イラスト:富永商太

織田家 その日、歴史が動いた

信長から義昭へ「十七箇条意見書」や「殿中御掟」には何が書かれていた?

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元亀四年(1573年)7月18日は、槇島城の戦いで室町幕府の15代将軍・足利義昭が降伏した日です。

本来であれば武家のトップであり、朝廷から政治を預かっているハズの室町幕府将軍が、一体誰に降伏する必要があるのか?
というと、相手は皆さんのご想像通り、織田信長です。

本日は信長と義昭の仲が(#^ω^)ピキピキと嫌悪になっていった経緯を見ていきましょう。

色々と要素はあるのですが、わかりやすいキッカケとなったのが
殿中御掟
十七箇条意見書
であります。

殿中御掟の読み方は「でんちゅうおんおきて」と読みます。

 

兄の義輝を殺されアッチコッチを流浪していた

兄である十三代将軍・足利義輝松永久秀と三好家の愉快な仲間たちによってブッコロされてしまってから、三年間あっちこっちを流浪していた義昭。
最終的に(細川藤孝ら近親のおかげで)身を寄せたのが、織田家でした。

信長は、世間のイメージに反して将軍家や皇室・朝廷などを大切にしていましたので、義昭自体を保護することは問題なかったでしょう。
むろん、利用価値についても考えてはいたはずですが。

そして信長とその妹婿・浅井長政らの協力によって、義昭は京都に戻ってくることができました。

義昭だけならともかく、今をときめく信長の軍つきでは、三好家に対抗手段はありません。
京都から退き、彼らが後釜に据えた十四代将軍の足利義栄よしひでは病死、義昭が将軍の座に就くための障害は全て取り除かれました。

足利義昭/wikipediaより引用

 

「室町殿御父」と呼ぶほど信長を慕っていた

正当性のある将軍の存在は、諸国の大名からも歓迎されます。

島津家や毛利家からお祝いが届いたりして、義昭もヤル気満々。
信長が帰った隙を突いて、一度三好家からケチ(物理)がついたこともありましたが、織田軍が二条城を整備して義昭の安全を保証すると、それも落ち着きました。

何から何まで世話を焼いてくれた信長に、義昭はこの時点では絶大な信頼と感謝を寄せていました。

それは信長に「室町殿御父むろまちどのおんちち」という称号を与えたことにも現れています。
手紙では略して「御父」と書いていますね。

数歳しか変わらないのに大袈裟な気もしますが、これは他の幕閣と相談して決めた称号だったりします。誰かもっとツッコめなかったん?

まあ、この時点で信長の長子・織田信忠は既に元服が視野に入る年齢になっていましたし、義昭はまだ人の親になる前&自分の父親との思い出もあまりないですから、信長のどこかに「父性」を感じたのかもしれません。
そういうことにしておきましょう。

 

悪いのは義昭かなぁ……っていう「十七条の意見書」

義昭は信長に対する感謝をさらに表すべく、副将軍の地位や管領への就任を勧めました。

が、信長は「ワシにそんな大それた役目はもったいないので、弾正忠の官位だけお受け取りします」(意訳)と断りました。
既に室町幕府を見限っていたからだと目されています。

そして、二人の仲が(少なくとも表向き)良かったのもここまで。
その後は意見がかみ合わないことが続き、決裂へ一直線に進んでいきます。

専制を布きたい信長が『殿中御掟(でんちゅうおんおきて)』などで義昭をないがしろにしたからだ……とされていますが、その後に出された十七条の意見書を見ると、
「……義昭にもそれなりに理由があるんじゃね?」
と思われます。

 

十七条の意見書~信長から義昭へ~

そもそも、現職の将軍に十七個もツッコミどころがあることがそもそも問題ですよね。

おおむね二つに分類できるかと思うのでザックリまとめてみました。
左の番号は十七条のうち何番目かを表しています。

A・義昭の仕事ぶりに関するツッコミ

① 兄君の義輝殿は朝廷をないがしろにしていたために、あのようなことになってしまいました。だから義昭様はきちんと参内してくださいと言ったのに、朝廷に行っていないそうですね(´・ω・`)

③・⑦ 功のある者に褒美をやらず、ささいなことを咎めて下の者を処罰するのは良くないですよ。おかげで困窮した者たちが信長に泣きついてきています。ドケチ。

④・⑤ 寺社の扱いもひどいと聞きました。義昭様ご自身の評価が下がりますよ? 何かお考えのことがあってかと思いましたが、そうじゃないんですよね?

⑧ 若狭の代官の件で訴訟があったと聞いていますが、再三申し立てられても無視しているのはどういうことですか?

⑨ 大した罪がない者の刀を取り上げてしまわれたそうですね。法を守るのは良いことですが、これじゃ「刀欲しさに厳罰を科す公方様だ」と思われますよ?

⑩ 改元の件、前から申し上げていますよね? 朝廷からもそうすべきとの命が出ていますが、幕府からすぐ費用を出すべきではないですか?

⑪ 烏丸家のもめ事、金を出させて解決したそうですね? 罪や人によって罰金を取ることもありますが、この件についてはいかがなものかと思いますよ。

⑭ 兵糧として蓄えておくべき米を売りさばいているそうですね? 商売に手を出す将軍なんて聞いたことがありません。

⑮ 宿直の武士にやる褒美は、その都度与えてやればいいのに、余計な役職を作って地位をすぐ上げるのはどうかと思いますよ。

⑰ ご自身の強欲のせいで、百姓まであなたのことを「恥も外聞もない公方様」「悪御所」と呼んでいますよ。胸に手を当てて考えて下さい。

B・隠れてコソコソしている義昭にツッコミ

② 何か要るものがあれば、信長が用立てるというお話をしましたよね?^^ なのに他の大名から馬をもらっているのはどういうことですかね^^^^^^

⑥ ウチ(織田家)に関わっている者、しかも女官にまで冷たく当たるのはやめてもらえませんか。信長は義昭様に協力しているのだから、織田家に仕える者も義昭様の役に立つ者なんですよ?

⑫ 他の大名から金銀が贈られることがあったそうですね。幕府の仕事に使っているわけでもないようですが、何のために貯金してるんですか?^^^^

⑬ 光秀が「町から取り立ててきた税金を買物の代金として公方様へお渡ししたのに、いつの間にか比叡山から取り立てたことにされて、しかも差し押さえられていました。な、何を(ry」と言ってきたのですが、どういうことですか?

⑯ 大名は武具・兵糧・金銀を蓄えていざというときのために備えています。義昭様もそうなさるのはいいのですが、この前そういったものを持って御所を出てしまったせいで、下々の者は「公方様は京を見捨ててしまうのか」と誤解してしまいました。自分の行動がどう思われるのか、よくよく考えてから行動してください。

 

十七条の意見書~信長から義昭へ~

お次は「殿中御掟」です。
こちらは引用させていただきますね。

【殿中御掟9か条】(1569年)

◆御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りをよしとする。

◆公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに伺候すること。

◆惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。

◆幕臣の家来が御所に用向きがある際は、信長の許可を得ること。それ以外に御所に近づくことは禁止する。

◆訴訟は奉行人(織田家の家臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない。

◆将軍への直訴を禁止する。

◆訴訟規定は従来通りとする。

◆当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。

◆門跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。

ウィキペディア「殿中御掟」より引用(Link

そして一年後の1570年――。

今度は『殿中御掟追加5か条』も出されました。

◆諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事

◆御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事

◆公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事

◆天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事

◆天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

ウィキペディア「殿中御掟」より引用(Link

こうなると何をするにも信長への【報連相ほうれんそう】が必要になってきそうな勢いです。

 

将軍様に向かって何様? 包囲網を拡大じゃ!

確かにここまで事細かに「指導」されれば、口うるさいトーチャンに思えるのも無理はないかもしれません。

どれもこれも正しい言い分には思えます。
しかし、遅すぎる反抗期状態の義昭は、そう素直には聞き入れません。

「将軍様に対して何だその物言いは!!」
とブチキレ、信長包囲網を拡大することに決めてしまいます。

信長は当時、武田信玄や浅井長政&朝倉義景と敵対していたので、「今ならもうひと押しでなんとかなる!」と思ったのかもしれません。
政争でも戦でも経験が劣る義昭が、そう簡単に勝てるはずがないんですけども。

こうした状況を鑑みた信長は、いったんは身を引くような動きも見せます。
義昭へ使者を出し、「この前のことはワシが言い過ぎました。誓紙と人質を出すので、仲直りしましょう」(超訳)と申し入れています。

しかし、既に信長絶対殺すマンになることを決めてしまった義昭は、これを断って戦支度を続け、ついに近江の今堅田城と石山城で旗揚げ。

この二つの城は織田軍を前にあっさり陥落してしまいます。
その上、義昭がアテにしていた武田信玄も病死してしまい、信長包囲網の半分以上なくなったも同然になります。

そのため、信長が「よーし、ワシ張り切って公方様お仕置き(物理)しちゃうぞー」(※イメージです)と京へ入ると、細川藤孝や荒木村重も「もう公方様の下にいてもダメだ。信長殿の臣になろう」と心を決め、逃げ出しました。

この時点でも信長は「公方様、和睦しませんか」と申し入れています。

が、それでも義昭は断り続けます。
その根性をもっと別なところで使えば良かったのに(´・ω・`)

 

7万もの織田軍が槇島城を包囲

仕方がないので、信長は義昭とその腰巾着が住む上京を焼き払って脅しをかけました。

上京といえば御所や公家の住まいも近いわけで、これには朝廷もビックリ仰天。
信長は義昭の居所を包囲しつつ、朝廷に「何度も和睦したいって言ってるんですけどー、公方様ったら聞いてくれないんですぅー」(※女子高生口調に意味はありません)と工作し、正親町天皇の勅命による講和にこぎつけます。
それがこの年の4月のことです。

しかし、7月に入って、義昭はいきなり講和を破棄し、宇治の槇島城へ立て籠もってしまいました。
ここまで来ると、付き合わされる幕臣が気の毒で……。

現在、槇島城は綺麗サッパリ消えてしまっています。
当時は池や川に囲まれた要衝だったので『もしかしたら信長に勝てる!』と思ったのかもしれません。

しかし、京都に残してきた留守番役の人々は、さっさと降伏。
程なくして7万もの織田軍が槇島城を包囲すると、あっちこっちを壊して戦どころではなくなりました。

事ここに至っても義昭は
「まだだ、まだ終わらんよ!」(※イメージです)
という態度でした。

渋々降伏を決めたのは、家臣たちに強く促されたからで、ここでもし「ワシも兄上と同じように最期まで抵抗する!!」とか言ってたら、その場で刺されてたかもしれませんね。

さて、これで最後はどうなったのか。

槙島城跡近辺の公園内にある槙島城記念碑/photo by Muscla3pin wikipediaより引用

 

実質的に室町幕府は終焉を迎えた

武将・指揮官としてはダメダメな義昭ですが、一応は将軍の位にあります。
信長がブッコロしてしまうのも問題がありました。

このため、義昭の追放と足利家の領地没収だけで済ませています。
ある意味、信長は最後まで義昭を将軍扱いしていたことになりますね。

信長はこの10日ほど後に改元を行うなど、義昭がゴネていた件も片付けています。

こうして実質的に、室町幕府は終わりを迎えました。

始まるときも一悶着ありましたが、終わるときも何というかその……三つの幕府の中で一番スッキリしない感じですよね。
後半は、ほぼ戦国時代に入ってしまって、足利家の存在感がなくなってしまうからでしょうか。

この辺をうまく描いたマンガや小説・ドラマが出てくれば、また違ってくるかもしれません。

義昭の生涯につきましては以下の記事も併せてご覧ください。

足利義昭61年の生涯をスッキリ解説!バカ殿?それとも実は頭脳派?

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
槇島城/Wikipedia
足利義昭/Wikipedia
殿中御掟/Wikipedia

 



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