中国

始皇帝はいかにして中国を統一したのか|最新研究に基づく生涯50年

2025/02/18

万里の長城や兵馬俑で知られる秦の始皇帝。

紀元前259年2月18日はその生誕日であり、世界中に名を轟かせる中国きっての偉人として生涯を過ごしました。

日本では漫画『キングダム』の影響で存在感を増しており、主人公が仕える若き君主の姿に心奪われる方も少なくないでしょう。

かつては非情な独裁者として描かれることが多かったのに、作品次第で印象はガラリと変わるもので。

史実の始皇帝とは全然違うんでは?

そんな疑問をお持ちの方もおられると思いますし、実際、その人物評価も変化しております。

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では一体、史実における始皇帝は今どんな評価を受けているのか?

本稿では、その生涯に迫って参りたいと思います。

この記事を読まれ、「なんだか私の知っている歴史と違う……」という印象の方もおられるかもしれませんが、それは最新研究の結果と思っていただければ幸いです。

 


実は父に諸説あり

いきなり、ショッキングなことから書きます。

実は始皇帝、実父を断定できません。

それを念頭に入れていただき、『史記』の記述から彼の誕生経緯をさかのぼってみましょう。

BC260年――趙・邯鄲(かんたん)に、秦の人質として滞在していた子楚(しそ)が、一人の美女に心を奪われます。

趙姫(ちょうき)です。

妖艶な悪女扱いを受ける女性ですが、実際の人柄はそこまでハッキリしておりません。『キングダム』はじめ作劇上の演出の影響もありますね。

当時の趙は、美人が多いことで有名でした。

メイクが得意、ファッションセンスも抜群。歌や楽器演奏も得意で、各国の後宮に趙出身者がいたとされています。

始皇帝の母となる女性も、そんな一人であったのでしょう。

「いやぁ美人ですね! 是非ともお近づきになりたいなあ〜」

そう思ったところで彼女は大商人・呂不韋(りょふい)の側室でした。

しかし、これで恩義を売れるなら……と、呂不韋は彼女を与えます。

まだ、さしたる価値のない人質・子楚にそこまで入れ込んだ――このことが「奇貨居くべし」の由来。このとき彼女の胎内には呂不韋の子が宿っていた……つまり、始皇帝の実の父は呂不韋だったんです!

そんな衝撃的な話、現在では否定されております。

◆『史記』ですら始皇帝の父親は二説あって統一されていない

◆懐妊期間がおかしい

◆同時代の史料の読み込みが、『史記』はそこまで深くない

→これは重要! 史料発見で覆されるのです。

◆楚・春申君(しゅんしんくん)と幽王の逸話とそっくり

→歴史での創作テクニックの典型例です。日本でも、政宗と義姫の不仲説が、信長とその母の逸話を参照にしたような点があります。似た話を流用するんですね。

こうなってくると、もはや実父の特定は不可能でしょう。

遺骨を父子で手に入れて鑑定するぐらいしか、確認のしようがありません。

始皇帝のみならず、「あの人の父親は誰なのだろうか?」という歴史論争は、ネタとしては面白い。

されど意味がない。父が誰であろうと、嫡子扱いされていればそれで話は終了です。

呂不韋実父説はインパクトとしては抜群ですが、結論が出るはずのない話であります。

 


名前も違っていた?

驚きなのは生まれだけでなく名前も不確か。それが始皇帝です。

嬴政(えい せい)じゃないのか?

『キングダム』もそうだし、Wikipediaにもそう書いてあるし、そもそも『史記』がそうだし……と考えるのが普通でしょう。

しかし、これが史料発見により覆されつつあります。

生年月日は判明しており、BC259年の正月です。そして名付けられました。

「正月生まれだし、この子は正にしよう」

当時はあくまで人質の子です。

偉大な人物になるなんて、誰も予想していない。無難な名前でいい。そう考えられたとして、おかしくはありません。

これを、司馬遷はちょっと盛った……ようです。

「偉大な政治家なんだからさぁ。正月だから正ってあんまりだ。政でいいだろ」

そして、ここがややこしいのです一つずつ説明させていただきますね。

◆当時の秦では「政」と「正」を明確に区別していない

→「正治家」と書いても当時の秦では誤字扱いされなかった

◆始皇帝の長男にして2代目となる扶蘇(ふそ)の代で、正月を避諱(※皇帝の諱を避ける)して「正月」を「端月」と記載した歴譜(カレンダー)が存在する

◆21世紀の発掘の中で、始皇帝伝である漢代の竹簡『趙正書』が見つかった

→このような場合、竹簡に書かれた=筆写の時点で漢代ということであり、執筆年代と一致しないことに注意が必要

ここまで揃うと、これはもう「正」が正解ではないでしょうか。

漫画アニメ『キングダム』も、発表がもう少し遅かったら「正」であったかもしれません。

こうなると『史記』の記述に信憑性が疑われる部分も出てきます。

司馬遷が意図的にそうしたというよりも、史料集めに限界があったのでしょう。だからといって『史記』そのものが否定されるわけはありません。

なお本稿は、即位前にそう書くことはおかしいと踏まえた上で、名前を始皇帝で統一します。

 

苦難、そして帰国

人質だった始皇帝は、帰国時期もハッキリしません。

わからないことだらけじゃねーか!

そう突っ込みたくなるかもしれませんが、中国史は同時代の他国よりはるかに記録に恵まれております。

紀元前3世紀の話がここまでわかるのは中々ありません。

BC257年。
3歳の時、彼ら母子は絶体絶命のピンチに陥りました。秦が趙を17ケ月間にわたって包囲したのです。

※本稿では、当時の年齢である満年齢表記とします

父・子楚は呂不韋に救われ、走っての逃亡に成功。呂不韋は大金を支払い、護衛を買収しておりました。

呂不韋が始皇帝の実父であるかはさておき、大恩人であることは確かですね。

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残された母子は、母方の裕福な家に匿われ、生き延びることができました。

そしてBC251年頃に、9歳前後の始皇帝はようやく帰国。生まれて初めて、祖国を踏むのです。

背後には、秦の王位継承事情がありました。

子楚の帰国時、秦は曽祖父である昭王が統治していました。

太子の安国君はもう46歳。当時の感覚からすれば、老人です。しかも華陽夫人との間に、子はいません。

このままでは王が断絶しかねない。極めて危険な状況でした。

そこで安国君と華陽夫人は、子楚を養子とすることに決めたのです。

王位継承はまずありえないとされていた境遇が一転。子である始皇帝の境遇も変えました。

「あの人質は、相対的価値があがったんです。人質にしておくよりも、利用しましょう」

呂不韋は趙でそう主張したと『戦国策』にあります。昭王の死が、少年の運命を変えて、祖国の血を踏ませることとなりました。

このあと、不可解な事態が起こります。

安国君が即位し、孝文王となるものの急死したのです。

わずか3日という説もありますが、繰り返し述べるようにこれも断定できません。ただ、急死であったことは確かです。

毒殺のような陰謀論は置いておきましょう。即位の時点でかなりの高齢です。何があってもおかしくありません。

しかしこのあと、太子へスムーズに継承させるには、どんなに短くとも即位しておかねば正統性を主張しづらいものです。

そして、子楚が荘襄王(そうじょうおう)として即位。その子「正」は太子となったのでした。

荘襄王もわずか3年で亡くなるため、これまた呂不韋黒幕陰謀論があります。

ただし、動機の面で無理があります。

呂不韋は荘襄王に対して、過去に投資と協力を惜しみませんでした。

彼の王位が続いても、特に不都合はなかったのではないでしょうか?

BC247年。
かくして13歳の少年王が即位を果たします。

その傍には「相国」として付き従っていた呂不韋。実質的な権力者といえる、そんな体制でした。

 


青年王と天変地異

少年王の治世は、親政に乗り出すタイミングがあります。

始皇帝の場合は、なかなか大変なことでした。

当時、人々は彗星の動きや天体観測を行っていました。古代ギリシャでは、星座は英雄を讃えるものとして観察されましたが、中国は違います。

天変地異の前触れではないか――。そう考えられていたのです。

幻日環を指す「白虹貫日」という言葉がありますね。

後に曹操は、後漢末期の政治的混乱を『薤露行(かいろこう)』(※挽歌・もうこの王朝の政治終わった的な意味)という詩にこう残しています。

白虹為貫日 己亦先受殃

白虹為めに日を貫き、己も亦た先ず殃(わずらい)を受く

(天変地異である幻日環が起こり、自らも滅してしまった)

そもそも曹操自身は、天変地異を観察している暇があるなら、現実を見ろと言いたいタイプでしょう。

絵・小久ヒロ

そんな彼でも、無視できない。それほど、天変地異には注意が払われていたのでした。

ちなみに生年月日、その人が生まれたときの天体による占いもあります。

中国版星占いです。

実は、日本の大正時代である1918年にも、この天変地異由来の筆禍事件「白虹事件」が発生しています。中国だけの話ではないのです。

そしてこの天変地異こそが、歴史解明のヒントになりえます。

彗星は、各地で目撃されます。

その記録を読み取っていくことで、時系列が判明しやすくなるのです。

【嫪毐(ろう あい)の乱】とそれに続く呂不韋の死は、彗星目撃が相次ぐ時代に起こりました。

かなり「合理的な性格」と推察される始皇帝であっても、彗星目撃情報には神経をとがらせていたことでしょう。

そしてこれが、ある儀式を遅滞させることになるのです。

成人の儀です。

何歳からが成人であるのか?

この判断とは、なかなか難しいものです。秦の場合、年齢ではなく身長も基準となりました。

【秦】

男子:150センチ以下は「小男子」、17歳以上で「戸籍」に就けられる

女子:140センチ以下は「小女子」

【漢】

男女:14歳以下は未成年

『礼記』を基準にして、始皇帝の身分を考えれば、20歳の段階で成人の儀を行なっていておかしくありません。

しかし前238年、彼が22歳になるまで延期されています。そしてこの儀式の前、大きな試練が襲いかかるのです。

「嫪毐の動きがおかしいようです……」

「彗星が続発する昨今の動き。民の間には、何が起きてもおかしくない。そんな流言飛語が飛び交っております……」

異変が起こる前に、こちらから起こそう。先手を打つ――。

若き王はそう決断したと、最近の研究では見られるようになっています。

 

嫪毐の乱

嫪毐(ろう あい)という人物について書く時、どうしてもゴシップ記事のようなあやしさがプンプンと漂います。

未亡人となった趙姫との関係が途切れなかった呂不韋。これはまずい。呂不韋は考えました。

新しい恋を用意すればいいじゃないか。そんな結論に至ります。

呂不韋は、髭を抜いて宦官として偽装した嫪毐を、愛人として送り込みました。

この嫪毐は、車輪を回せるほど巨大な男性器の持ち主だったという逸話も……。そのせいで、ポルノスターじみた一発屋扱いをされてしまいます。

趙姫との間に子が2人いたことは確か。

しかし、単なる一発屋では、そもそも大規模な反乱なんてできません。

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嫪毐は、太后となった趙姫の後ろ盾を背景に長信侯に上り詰めたとされています。

ただし、そんなことだけで出世するものでしょうか?

しかも、一応は太后の関係は秘密であったはずです。

となると当人が、少年王を支えた呂不韋に次ぐ、実力者であったと考えた方が自然でしょう。その証拠に、彼の元には数千人の私奴婢、千数百人の舎人もいたのです。

嫪毐には、危険な要素が揃いました。

◆天変地異による人心の乱れ

◆高い地位

◆秦から離れて籠城可能な領地

◆多数の人材

→さまざまな技能や特技をもつ食客をパトロンとして養う。孟嘗君「鶏鳴狗盗」のように、当時はそのこと自体に大きな意味がありました。

これだけ要素を備えた実力者は、明確な叛意があるかどうかに関わらず、極めて危険です。始皇帝が見逃すわけにはいきません。

反乱の目を未然に摘んだからこそ、決着が素早かったと考えられます。

もしもそんな危険な勢力が、無防備になった成人の儀式の際に蜂起したら?

そうなる前の処断は賢明でした。

相邦の昌平君と昌文君に率いられた秦軍は、嫪毐の元へと攻め込み、数百人を斬首したのです。

嫪毐は、いったんはその場から逃れるものの、莫大な賞金をかけられ、ついには捕らえられてしまいました。

梟首(晒し首)されたものは20人ほど。4千人ほどの関係者が、蜀に流されています。かなりの人数です。それほどまでに、力が集結していたのでした。

このあとの4月。始皇帝は戴冠し、剣を帯びました。

例年にない寒さの春であり、凍死者すら出るほど異常な春でもありました。

 

呂不韋の死

嫪毐の死は、それにとどまりません。

呂不韋にまで及びます。

始皇帝からすれば、見つめたくない現実が、次から次へと暴かれていったからです。

母と嫪毐の関係。しかも異母弟2名が発覚しました(この2名は処刑)。

呂不韋と母の関係。始皇帝は母を幽閉し、呂不韋を処分できない事情がありました。

彼はあまりに功績があります。王位そのもの、命そのものが、彼あってのものなのです。

そこで取られた処分が以下の通りです。

◆相国は罷免

◆文信侯の爵位は存続

◆生まれ故郷である河南送り

もしも呂不韋が、この寛大な措置に感謝して穏やかに余生を過ごしていたら?

それで終わったかもしれません。

しかし、彼はあまりに切れ者でありすぎました。

パトロンとしての彼を慕い、人材が集まり出したと知ると、始皇帝はその危険性を察知します。

こうなると、もはや蜀送りしかない――そう命じることにしたのです。

BC235年、蜀送りを知った呂不韋は、鴆毒(ちんどく)を入れた酒で服毒自殺を遂げました。

反乱から2年が経過していました。

 

李斯から学べ「外国人排斥論への対抗法」

こうした混乱の中、始皇帝は「逐客令」を下しております。

外国人排斥の命令であり、食客を集めて力を持とうという者への牽制としては、効果が見込めました。

しかし、李斯が反論します。彼は楚出身であり、呂不韋に見出された一人です。

自分と同じ境遇の人間が、秦で登用されなくなるとしたら?

彼自身だけではなく、国力低下は不可避です。

そしてこの李斯の説得は、21世紀現在でも外国人排斥を訴える相手に流用できるほど、素晴らしい論理に満ちています。

◆我が国が資源に乏しいにもかかわらず、政治・経済・人口・軍事面で優位を保てていたのは、他国のものを受け入れてきたからに他なりません。

◆あなたが身につけているもの。衣類、アクセサリー、調度品。楽しんでいる音楽。そして愛する人だって、外国から来たものばかりです。

◆想像してみてください。こうしたものを排除して、あなたの暮らしは成立するのでしょうか?

始皇帝は納得し、「逐客令」を取りやめました。

結果、李斯は政治的な地位を確固たるものにしています。

倫理的に説得する李斯。それを受け入れる始皇帝。両者の知恵があってこそ、躍進する国づくりができたのでしょう。

この李斯の説得から、私たちも学ぶことがあるはずです。

李斯はじめ法家は、冷酷で人情味に欠けているとして、批判の対象とされて来ました。

しかし、それだけではありません。

今にまで通じる合理性も、そこにはある。時を超えた見識がそこには残されているのです。

※バンクシーは、外国人排斥への対抗として、スティーブ・ジョブスを描きました。彼はシリア難民の子です

 

趙姫は悪女なのか?

ここで注目したいのが、母・太后のことです。彼女は雍城に幽閉されたとされています。

しかし、BC237年には、咸陽に戻されているのです。

あれだけの騒ぎを起こした母なのに、許せるのか?

そこまで優しいのか? 愛なのか?

そういう感情的要素だけではなく、始皇帝の合理性ゆえの判断でした。

彼は斉の茅焦という人物から、こう説得されたのです。

「夫の生前ならば、他の男と関係を持つのはあってはならないことです。しかし、もう亡くなっているわけでしょう。死人に対して欺くも何もありはしません。それなのに、非合理的な判断をして、母を幽閉している。こんなことをしていたら、親不孝だと思われて、諸侯の信頼すら失いますよ」

始皇帝は、腹は立っているでしょう。

王なのだから庶民と違って、親不孝だのなんだのと適用されなくともよいはず。

ただ、相手の言うこともその通り。そこは認めざるを得ません。

当時の秦では、亡くなった夫への貞操を貫く意味がないと考えられていたことも、かなり重要な点であると思われます。

「嫪毐(ろう あい)と不倫関係にあった」という説明そのものが、秦当時は不成立です。夫が死んだ女性は不倫も何もあったものではないのです。

権力者の正室なり側室であれば、夫が亡くなれば出家して当然です。

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その掟破りが、思わぬ結果につながったことも。

※まだ若い亡父の側室を皇帝が寵愛しました。その結果が武則天です

ヨーロッパであっても、君主の死後、寵姫は修道院送りとなったもの。

それが紀元前3世紀の秦ではそうではなかった。これはかなり重要なことではないでしょうか。

もう一度、ここで考えたい。

始皇帝の母は、悪女でしょうか?

私はそこまで言われるほどのものではないと思います。

◆当時の秦では【不倫】として認識されない

◆嫪毐の乱は始皇帝が相手を危険視し、先手を打った可能性もある

◆この程度では、中国史上悪女ランキング選外では?

無責任な愛の世界が、世界史上類を見ない被害を生んだという点では、楊貴妃の方が悪質に思えます。

彼女の責任はどこまであるか、難しいところですが。

狙いすました知性派ならば、司馬懿夫人・張春華の方が上手でしょう。

知名度では劣るものの、宦官とタッグを組んだ客氏は、ずば抜けた悪女です。

彼女は性的には奔放であったことでしょう。

しかしその言動は受動的に思え、言われるほど毒々しい女性とも思えないのです。

それと、貧しい踊り子からのシンデレラストーリーも、注意が必要です。趙で彼女は我が子を連れて実家に匿われています。

娘を有力者の愛人にして、サクセスストーリーを狙う。そんな実家であった可能性も考えられなくはありません。

彼女の実像は、これからの発掘と史料発見、そして研究によって変わるかもしれません。

そのことが何とも楽しみになってきますね。

 

テロか? 義挙か?

さて、ここから先の始皇帝の人生を振り返るうえで、ちょっと考えたいことがあります。

始皇帝や彼のような権力者暗殺は、なぜフィクションの題材になるのか。

※『HERO』は始皇帝暗殺をめぐる物語

※『曹操暗殺 三国志外伝』は曹操暗殺です

現代の感覚からすれば、政治家の暗殺です。

テロリズムですね。

フランスにも、シャルロット・コルデーのような美化された暗殺者もいますが、あくまで例外で珍しいケース。

西洋史ではカエサルを殺したブルートゥスが賞賛されるわけではありません。

ところが、東洋ではちがう。

始皇帝暗殺は義挙として、賞賛されるのです。なぜか?

中国は野蛮だから?

いえいえ。『忠臣蔵』が賞賛されてきた日本もどうこう言える話ではないでしょう。

始皇帝の暗殺未遂事件を通して、そのあたりを考えてみましょう。

有名なのはこちらです。

① BC227年、衛・荊軻(けい か)。動機は燕の太子・丹の復讐。失敗して処刑

② 高漸離(こう ぜんり)、荊軻の友。動機は友人の復讐のため。失敗して処刑

③ BC218年、韓・張良、120斤(30キロ)の重りを投げつけ、車ごと潰そうとする。動機は祖国を滅ぼされた恨み。生存して逃亡に成功、劉邦のブレーンに入る

③の場合、動機もわかりやすいものがあります。

張良は秦に祖国を滅ぼされているわけでして、説明はそこで終わりで問題ないでしょう。後に劉邦を支えるだけあって、何らかの手段で復讐を狙っても、それはそういうものです。

それよりも①と②に注目したい。

30代を迎え、安定した統治となりつつあった、そんな始皇帝とその周辺に衝撃を与えた、荊軻による暗殺事件。

まずここから検証してみたいと思います。

 

刺客・荊軻の狙いとは

荊軻の暗殺を辿る時、どうしてもわかりにくさがつきまといます。

『史記』の列伝をベースとしますと、荊軻の個人的な物語を強調するあまり、その勇気や義侠心ばかりが見えてきます。

豪胆さや義侠心ばかりがクローズアップされているのです。個人の動きを注目してしまうと、わかりにくくなってしまいます。

しかも、実はこの暗殺事件、燕の太子・丹の動機がちょっと弱い。

「趙正とは邯鄲で人質仲間で、幼なじみだった。それなのに、俺が秦の人質となっても、特別扱いなしでムカつくんだけど。殺してくれよ」

そんな理由で暗殺って?

ちょっと大人げがないのでは?

そう突っ込みたくなりますね。これも、矮小化しすぎているからでしょう。

秦王正(左)に襲い掛かる荊軻(右)。画面中央上には秦舞陽、中央下には箱に入った樊於期の首が見える/wikipediaより引用

個人的怨恨が発端にせよ、そこには燕と秦という二国間の事情があるはずです。

荊軻にせよ、彼は故郷の衛が秦の支配下に置かれています。

義侠心ばかりでは見えて来なくなるかもしれませんが、張良と同じ動機となる怨恨があっても不思議はありません。

そしてBC227年、荊軻は易水を渡り、秦を目指します。

親友・高漸離の歌が有名です。

「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず」

さて、ここで荊軻の暗殺について、振り返ってみましょう。

始皇帝に近づくための交渉条件の一つとして、燕で最も肥沃な土地・督亢(とくごう)を差し出すことがありました。

地図の箱に匕首(あいくち・短刀)を忍ばせ、地図を広げたところでその匕首を突きつけているのです。

こうした交渉の際、秦では凶器となりうる刃物の持ち込みを禁止しています。

袖を掴まれた始皇帝は身をよじって逃げました。

傍の医者が薬箱を投げ入れ、始皇帝を支援。ちなみにこの交渉の場には、臣下とはいえ無断で進入できないので、こうでもしないと助けようがないのでした。

始皇帝は手にした剣で応戦しようとしますが、抜けません。

「剣を背負うのです!」

そんな助言を受け、やっと剣を抜いて、荊軻を撃退するのでした。

剣は腰に帯びていると、抜きにくいものなのです。

計画に失敗した荊軻。無念の言葉が重要です。

「ここまでしておきながら、燕が奪われた土地を取り戻す約束すらできぬとは……」

つまり、彼の目的は始皇帝暗殺ではなかった。匕首で脅して自国に有利な取引を成立させるということだったのです。

そんなバカな!
と、思われるかもしれませんが、前例はあります。

小国である魯・曹抹は、大国である斉・桓公を匕首で脅し、土地を取り戻したことがあります。

そんな脅して大丈夫なのか?という疑問が湧いてきますが、こうした弱者による強者への抵抗は許容される――そういう道徳観がありました。

それがどこかで誤解が生じ、暗殺計画だと思われた。そういう可能性があるのです。

 

統一の中での義挙

さて、ここで振り返ってみましょう。

東洋史で、暗殺が義挙とされる価値観はなぜなのか?

それはまさに、こうした弱者による圧倒的な強者への抵抗を義侠とみなすことが根底にあるのです。

これは、日本でもかなり長いこと続いております。

明治時代は暗殺者に倒れた政治家が多い時代であり、文明化を進めている当時ですらそんな価値観は生きておりました。

安重根による伊藤博文暗殺事件において、弁護士・水野吉太郎は、安を維新志士に例えています。

圧倒的な強者である日本に一矢報いたいと考えた――朝鮮の志士だとみなしたのです。

暗殺の標的となった伊藤博文も、幕末志士時代は攘夷と称する行為で名を馳せておりました。

この攘夷も、今日の観点からすれば外国人排斥を動機としたテロ行為に他なりません。

こうした考え方は、アジアの歴史を考えていく上で大事なことでしょう。

始皇帝は、法家・李斯のもと、商鞅が開始した行政改革である「変法」を徹底させております。

治水は中国の君主が腐心してきた事業。秦は、咸陽の北東部にある平野に、鄭国渠(ていこくきょ・巨大な用水路)を作りました。結果、四万余頃(けい・約1867万アール)の耕地を開いたのです。

こうした富国と、強兵を実現させていきます。

民にも軍功により爵を与える信賞必罰の徹底。秦の強みである騎馬兵のさらなる訓練により、軍事的にも増強されたのです。

「遠交近攻(遠隔地とは交渉し、近隣を攻める)」を徹底した結果、秦は中国統一に向けて着実に前進していきます。






かくして上から順に6国を滅亡。

BC221年、中国史初の統一国家がついに完成したのです。

王ではなく、皇帝もかくして誕生します。このような状況の中で続発した暗殺事件とは何だったのでしょうか。

それは、秦が中国を統一する過程の中で避けられないことでした。

秦という絶対的な強者が生まれる中、弱者が踏み潰されるままではいられない、一矢報いようとした――そういう現象の現れなのです。

『キングダム』等で魅力的に描かれる始皇帝とその君臣を見ていると、なぜ暗殺されるのか、そこまで怨みを買うものか?と疑問に思うかもしれません。

始皇帝は、六王を殺し尽くしたわけでもありません。

暗殺の動機云々や始皇帝が暴君であるかどうか。そこはこの際、横に置いて考えましょう。

強者に一矢を報いる義挙とは、東洋史につきまとうものであったのです。

テロリズムとは、18世紀末のフランス革命「恐怖政治」を語源とします。

それよりもはるか前に、東洋史には義挙がありました。刺客の勇気を讃えてきた歴史があります。

そうした目線を見直すことも重要ではありませんか。

さて、ここで再び暗殺に話を戻しましょう。

張良の暗殺は、全国を巡行している始皇帝を狙ったものです。

この皇帝の全土巡行とは、何だったのか?

 

皇帝誕生、全国巡行

天下統一、中国全土統一!

当時の言い方にしますと「海内を一統した」ですね。

『三国志』のような中国史モチーフとしたゲームであれば、まさにエンディングです。BC221年とは、まさしく始皇帝にとってはこのエンディングを迎えた状態でした。

ただ、ゲームと現実は違います。しかも、史上初です。そうなれば、社会制度の組織からして大がかりなもの。皇帝という称号すら、ここから始まるわけです。

始皇帝といえば、不老不死を目指したイメージがあります。

ただのオカルトマニアというよりも、天下統一という史上初の偉業を成し遂げた、そういう意識もあるのでしょう。

地上を統一したのだから、次は天を目指す。そう思ったとも考えられます。

始皇帝は合理的な考え方をしていたとはいえ、紀元前3世紀の人物です。統一した全土を巡行し、泰山封禅といった儀式にも挑んでいます。

東西南北を見て回り、時には暗殺未遂事件もありながら、始皇帝は充実した時間を過ごしたことでしょう。

巡行だけが仕事でないことは、当然のことです。全土に対して抜本的な改革を行いました。

「封建」制(分封制)を廃止。全国を「郡県制」で再編成しているのです。

日本の都道府県とは異なりますので、ご注意を。地方諸都市である県をいくつかまとめたものが郡です。県の下に郡がある、ここにご注意ください。

はじめは36、のちに48の各郡のもとに、県がありました。

県を統治する者は、中央から特設派遣されます。

こうした郡県制度のもと、秦は民衆を一人一人支配し、人夫として徴用、人頭税の徴収をしたのです。

その一方で庶民の武器所有を制限しました。

皇帝の周囲にある官僚システムも、整備されました。

時代により改変はありますが、基本的なものがここでできているのです。

丞相(じょうしょう)
太尉(たいい)
御史大夫(ぎょしたいふ)

法律と度量衡、そして文字を統一。書体は、竹簡や木簡の記載に適した隷書体で統一されることになりました。

各国の交通をスムーズにするために、車軌の幅を統一しております。交通網が整備された結果、全国の行き来が楽にできるようになりました。

ひとつの中国は、こうして生まれたのです。

一つとなり、平和も訪れるかに思えました。

しかし、そうではありませんでした。

 

変わる中国の英雄像

歴史論争とは、どこの国でもあるものです。

中国にも当然ありまして。国家が規範とする英雄は誰か?ということが論じられます。

そんな論争の中、これは外すべきだとされた人物がいます。

岳飛です。

彼が戦った女真族は、現在の中華人民共和国を構成する満州族のこと。

別の国民である日本人の倭寇相手に奮戦した、明代の名将・戚継光ならばわかる。倭寇の構成員に当時の明人がいたことは、この際ちょっと横に置きましょう。

しかし、岳飛は同じ中国人同士で争ったということになる。これはちょっと外そうか。と、そんな論争が起こるわけです。

とはいえ、これは反発があって保留。英雄は英雄ということになりました。

始皇帝が異民族を防ぐために築き、明代に現在の姿になった「万里の長城」。

この英語名グレートウォールが、実はUMAを防ぐために作られたという映画がありました。

その無茶苦茶な設定ゆえに、散々ネタにされまくったものです。

しかし、こうした歴史論争をふまえますと、実にクレバーな落としどころでした。

21世紀の現在、長らく中国史で愛されて来た、漢民族の英雄は見方が変わりつつあるのです。

こうした中で、どこまでが中国であるのか。

難しい問題です。

このことは、実は始皇帝から始まるのでした。

 

万里の長城

強大な中国国内を統一した――しかし、そうなると困ることがありあました。

戦争を仕掛けて成立してきた政権なのだから、平和であっても困ってしまうのです。豊臣 秀吉の朝鮮出兵も、それが一因として推察されることがあります。

これと似た部分があるように思える。それがBC215年のことでした。

皇帝の巡行にもひとくぎりが付き、全国を統一して6年目。秦は新たな戦争へと乗り出します。

皇帝に次ぐ地位にまで上り詰めていた丞相・李斯が、この策を猛烈に推し進めました。

その理由は何でしょうか?

「秦を滅ぼす者は胡なり」

このままでは外国人によって、我が国が滅びてしまう。そういう理論でした。

表向きは、領土拡大ではないのです。

確かに春秋戦国時代にも、異民族による侵攻により、漢民族が被害を受けたことがないわけではありません。

そうした歴史的経緯だけではなく、頭曼単于(とうまん ぜんう)という優れた指導者がいたことも、警戒の理由としてあります。

中国史を見ていくと、この後にも異民族と漢民族の深刻な対立があります。

彼らは常に対峙している。ただ、それをまとめる指導者が出て来なければ、そこまで危険ではありません。

優れた人とは、時にそれだけでも脅威となり得ることは、呂不韋でも示されていました。

始皇帝は警戒心が強く、先手を打たねば気が済まない、そんな性質があったのでしょう。

BC213年、前述のグレートウォールこと「万里の長城」の工事が着手されました。

背後には、こうした警戒心があったのでしょう。

さて、この「秦を滅ぼす者は胡なり」ですが、これは現代に至るまで、戦争のよくある理論ではあります。

相手が危険だから先手を打つというわけです。

2003年の「イラク戦争」における大量破壊兵器論が、まさしくこの典型例でした。

トランプ大統領がメキシコからの移民排斥を掲げる動機にも、こうした古来からの論法と通じるものがあります。

そんなものは偽りだという反論も、現在だけではなく当時からありました。そしてこのことが、言論弾圧にもつながってゆく流れも、一致していると言えます。

 

焚書坑儒

始皇帝の行動には、危険を事前に察知し、弾圧するパターンが見えます。

彼自身というよりも、彼のブレーンであった李斯ら法家の考え方でもありました。

始皇帝自身は、家臣や博士たちの議論を戦わせ、見守っておりました。

こうした席上で、李斯の出した異民族相手の戦争を、無意味で民を疲弊させるたけであると、批判する意見が出てきたのです。

これは引き締めが必要だ――。

そう考えた李斯の後押しもあり、言論弾圧である「焚書坑儒」が始まりました。

オカルトじみた予言書に怒ったためであるとか。そうした側面もあるのでしょう。

しかし、時期や李斯の考えを考慮せねば、わかりにくいものがあります。

「焚書坑儒」は儒家からすればおぞましい極悪非道の極みであり、そのため後世さまざまな潤色や強調がなされて来ました。

後世に描かれた想像による絵画は、明らかに問題があります。当時ありえない紙の書物が焼き捨てられていることも。

片っ端から書物を焼き、人を生き埋めにしたわけでもありません。

流言飛語によるデマの拡大。過去の例と結びつけた政治批判が、対象とされたのです。

チンピラが火炎放射器を振り回す、そんなものではないことをご理解いただければと思います。

ただ、だからといって言論封殺が無罪であるわけにもなりませんが。

 

最後の巡行、そして遺勅

BC210年、始皇帝は最後の巡行へと向かいます。

この途中、平原津で病に倒れます。そして……。

家臣を集め、始皇帝は後継者を選び、崩御するのです。

享年50。

二代目は誰だ?

扶蘇(ふそ)か?

胡亥(こがい)か?

『史記』では、こんなパターンです。

始皇帝は扶蘇を指名したものの、胡亥と彼を推す李斯と趙高は一計を案じます。

まずは始皇帝の遺勅を破棄。胡亥を後継者として、ライバルである扶蘇と彼を強く推す功臣・蒙恬に死を賜る――そんな偽勅を作り上げたのです。

ただ、これが新出史料である『趙正書』では異なります。

始皇帝が、議論があることをみとめつつ、胡亥を認めたとあるのです。

どちらが正しいのか。判断はできかねます。

ただ、はっきりしていることは、後継者をめぐり秦は一枚岩ではなかったということです。

『史記』の記述によれば、始皇帝の遺勅は破棄されたとあります。

しかし、2013年発見の史料によれば、二世皇帝が「始皇帝の遺勅を守る」と誓った記録が発見されているのです。

果たして遺勅は破棄されたのか。

これも実は断定できないのです。

 

秦帝国の終焉

この二世皇帝・胡亥のもと、秦帝国は滅びの道を辿ります。

「陳勝・呉広の乱」を契機に戦乱が広がり、項羽と劉邦が争い、漢が成立するのです。

胡亥が無能で暗愚だった。

李斯はじめ、秦の家臣が奸悪だった。

戦争や「万里の長城」の無謀な工事で、民が疲弊していた。

そうした要因も考えられます。

武田家滅亡の要因を、全て勝頼の器量だけに背負わせることに無理があるように、秦の滅亡にも複合的な要因があるのです。

漢を統一したあと、儒家が劉邦にこう進言したことは、前述の通りです。

「法家を重用した秦を反面教師にして、この王朝を長続きさせましょう!」

そうして採用された儒教は、社会を変革させずに、長く持続させるシステムとして極めて有用でした。

年齢、性別、家族関係、君臣。そうした上下関係が明確であり、とりあえず経典にあると主張すればそれで通るようになりました。

日本の乱世を統一した、あの君主も学んでいます。

徳川 家康です。

徳川家康/wikipediaより引用

武士道と一括りにされますが、下克上がまかり通っていた戦国時代と、忠義が第一とされた江戸時代では、まったく違うことはおわかりいただけるかと思います。

東アジアでなぜ儒教がここまで根付いたのか?

それは乱世ではなく、ひとつの王朝を続けていくうえで、極めて優れた思想であったからと言えるのです。

だからこそ、秦から学べることもある。

そうとも言えませんか?

そして考えたいこと。

始皇帝は、なぜ長いこと中国史では悪として認定されてきたのでしょうか?

 

儒教の価値観からすれば反面教師だった

漢民族の道徳規範といえば、儒教です。

これは漢代になってからのもの。始皇帝とその周辺をたどる『史記』も、こうした儒教的な道徳律の影響からは逃れられません。

極めて冷静な筆致であり、素晴らしいことは確か。

ただ、司馬遷本人の問題ではなく、史料収集の限界点や、読み手の側が解釈も重大な要素です。

『史記』がベースであれば、絶対的に信じてよいかどうか。これは別問題です。

漢にとって始皇帝は、倒されてしかるべき宿敵ナンバーワンでした。

儒家および儒教道徳を身につけた漢民族から嫌われたのが「法家」です。

極めて合理的であり、秦躍進の原動力とも言える思想です。

ただ、あまりに厳格であるため、残虐非道で人情がないと思われたのです。焚書坑儒の背景にも、法家がおりました。

法家であり、秦躍進のブレーンであった李斯は「腰斬」という残酷な刑罰で処刑されました。

これが、儒教の目を通すとこうなってしまうのです。

「法家は残酷です。自分がもし、自ら定めた法律に裁かれたら? そんなことすら想像できないのです。そしてその結果! 残酷な刑罰で死にました。因果応報ではないでしょうか」

彼らの思想からすれば、人の道徳心を無視した秦は、その冷酷さで自滅した――そういう考え方になります。

漢の始祖である劉邦に、とくとくと儒教を売り込んだ儒家は、秦を反面教師にしたことでしょう。

「いいんですか? 皆が勝手気ままに振る舞うと、この王朝だって秦の二の舞になりますよ。礼儀作法、そして儒教のこの経典を実践すれば、理想の王朝が実現できます」

「えっ、そうなの? 秦を反面教師にして、儒教を学ばないと!」

乱世では特に役に立ちそうにないけれども、統治するのであれば儒教はとても便利である。

それが、漢民族、そして東アジアが学んだ手段でした。

「年上の人には敬意を示しましょう」

「親を尊重しましょう」

「家族は仲良く協力しあいましょう」

「主君に背いてはいけません」

なんだそんなこと、当然じゃないの。そうは思いませんか?

こうした日本人に根付いた基本的な道徳心は、儒教が基本です。

武士道は違うと言い張ったところで、武士の教養と道徳心は、儒教のテキスト『四書五経』由来ですから、ちょっと無理があります。

徳川幕府でも、儒教をしっかりと叩き込んだのは、戦乱の世の意識そのままで背かれては困るからなのです。

 

儒教に背くな、これは重要なのです

漢代に成立した『史記』、およびそれ以降の目で始皇帝をとらえると、どうしても儒教道徳を通した像になります。

始皇帝は反面教師、参考にしてはならない暴君なのです。

この例は、始皇帝のみにはとどまりません。

◆魏武帝・曹操

孔子の子孫である孔融を処刑に追い込む。

言動が乱世に即して儒教を軽んじる合理性が強過ぎ、最悪の暴君認定を受けることに。

しまいには、「曹操は最悪だ。ナイスガイの劉備こそが正統な漢王朝後継者」という説まで成立するほど。

そんな彼に立ち向かった関羽は、永遠の武神!

三国志展・関羽像

◆南宋・秦檜

現実的な路線をとったように思える政治家です。

が、儒教的な価値観からすれば、二君に仕え忠臣・岳飛を謀殺した、極悪非道の人物認定にされております。

◆明・張居正

暗君揃いの明で、よく働いた名宰相です。

ただ、敵を多く作り過ぎました。

「やばい……父が亡くなったとはいえ、このまま服喪したら留守中に何かされるかも。服喪カットでいいよね」

そして死後「宰相殿は実力はありましたが、父の服喪すらまじめにやらない、非道徳なところがありましたな」

遺族没落……

ご理解いただけたでしょうか?

このように儒教道徳に背けば、極悪非道認定は避けられないのです。

日本史でもそうです。好例が、伊達政宗であります。

政宗は実父を射殺し、実母が出奔――という儒教道徳違反をダブルでぶちかました人物です。弟のことは歳下ですので、まぁセーフ判定で。

こんな人物が藩祖となると、仙台藩は困ります。

藩でも悩んだのでしょう。

結果、当時の史料からはうかがえないうえに、信憑性が現在否定されている、母による政宗毒殺事件が創作されたのだと推察できます。

 

新史料発見が相次ぐ、そんな時代に生きている!

この政宗の例は、始皇帝像を考えるヒントにもなります。

江戸時代以来、大河ドラマ『独眼竜政宗』まで、強固に染み込んできた政宗像。

それが否定されたのは、近年の研究で当時の史料発見と研究が進んできたからなのです。

時代の進歩で、かつては得られなかった史料を発見し、その結果歴史が覆る!

これが、歴史研究進化の基本です。

過去に起こったことは変えられないかもしれないけれど、過去に成立した創作混じりの像は変えられる。そういうことなのです。

前述の曹操も、大発見により新事実が発覚しつつある代表例です。

1970年代から、中国では新史料発掘に本格的な取り組みを開始しました。

それが21世紀になり、成果が実り始めたのです。

木簡、竹簡、帛書、遺骨、副葬品の発見。

遺骨からの複顔。

ミトコンドリアDNA鑑定。

歳月とベールに覆われた歴史が、ついに明らかになる。

そんなエキサイティングな時代に私たちは生きています。

 

今だからこそ学びたい、始皇帝の世界

東に儒教があるのであれば、西にはキリスト教徒がありました。

ヨーロッパでは、キリスト教に王が改宗してからこそが、その国のスタートラインに立ったのだとみなす歴史観があるものです。

ただし、これも歴史が進み、科学技術が進歩する過程で歪みが生じてきます。

地動説然り。

進化論然り。

人間が疑問を抱かないように、経典でそうなっているから、神の教えであるからと説明されてきた謎。それが解明に至るようになったのです。

そうなると、宗教を信じていてよいものだろうかと人類は疑念を抱くようになります。

フランス革命、ロシア革命、文化大革命では、「宗教はいらんわー!」と、恐ろしいほどの破壊が行われたこともあります。

こうした破壊と改革はやりすぎにしても、宗教的な価値観に疑念が抱かれることは、むしろ時代の流れとして当然と言えるのでしょう。

そんな流れの中で、儒教以前の法家思想や始皇帝の言動から、学ぶべきことが見えてくるのです。

乱世。

激動の時代。

進歩し続けなければ、遅れてしまう時代。

儒教的な価値観からすれば、浅ましいほどにギスギスしているように思えたかもしれませんが、実に魅力的でもあります。

そうした時代の実像が、新史料発見により見えるようになりました。

21世紀という今日に、始皇帝の時代が、後世の誇張や潤色なしに見えるようになってきたこと。

これほどまでに胸がおどることはありません。

こんな歴史の解明を目撃できる私たちは、極めて運がよいのだと改めて感じます。

『キングダム』を契機に、この劇的な流れをぜに味わっていただければと思うのです。

紀元前に終わった時代のこと。

だからといって、この時代が色褪せることはありません。

むしろ今だからこそ、その存在感が増す――そんな人物であるのです。


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【参考文献】
鶴間和幸『人間・始皇帝』(→amazon
鶴間和幸『中国の歴史 ファーストエンペラーの遺産』(→amazon
NHK「中国文明の謎」取材班『中夏文明の誕生』(→amazon
ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス 上下』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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