東北でいくつかの大きな地震が起きていました。
慶長十六年(1611年)の慶長三陸地震では、仙台藩の領内で数千単位の死者が出たとされています。

忠宗が藩主になった頃には落ち着いていたでしょうが、父や家臣たちから当時のことを聞いたりして「戦はなくなったが、これからは別の備えが必要だ」と感じていたのかもしれませんね。

異母兄・秀宗が江戸城で上座に座ったときも忠宗は抗議しておりませんし、かなり空気が読めるというか、背後や前後関係を考えて行動する人という感じがします。

また、母・愛姫の「私の実家(田村家)をどうか再興させてください」という願いが父の代に叶わなかったことを気に留め、三男・宗良に田村氏を名乗らせて再興させました。

これだけデキたトーチャンの息子なのに、なぜ息子の伊達綱宗があんな大騒動(伊達騒動)を引き起こしたボンボンになってしまったのか、不思議でなりません……。
綱宗は六男でしたから、藩主としての心構えなどを教育されていなかったんですかね。
そういうときに限って家督がまわってくるのですから、

詳細は、以下の別記事になります。
よろしければご覧ください。

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【参考】
国史大辞典
伊達忠宗/Wikipedia

 



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