和宮/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新 その日、歴史が動いた

和宮と徳川家茂は政略結婚でもラブラブだった⁉ 二人を天国で結ばせて

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明治10年(1877年)9月2日、和宮(かずのみや)がこの世を去りました。

14代将軍・徳川家茂いえもち(徳川慶福よしとみ)に降嫁こうかした皇女で、大河ドラマ『篤姫』では堀北真希さんが演じておりましたね。

家茂が亡くなってからは「静寛院宮せいかんいんのみや」というお名前でしたが、以下、和宮で統一します。

 

和宮は幕府と朝廷のために嫁いだ

和宮は【幕府と朝廷の橋渡し】として徳川家に嫁ぎました。

実は彼女は、その前に皇族の有栖川宮ありすがわのみや熾仁親王たるひとしんのうと婚約していたのですが、兄である孝明天皇の説得により、泣く泣く降嫁を受け入れたという経緯があります。

このときの孝明天皇、なかなかスゴイことを言っています。

「お前が嫌って言うなら仕方ないけど、お前以外だと去年生まれたばかりの私の娘を嫁がせないといけない。幕府がそれでいいって言えばそうするし、もしダメってことになったら私は責任を取って譲位する。お前も尼になってもらわないと筋が通らない」

要は
・出家するか?
・嫁ぐか?
という究極の二択を迫られていたのです。

孝明天皇/wikipediaより引用

既にペリーの来航によって日米修好通商条約は結ばれており、その許可と引き換えに攘夷を約束させた孝明天皇としては、どうしても和宮に行ってもらわなければなりませんでした。
天皇にとっても「譲位」か「攘夷」かの二択中だったのですね。

皇室という尊い血筋と環境で育った和宮にとって、将軍とはいえ野蛮な武家に嫁ぐのは本当に嫌だったのでしょう。
自分で直接宮廷へ行って拒否していたくらいですからね。

「日本のためですから、嫁ぐのは仕方ありません。でも、江戸に行ったからといって生活習慣を変えるのは嫌です」
と言って、色んな条件を出しています。

御所から女官を連れて行くことや、何かあれば伯父の橋本実麗はしもとさねあきらに来てもらうようにはからうことなどを幕府に認めさせています。

 

和宮にとっては意外だった優しき将軍

さて、こうしてイヤイヤながらに嫁いだ和宮。
意外にも
【夫婦仲は円満だったのではないか?】
とも言われています。

家茂は「オレは将軍様だ!」というタイプの人ではなく、とても優しい方でした。

江戸時代も何百年もたつと、当時の殿様の写真を見れば分かるように、すっかり「公家」化していたんですね。和宮の出した条件を全て呑み込んだばかりか、それ以外にも非常に気を使っていたエピソードが伝わっています。

歴代の将軍は、結婚後、正室とほとんど会わないという人もいましたが、家茂はたびたび贈り物をしたり手紙を書いて、できるだけ夫婦らしくいたいという気持ちを示したのです。

現代の夫婦のようにいつも同じところで寝起きしているわけではないですから、それも立派な心遣い。
なんだか源氏物語のような話で、とてもロマンチックですね。

徳川家茂/wikipediaより引用

 

身体が弱い家持が何度も上洛させられて

しかし、です。
不幸にも家茂は、21歳(数え歳)という若さで亡くなってしまいます。

ここらの事情はちょっとややこしいのですが、簡単にまとめるとこんな感じです。

「公武合体なんてとんでもない! 攘夷しましょうぜ!」と言ったら政治からハブられた長州藩の人々

「会津の松平容保とかやっつければうまくいくんじゃね?」と京都市街を巻き込んで戦闘(禁門の変蛤御門の変

よりによって御所に発砲したため、朝廷から『お前らは天皇の敵だ!』と断定される(長州藩は朝敵)

将軍と幕府に『長州をやっつけてこい』命令が下り、家茂軍を率いて上洛

というわけで家茂は上洛していたのですが、元々体調に不安があったタイプで、上洛絡みのストレスが悪化したのか、大坂城で息を引き取ってしまうのです。

これには、幕府も、朝廷も、大奥も、大慌て。
江戸を出るときには元気だったそうですし、将軍になってわずか8年、和宮と結婚してから4年でした。

家茂は3回上洛しているので、その期間を別とすると、二人一緒に江戸で過ごしたのはもっと短くなります。
そうした状況を考えると、彼らのエピソードは仲の良さを表すものばかりです。

 

死後に夫からの西陣織が届いた

例えば、京のお土産の話。
お土産について、こんな会話をしていたと伝わります。

「京都に行くから、あなたの好きなものを土産にしたいと思う。何がいいですか」
「では、西陣織をお願いいたします」

彼女がそう答えたところ、後日、家茂の訃報や遺品と共に、西陣織も届いたのです。

家茂だって仕事で行くのですから、そうそうぶらつくこともできません。
実際に買い物したのが家臣の誰かだとしても家茂はきちんと約束を守ったのです。

これを見て和宮は歌を詠みました。

「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」
【訳】西陣織を届けてくれたのはうれしいけれど、この綺麗な着物も、貴方がいなければ何の意味があるでしょう

「三瀬川 世にしがらみの なかりせば 君諸共に 渡たらしものを」
【訳】立場や影響のしがらみがなければ、あなたのお供をして三途の川を渡りたい

うぅ……泣かせますね。
和宮も家茂のことを大切に思っていたことが非常によくわかります。

西陣織は、その後、増上寺に奉納され、袈裟として生まれ変わりました。

増上寺は将軍家の墓所ですから、家茂もここに眠ることになると見越し
「この着物を私だと思ってください」
という気持ちでいたのかもしれません。

そして家茂の逝去から11年後。
和宮も31歳の若さで世を去ります。遺言は「家茂の側に葬ってほしい」というものでした。

時間が経っても、夫のことを健気に思い続けていたのでしょう。
このため、葬儀も将軍家と同じ仏式で執り行われ、和宮の希望通り家茂の隣にお墓が作られました。

 

写真び男性は、烏帽子えぼし直垂ひたたれを身に着けていた

時は流れ、1950年代ごろのこと。

増上寺の徳川家墓所が再開発のため移転されることになり、歴代将軍家に連なる人々の遺骨調査が行われました。
当然、和宮のお墓も含まれています。

墓を調査すると、和宮は一枚の写真を抱くようにして葬られておりました。

写真に映っていたのは、烏帽子えぼし直垂ひたたれを身に着けた若い男性だったとか。

しかし残念ながら、その後の取り扱いが悪かったため、この写真は現存していません。
太陽光で画像が消えてしまったそうです。

検証する間もなく消えてしまったため、この人物が誰だったのかは今も謎のままなんですが……烏帽子はともかく、直垂は武家の衣装ですよね。

しかも当時貴重だった写真を撮れるような身分の人で、和宮がずっと持っていた……それはもう家茂しかないであろう、と。

若くして政争に巻き込まれ、夭折した二人。
天国で幸せに過ごしていることをお祈りします。

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【参考】
国史大辞典
『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon link
『大奥の女たちの明治維新 幕臣、豪商、大名――敗者のその後 (朝日新書)』(→amazon link

 



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