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【アレクサンドル・デュマ(大デュマ)】
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豪邸dを建て女優たちと浮き名を流し また散財!
一気に大金を手にした人によくあることなのか。
デュマも使うときもあっという間でした。
・パリ郊外の土地を買い漁って豪邸「モンテ・クリスト城」を建てるわ
・毎日パーティーを開くわ
・居候を何人も世話するわ
・女優たちとアバンチュールを楽しむわ
散財っぷりがハンパじゃない。
一応、劇場を建てて自分の作品を上演させたりもしていましたが、何せ使う金額の比率が凄まじいのです。
結果、借金取りに追われながら書く――という当然の状況に陥ります。
「いくらでも稼げるから、いくら使っても問題ない」と思っていたのかもしれません。
彼が「宵越しの銭は持たない」という日本語を知っていたら、拍手喝采していたことでしょう。
仕事仲間なり家族なり、誰か止めてくれる人はいなかったんですかね……止めても無駄だったんでしょうか。
借金取りから逃れるために亡命
パトロンだったルイ・フィリップたちが国を追われ、フランスという国自体が再び混迷を迎えると、デュマの実入りも途端に悪くなりました。
みんな娯楽にお金を使っている場合ではなくなったのです。
そしてデュマは裁判所から破産を言い渡され、財産を差し押さえられてしまいます。
巻き返しのため議員に立候補してみるものの、演説の内容が「金、金、金」みたいな感じだったため3ケタしか票を得られず落選。
経済的にどうにもならなくなったデュマは、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)がクーデターを起こした隙にパリを脱出します。
債権者から逃げるため、一時ベルギーに滞在したのです。
ベルギーではユーゴーと再会し、亡命者のためにデュマが文筆活動をして資金を用意したといいます。
相変わらず自分のためにも莫大なお金を使っていましたが、それでも債権者とは示談が成立したというのですから、彼の稼ぎぶりときたらいやはやなんともはや。
その後は1854年に晴れて(?)パリへ戻り、自分で新聞を創刊したり、今度は回想録の連載を始めたり。
すると問題がもう一つ持ち上がります。
かつての共著者だったマケが、1857年にデュマを訴えたのです。
マケは1851年でデュマとの共作関係をやめ、単独でいくつか小説を発表していました。
デュマのおかげでマケの筆力も磨かれていたようで、彼一人の名前でもそこそこの評判を得られるようになっていたようです。
そこでマケは「今までの作品にも自分の名前を出してもらいたい」と考えたのでした。
この件は双方の話し合いによって、共作した18本の印税のうち25%をマケに払うことで決着。
マケは名前を売ることはできませんでしたが、総額がデカいので1/4でもかなりの収入になったことでしょう。
デュマはというと、1858年6月~1859年3月にはロシアへの長期旅行をし、相変わらず散財していました。
この旅行記も発表してお金にしているので、全くの無駄ではありませんでしたが。
若い頃の不倫もですが、どうも彼には「ネタが無くなりかけたらド派手な行動をしてネタを作り出す」という価値観があったように思えてなりません。
「パリに来たとき金はなかった 最初に戻っただけ」
1859年には40歳も下のエミリー・コルディエと交際を始め、子供をもうけています。
このときデュマは57歳。
どこまで元気なんだ一体、とツッコミたくなってしまいますね。
さらに統一運動(リソルジメント)中のイタリアへ行って、ガリバルディにも会いました。
かつての七月革命と同様、武器弾薬不足で悩んでいた彼に、デュマはまた「私が調達してきましょう」と言い、見事、マルセイユで調達してみせています。
フランスへ帰った後も女性関係は奔放なままで、息子のところに娘(デュマの孫)が生まれても変わりませんでした。
多作ぶりもそのままでしたが、1869年から急速に身体が弱っていったようです。
医師の勧めでスペインへ療養しに行くも、あまり効果はなく。
さらに1870年には普仏戦争が始まり、またしてもパリが動乱の渦中になると、デュマ・フィス一家はドーバー海峡に面したディエップの町に避難していきました。
同年9月「デュマの調子が良くない」と知った娘のマリ・アレクサンドリーヌが、異母兄のもとに父を連れていき、そこで献身的に看病します。
娘のおかげか、デュマは数ヶ月命を留め、1870年12月5日に息を引き取りました。
亡くなったときにはほとんどの財産がなくなっていたとか。
デュマ本人は
「パリに来たときもこの程度の金しかなかった。最初に戻っただけだ」
と言い残したそうなので、あまり後悔していなかったようですね。
近年では相続税や贈与税の観点から「財産をあまり残さないほうがいい」という考えも出てきていますので、時代の先取り……というのは、少々美化しすぎですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
辻昶/稲垣直樹『人と思想 139 アレクサンドル=デュマ』(→amazon)
デジタル版 集英社世界文学大事典
日本大百科全書(ニッポニカ)
ほか