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英国王ヘンリー5世の生涯~美女と野望をゲットした若き王は急死した

王様や主君というのはハードな仕事です。

なんせ他の職業のように選択の自由がなく、仮に正室の長男だった場合、生まれた瞬間に将来が決まってしまうのですから、やる気のない王様が出てくるのも仕方ありません。

ただ、そういう人ばかりだと国が危うくなってしまうので、時にヤル気の塊のような王様もいるわけですが。
そういう人ほど、あまりよくない最期を迎えることも多いような気もしまして……。

1422年(日本では室町時代・応永二十九年)8月31日、イングランドの王様だったヘンリー5世が急死しました。

いきなり不穏な空気が流れていますが、まずは経緯を見ていきましょう。

 

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フランス語から英語を公式に使うようになった王様

そもそも彼は、本来なら王様になるハズではありませんでした。
生誕時には従兄がイングランド王を務めていて、王位が回ってくることはまずないだろうと思われていたのです。

しかし、従兄の血筋からヘンリー5世の父親に王位が移ると、瞬く間に次期王位継承者とみなされ、要職を歴任することになります。

ヘンリー5世が即位前に得意としていたのは軍事で、何回も国内での反乱を収めました。
即位してからは内政にも積極的に取り組み、王様らしい王様になっています。

ヘンリー5世/wikipediaより引用

特筆すべきは
【公式文書で積極的に英語を使い始めた】
ということです。

「イングランドで他に何語があるんだよ?」

そう思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、かつてこのあたりはフランス人に征服されたことがあり、その関係で上流階級は主にフランス語を使っていたのです。

英語の中にフランス語由来の単語が多いのもこのためで、有名な例としては"buef"(フランス語)→"beef"(英語)などがありますね。

つまり”英語は庶民の言語”という雰囲気ができていたところで、ヘンリー5世は
「国内で自国の言葉を使うのは当然だろjk」
と考えたらしく、個人的な手紙にも英語を使っています。

もしここで英語の使用が広まっていなかったら、今ごろ、義務教育で習うのはフランス語になっていたのかもしれませんね。

 

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領土拡大に対する意欲もあった

さらに積極的だったのは英語に関することだけではありません。

王様という職業につきものの領土に対する欲も持っていました。

折りしも時代は百年戦争の休戦時期。

百年戦争というと【フランスvsイングランド】のイメージが強いかもしれませんが、実は

ヴァロワ家(後にフランスの王様になる家)
vs
ブルゴーニュ公国(フランスの一地方にあった国)&イングランド

という構図でした。

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このヴァロワ家が「やっぱりケジメつけたいんで、今度はウチに協力してくれませんかね」と言ってきたので、ヘンリー5世は「おk。ただし条件付きだ」という返事をします。

 

ワインが欲しくて「フランス王に俺はなる!」

この”条件”というのが結構とんでもないもので。

よくこれだけ思いついたなと妙な関心をしてしまうほどです。

・アキテーヌ地方(フランスの南西部・ワインで有名なボルドーがあるところ)をイングランドによこせ

ノルマンディー(ドーバー海峡沿いのフランス側・上陸作戦で有名)をくれ

・アンジュ(ノルマンディーのちょっと南・やっぱりワインで有名)もよこせ

・フランス王に、俺はなる!!(超訳)

欲張りすぎだとかワイン欲しがりすぎだろとか、現代人から見てもいろいろツッコミどころが満載でしょう。

さすがに盛りすぎてこの要求は一度突っぱねられますが、その後の戦闘でヴァロワ家側が負けてしまい、一部条件を緩和して手を組むことになります。
わざとふっかけて「譲歩してやった」形にしたのかもしれないですね。

黒いわー。というか交渉の基本ですな。

しかし、代わりに?美人で有名だったヴァロワ家のお姫様・カトリーヌをイングランド王妃としてもらったので、ヘンリー5世としてはまずまずといったところだったでしょう。

政略結婚でもヘンリー5世は王妃にメロメロ(死語)だったようで、結婚の翌年には王子に恵まれています。

が、ヴァロワ家とは早々に手を切ってまたブルゴーニュ公国側についていたりして、汚いというかがめついというか、美人が手に入れば満足なのか?とツッコミたいところです。

まぁ、これぐらいでないと王様なんて務まりませんね。

 

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陣中で急死しなければジャンヌの活躍もなかった?

しかし、よかったのはそこまで。

王子が生まれたさらに次の年、つまり結婚から二年目にヘンリー5世は亡くなってしまいました。
戦争を指揮するため、フランスに渡っていたときのことです。

戦場で赤痢を患ってしまっていたらしく、34歳という若い王の急死は両陣営に衝撃を与えます。

それまで優勢だったイングランド側はまともに進軍できなくなり、この隙をつくようなタイミングでジャンヌ・ダルクがシャルル7世を王位につけたり、その他諸々の活躍をし、結果、百年戦争はフランス側の勝利となります。あーあー。

戦に積極的で、文化の振興にも熱心で、急死したというとちょっと織田信長に似ているかもしれません。
亡くなった原因は全然違いますが。

「もし長生きしていたら……」と仮定すると、なかなか面白い青写真が描けそうなお人ですね。

長月 七紀・記

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【参考】
ヘンリー5世/wikipedia

 

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