紀元前259年2月18日はその生誕日であり、世界中に名を轟かせる中国きっての偉人として生涯を過ごしました。
日本では漫画『キングダム』の影響で存在感を増しており、主人公が仕える若き君主の姿に心奪われる方も少なくないでしょう。
かつては非情な独裁者として描かれることが多かったのに、作品次第で印象はガラリと変わるもので。
史実の始皇帝とは全然違うんでは?
そんな疑問をお持ちの方もおられると思いますし、実際、その人物評価も変化しております。
では一体、史実における始皇帝は今どんな評価を受けているのか?
本稿では、その生涯に迫って参りたいと思います。
この記事を読まれ、「なんだか私の知っている歴史と違う……」という印象の方もおられるかもしれませんが、それは最新研究の結果と思っていただければ幸いです。
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実は父に諸説あり
いきなり、ショッキングなことから書きます。
実は始皇帝、実父を断定できません。
それを念頭に入れていただき、『史記』の記述から彼の誕生経緯をさかのぼってみましょう。
BC260年――趙・邯鄲(かんたん)に、秦の人質として滞在していた子楚(しそ)が、一人の美女に心を奪われます。
趙姫(ちょうき)です。
妖艶な悪女扱いを受ける女性ですが、実際の人柄はそこまでハッキリしておりません。『キングダム』はじめ作劇上の演出の影響もありますね。
当時の趙は、美人が多いことで有名でした。
メイクが得意、ファッションセンスも抜群。歌や楽器演奏も得意で、各国の後宮に趙出身者がいたとされています。
始皇帝の母となる女性も、そんな一人であったのでしょう。
「いやぁ美人ですね! 是非ともお近づきになりたいなあ〜」
そう思ったところで彼女は大商人・呂不韋(りょふい)の側室でした。
しかし、これで恩義を売れるなら……と、呂不韋は彼女を与えます。
まだ、さしたる価値のない人質・子楚にそこまで入れ込んだ――このことが「奇貨居くべし」の由来。このとき彼女の胎内には呂不韋の子が宿っていた……つまり、始皇帝の実の父は呂不韋だったんです!
そんな衝撃的な話、現在では否定されております。
◆『史記』ですら始皇帝の父親は二説あって統一されていない
◆懐妊期間がおかしい
◆同時代の史料の読み込みが、『史記』はそこまで深くない
→これは重要! 史料発見で覆されるのです。
◆楚・春申君(しゅんしんくん)と幽王の逸話とそっくり
→歴史での創作テクニックの典型例です。日本でも、伊達政宗と義姫の不仲説が、織田信長とその母の逸話を参照にしたような点があります。似た話を流用するんですね。
こうなってくると、もはや実父の特定は不可能でしょう。
遺骨を父子で手に入れて鑑定するぐらいしか、確認のしようがありません。
始皇帝のみならず、「あの人の父親は誰なのだろうか?」という歴史論争は、ネタとしては面白い。
されど意味がない。父が誰であろうと、嫡子扱いされていればそれで話は終了です。
呂不韋実父説はインパクトとしては抜群ですが、結論が出るはずのない話であります。
名前も違っていた?
驚きなのは生まれだけでなく名前も不確か。それが始皇帝です。
嬴政(えい せい)じゃないのか?
『キングダム』もそうだし、Wikipediaにもそう書いてあるし、そもそも『史記』がそうだし……と考えるのが普通でしょう。
しかし、これが史料発見により覆されつつあります。
生年月日は判明しており、BC259年の正月です。そして名付けられました。
「正月生まれだし、この子は正にしよう」
当時はあくまで人質の子です。
偉大な人物になるなんて、誰も予想していない。無難な名前でいい。そう考えられたとして、おかしくはありません。
これを、司馬遷はちょっと盛った……ようです。
「偉大な政治家なんだからさぁ。正月だから正ってあんまりだ。政でいいだろ」
そして、ここがややこしいのです一つずつ説明させていただきますね。
◆当時の秦では「政」と「正」を明確に区別していない
→「正治家」と書いても当時の秦では誤字扱いされなかった
◆始皇帝の長男にして2代目となる扶蘇(ふそ)の代で、正月を避諱(※皇帝の諱を避ける)して「正月」を「端月」と記載した歴譜(カレンダー)が存在する
◆21世紀の発掘の中で、始皇帝伝である漢代の竹簡『趙正書』が見つかった
→このような場合、竹簡に書かれた=筆写の時点で漢代ということであり、執筆年代と一致しないことに注意が必要
ここまで揃うと、これはもう「正」が正解ではないでしょうか。
漫画アニメ『キングダム』も、発表がもう少し遅かったら「正」であったかもしれません。
こうなると『史記』の記述に信憑性が疑われる部分も出てきます。
司馬遷が意図的にそうしたというよりも、史料集めに限界があったのでしょう。だからといって『史記』そのものが否定されるわけはありません。
なお本稿は、即位前にそう書くことはおかしいと踏まえた上で、名前を始皇帝で統一します。
苦難、そして帰国
人質だった始皇帝は、帰国時期もハッキリしません。
わからないことだらけじゃねーか!
そう突っ込みたくなるかもしれませんが、中国史は同時代の他国よりはるかに記録に恵まれております。
紀元前3世紀の話がここまでわかるのは中々ありません。
BC257年。
3歳の時、彼ら母子は絶体絶命のピンチに陥りました。秦が趙を17ケ月間にわたって包囲したのです。
※本稿では、当時の年齢である満年齢表記とします
父・子楚は呂不韋に救われ、走っての逃亡に成功。呂不韋は大金を支払い、護衛を買収しておりました。
呂不韋が始皇帝の実父であるかはさておき、大恩人であることは確かですね。
残された母子は、母方の裕福な家に匿われ、生き延びることができました。
そしてBC251年頃に、9歳前後の始皇帝はようやく帰国。生まれて初めて、祖国を踏むのです。
背後には、秦の王位継承事情がありました。
子楚の帰国時、秦は曽祖父である昭王が統治していました。
太子の安国君はもう46歳。当時の感覚からすれば、老人です。しかも華陽夫人との間に、子はいません。
このままでは王が断絶しかねない。極めて危険な状況でした。
そこで安国君と華陽夫人は、子楚を養子とすることに決めたのです。
王位継承はまずありえないとされていた境遇が一転。子である始皇帝の境遇も変えました。
「あの人質は、相対的価値があがったんです。人質にしておくよりも、利用しましょう」
呂不韋は趙でそう主張したと『戦国策』にあります。昭王の死が、少年の運命を変えて、祖国の血を踏ませることとなりました。
このあと、不可解な事態が起こります。
安国君が即位し、孝文王となるものの急死したのです。
わずか3日という説もありますが、繰り返し述べるようにこれも断定できません。ただ、急死であったことは確かです。
毒殺のような陰謀論は置いておきましょう。即位の時点でかなりの高齢です。何があってもおかしくありません。
しかしこのあと、太子へスムーズに継承させるには、どんなに短くとも即位しておかねば正統性を主張しづらいものです。
そして、子楚が荘襄王(そうじょうおう)として即位。その子「正」は太子となったのでした。
荘襄王もわずか3年で亡くなるため、これまた呂不韋黒幕陰謀論があります。
ただし、動機の面で無理があります。
呂不韋は荘襄王に対して、過去に投資と協力を惜しみませんでした。
彼の王位が続いても、特に不都合はなかったのではないでしょうか?
BC247年。
かくして13歳の少年王が即位を果たします。
その傍には「相国」として付き従っていた呂不韋。実質的な権力者といえる、そんな体制でした。
青年王と天変地異
少年王の治世は、親政に乗り出すタイミングがあります。
始皇帝の場合は、なかなか大変なことでした。
当時、人々は彗星の動きや天体観測を行っていました。古代ギリシャでは、星座は英雄を讃えるものとして観察されましたが、中国は違います。
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天変地異の前触れではないか――。そう考えられていたのです。
幻日環を指す「白虹貫日」という言葉がありますね。
後に曹操は、後漢末期の政治的混乱を『薤露行(かいろこう)』(※挽歌・もうこの王朝の政治終わった的な意味)という詩にこう残しています。
白虹為貫日 己亦先受殃
白虹為めに日を貫き、己も亦た先ず殃(わずらい)を受く
(天変地異である幻日環が起こり、自らも滅してしまった)
そもそも曹操自身は、天変地異を観察している暇があるなら、現実を見ろと言いたいタイプでしょう。
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そんな彼でも、無視できない。それほど、天変地異には注意が払われていたのでした。
ちなみに生年月日、その人が生まれたときの天体による占いもあります。
中国版星占いです。
実は、日本の大正時代である1918年にも、この天変地異由来の筆禍事件「白虹事件」が発生しています。中国だけの話ではないのです。
そしてこの天変地異こそが、歴史解明のヒントになりえます。
彗星は、各地で目撃されます。
その記録を読み取っていくことで、時系列が判明しやすくなるのです。
【嫪毐(ろう あい)の乱】とそれに続く呂不韋の死は、彗星目撃が相次ぐ時代に起こりました。
かなり「合理的な性格」と推察される始皇帝であっても、彗星目撃情報には神経をとがらせていたことでしょう。
そしてこれが、ある儀式を遅滞させることになるのです。
成人の儀です。
何歳からが成人であるのか?
この判断とは、なかなか難しいものです。秦の場合、年齢ではなく身長も基準となりました。
【秦】
男子:150センチ以下は「小男子」、17歳以上で「戸籍」に就けられる
女子:140センチ以下は「小女子」
【漢】
男女:14歳以下は未成年
『礼記』を基準にして、始皇帝の身分を考えれば、20歳の段階で成人の儀を行なっていておかしくありません。
しかし前238年、彼が22歳になるまで延期されています。そしてこの儀式の前、大きな試練が襲いかかるのです。
「嫪毐の動きがおかしいようです……」
「彗星が続発する昨今の動き。民の間には、何が起きてもおかしくない。そんな流言飛語が飛び交っております……」
異変が起こる前に、こちらから起こそう。先手を打つ――。
若き王はそう決断したと、最近の研究では見られるようになっています。
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