ヴィクトリア女王の子孫

ヴィクトリア女王の子供たち/wikipediaより引用

イギリス

子・孫・ひ孫がパリピで王室大混乱 ヴィクトリア女王の子孫がヤバい

1837年6月20日――。

若干18才のヴィクトリア女王が即位したとき、国民は可憐な女王の姿に魅了されました。

なんせ彼女の前に王座についたハノーヴァー朝の国王たちは、国民の手本となる人物とは言いがたい君主ばかり。

ジョージ三世をのぞく王たちは全員好色で粗暴、素行に問題があり、唯一の例外であるジョージ三世にしても、我が子の乱行と自らの発狂に苦しめられています。

今度の若き女王こそ、人々の模範となる人物であって欲しい!

多くの国民がそう願っていたことでしょうし、実際、その願いは叶えられます。

ヴィクトリアは堅物でした。

生真面目で、頑固。

そんな彼女が選んだ結婚相手はザクセン=コーブルク=ゴータ公子のアルバートです。

ヴィクトリアにとって従兄にあたる彼は、さらに輪を掛けて真面目でした。

「愛人を持つなんて、考えただけで気分が悪くなる!」

ヴィクトリア朝の英国紳士とは、本来のイギリス人の気質と言うよりも、この堅物のドイツ人であるアルバートがお手本となった理想像でしょう。

ハンサムで生真面目なアルバートは、ヴィトリアにとって理想の相手でした。

9人の子に恵まれた国王の家族は、あたたかみがあり清らかな、厳格なプロテスタント的理想にかなうものでした。

国民にとって理想的な、あたたかい家族像。

それがヴィクトリア女王一家のはずでした。しかし国王夫妻に誤算が生じます……。

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やんちゃなバーティ 父祖の血に覚醒する

最初の誤算。

それは長男の王太子アルバート(エドワード7世)が成長するにつれ、素行に不穏な兆しが見えてきたのです。

国王夫妻の子供たちは、王宮で家庭教師をつけられ、厳しくしつけられていました。

バーティは賢い少年でしたが、学問に興味はありません。

厳しい学習としつけに反発し、家庭教師に当たり散らすようになります。

そんなバーティは1859年、やっと外の空気を吸う機会に恵まれました。名門オクスフォード大学に入学させられたのです。

さらに二年後には、ケンブリッジ大学へ。

しかしバーティは学問よりも芸術や文学、そしてそれ以上に酒、煙草、賭博、美しい女性が好きなのでした。

1861年、バーティはアイルランドで陸軍の訓練を受けました。

同年代の若者たちは、バーティに「みんながやっている気持ちいいこと」を勧めてきます。それは女優兼娼婦のネリー・クリフデン相手に童貞を捨てることでした。

ベッドにすべりこんできたネリー相手に、バーティは「堕落」したのでした。

「バーティが娼婦相手に童貞を捨てた、ですって!?」

両親は我が子の堕落を歎き悲しみ、息子の素行に頭を痛めるしかありません。

ケンブリッジ大学の学寮長からは「皇太子を何とかしてください」と苦情が寄せられる始末。

ヴィクトリアは激怒し、ケンブリッジ大学総長をつとめるアルバートは胃痛に苦しめられました。

アルバートは体調不良をおしてまで、ケンブリッジへバーティをしかり飛ばすために向かうのでした。

 

欧州一の美女を妻にすれば少しは落ち着くか?

その直後、アルバートは僅か42才で薨去しました。

死因は腸チフスでしたが、ヴィクトリアは「馬鹿息子のせいで心労がたたって、寿命が縮んだ!」と信じ込み、バーティを憎むようになります。

「バーティの素行を落ち着けるためには、美女の妃がいればよいのでは?」

ヴィクトリアはそう考えました。

そこで彼女が選んだのはデンマーク王女のアレグザンドラ、愛称アリックス。

ヨーロッパ一の美女の座を、あの伝説的なシシーことエリザベートと競っていた王女でした。

しかし、どんな美女を妻に持とうと、バーティの遊び好きはまったく収まる気配がありません。

博奕、飲酒、喫煙、そして美女との逢瀬が何より好き。

社交界の美女と浮き名を流すバーティの姿は王室の恥部そのものでした。

「さあ、賭けた賭けた! 王太子殿下は今度の愛人とどれだけ持つか賭けてみようぜ!」

国民たちの中には、そんな賭けごとをする者まで出る始末。

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