こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【ヘンリー5世】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
ワインが欲しくて「フランス王に俺はなる!」
ヘンリー5世が出した条件とは以下の通りです。
・アキテーヌ地方(フランスの南西部・ワインで有名なボルドーがあるところ)をイングランドによこせ
・ノルマンディー(フランス北西部・上陸作戦で有名)をくれ
・アンジュー(ノルマンディーのちょっと南・やっぱりワインで有名)もよこせ
・フランス王に、俺はなる!!(超訳)
欲張りすぎだとかワイン欲しがりすぎだろとか、現代人から見てもいろいろツッコミどころが満載でしょう。
ワインについては、当時の水事情的に仕方がないところもありますが……ブリテン島では、ぶどうが育ちにくくてワインが作れませんでしたしね。
さすがに盛りすぎてこの要求は一度突っぱねられますが、その後の戦闘でヴァロワ家側が負けてしまい、一部条件を緩和して手を組むことになります。
わざとふっかけて「譲歩してやった」形にしたのかもしれないですね。値切りのセオリーではありますが、黒い黒い。
しかし、代わりに?美人で有名だったヴァロワ家のお姫様・カトリーヌ(英語名キャサリン)をイングランド王妃としてもらったので、ヘンリー5世としてはまずまずといったところだったでしょう。
政略結婚でもヘンリー5世は王妃にメロメロ(死語)だったようで、結婚の翌年には王子に恵まれています。
が、ヴァロワ家とは早々に手を切ってまたブルゴーニュ公国側についていたりして、汚いというかがめついというか、美人が手に入れば満足なのか?とツッコミたいところです。
まぁ、これぐらいでないと王様なんて務まりませんね。
陣中で急死しなければジャンヌの活躍もなかった?
良かったのはそこまで。
王子が生まれたさらに次の年、つまり結婚から二年目にヘンリー5世は亡くなってしまいました。
戦争を指揮するため、フランスに渡っていたときのことです。
どうやら戦場で赤痢を患ってしまっていたらしく、34歳という若い王の急死は両陣営に衝撃を与えました。
それまで優勢だったイングランド側はまともに進軍できなくなり、この隙をつくようなタイミングでフランス軍にジャンヌ・ダルクが登場。
シャルル7世をフランス王位につけたり、その他諸々の大活躍をし、ジャンヌはイングランドに捕まって処刑されたものの、結果として百年戦争はフランス側の勝利となります。あーあー。
ついでにいうと、イングランド国内でも薔薇戦争が起きて、この後しばらく混乱しました。
最終的に収めたのが、ヘンリー5世と死別した後の王妃キャサリンが愛人との間に産んだリッチモンド伯エドマンド・テューダーの子、ヘンリー7世です。
詳しくは薔薇戦争の記事をご覧ください。
英国の薔薇戦争は意外なカタチで収束! 王位を巡って白と赤が激突
続きを見る
戦に積極的で、文化の振興にも熱心で、急死した……というと、ヘンリー5世は少し織田信長に似ているかもしれません。
亡くなった原因は全然違いますが。
「もし長生きしていたら……」と仮定すると、なかなか面白い青写真が描けそうなお人ですね。
あわせて読みたい関連記事
なぜ英国女王メアリー1世はブラッディ・メアリーと呼ばれるのか 血塗られた歴史
続きを見る
リチャード3世は邪悪なヒキガエル? むしろ冤罪被害者だったかもしれない
続きを見る
子・孫・ひ孫がパリピで英国王室が大混乱!ヴィクトリア女王の子孫がヤバい
続きを見る
英国の戦士女王ブーディカ! ケルト族を率いてローマ軍相手に血みどろの戦闘へ
続きを見る
アーサー王とは一体何者なのか? 地獄化したブリテンを救った英雄の正体に迫る
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
君塚直隆『物語 イギリスの歴史(上) 古代ブリテン島からエリザベス1世まで (中公新書)』(→amazon)