太田道灌/wikipediaより引用

戦国諸家

太田道灌、暗殺! 初代江戸城の築城主が殺され後に謙信が世に出る

文明十八年(1486年)7月26日、太田道灌が亡くなりました。
「おおたどうかん」と読むのですが、江戸城を最初に作った人としてご存知の方も多いですよね。

当コーナーでは一度、愛猫家として紹介したこともありました

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俗名は「資長」で道灌は出家後の名前ですが、有名なほうで統一させていただきます。

広い意味で現在の皇居の親ともいえる彼は、一体どんな生涯を送ったのか。

 


太田道灌 初代江戸城を建てる

道灌は永享四年(1432年)、関東管領上杉氏の一族・扇谷上杉氏の家臣の家に生まれました。

関東管領やら鎌倉公方やら。
上杉と足利が絡むとややこしいこと極まりないですが、以下の記事にその辺のことがまとまっておりますのでよろしければご参照ください。

同族の争い&登場人物の苗字がほとんど同じで、後世の人間からすると「めんどくせえから皆仲良くしろよ」とでも言いたくなる有様です。

道灌は、母方の祖父と実父がこの一連の争いの勝ち組になったことで、中央からも官位をもらい、現在の東京都品川区あたりに立派な屋敷を建てていました。

しかし、その後、勝ち組と負け組が入れ替わり、相手側が足利一門のお偉いさん・古河公方を担ぎ出してきたことでますます話がこじれ、足掛け30年に及ぶ【享徳の乱】に発展してしまいます。

道灌は主家の扇谷上杉家を補佐して戦い、父と共に現在の埼玉県各所にも築城をしていました。

この戦いはおおむね利根川が勢力圏の境目で、千葉方面の守りを固めることが重要。

そこで築城されたのが初代江戸城です。

 


戦術や築城術だけでなく学問にも精通

この立地を選ぶまでにはいくつかの伝説があります。

実際は、この辺りの領主・江戸氏を追い出すための口実だったなんて話も。いやぁ、黒いですねぇ。
そうでないと戦国大名なんてやってられないですけどね。

ただし道灌は、日枝神社など江戸城守護のために神社もいくつか建てており、天をも恐れぬというタイプではなかったようです。

兵の鍛錬もしっかりやっており、怠ける者から罰金を取る代わりに、真面目な者へのお茶代としてあげていたとか。
なんだ理想の上司じゃないの。

鎌倉のお寺や足利学校など。
道灌は元々、エリート教育を受けておりましたので、戦や築城以外の知識も豊富でした。
自ら和歌を詠んだり連歌会や歌合せなどを行った記録も残されています。

しかし、そんな平穏は1473年、主家の長尾景信が亡くなると同時に破られました。
息子の長尾景春が父の地位を継げず、叔父が継いだことで不満を抱いたのです。

さらにあろうことか、扇谷上杉家と長年争ってきた敵(古河公方)と手を結んで挙兵したことで、一筋縄ではいかなくなってしまいます。

1476年――【長尾景春の乱】の始まりです。

もう、この頃の関東はずっと【乱】の連続ですね。
京都でも1467年に応仁の乱が始まっており、日本全国どうにもならない状態に陥っておりました。

 


長尾景春の乱では八面六臂の大活躍だったが

道灌は、主家を助けて景春と戦い、さらに古河公方に単独講和を持ちかけることで景春の外堀をまず埋めました。
居城を攻めて景春を追い出すと、景春は景春で凄まじく粘り強く逃げ回り、道灌が亡くなった後まで戦い続けています。すげえ根性だ。

まぁその辺は別の話ですので、話を道灌に戻しましょう。

長尾景春の乱関係図/photo by 味っ子 wikipediaより引用

文武両道かつ八面六臂の大活躍をする道灌でしたが、いつの時代も有能な人をやっかむ無能は存在します。

いつしか「道灌は主の上杉定正様よりもデカイ態度を取っている!けしからん!!」と言い出す者が現れ、さらにあることないことを定正に吹き込む連中まで出る始末。

道灌も自ら「今の扇谷上杉家があるのはわしのおかげである」なんて書いてしまっているので、全く原因がないわけではないんですけどね。

しかも自分の活躍を39か条も書いてしまっているのですから、これでは鼻についた人がいてもおかしくはありません。
口ならぬ筆は災いの元でした。

道灌も身に迫る危険についてはひしひしと感じていたらしく、長男を和議の人質として古河公方の下に送っていたりします。

そしてその予感は、文明十八年(1486年)に見事的中してしまうのです。

道灌は、主・定正の館に招かれると、そこで暗殺されてしまったのです。

 

上杉家は滅亡寸前まで落ちぶれる

道灌暗殺の首謀者は、上杉定正とも他の人ともいわれており、また暗殺時の状況についてもハッキリしていません。
一説には「道灌は風呂場から出てきたところを斬られ、『当方滅亡!』と言い残して死んだ」といわれています。一体どうだったのやら。

道灌の一族や道灌に味方する人々は、この有様を見て「もう扇谷家はおしまいだー!」(※イメージです)と即断し、ライバルである山内上杉家へ身を寄せました。

そしてまたしても長い長い戦いが続き、道灌の予言通り双方の上杉家は滅亡寸前まで落ちぶれ、長尾景虎こと上杉謙信を頼ることになるのです。

イラスト/富永商太

当時の寿命からして、暗殺されなくても道灌はあと十数年で亡くなっていた可能性が高いですが、もし彼がここで殺されていなかったら、関東の勢力図は一風変わったものになっていたんでしょう。

そうなると上杉謙信が世に出てこなかったかもしれず……とIFを言い出すとキリがなくなりますね。

有能だからといって、孤立するようなことをしてしまうと何もかもうまくいかないという好例でしょうか。
いわんや凡人をや。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田道灌/Wikipedia


 



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