と言えば、松尾芭蕉が平泉で詠んだ俳句として知られますが、“兵どもの夢”は何も東北に限った話ではありません。
初の武家政権が開かれた鎌倉――。
本稿では、源頼朝や北条義時、その他多くの御家人など、鎌倉武士たちの「最期」に思いを馳せながら各所をご報告させていただきます。
「夏休みに訪問してみたい!」とお考えの方は、その補助資料として一読いただければ幸いです。
ただし、お墓そのものの写真は掲載していません。
片手落ちだろ……と思われるかもしれませんが、お墓の写真を撮るのは何かこう生理的に……ぶっちゃけ怖くて(´・ω・`)
ともかく、現地へレッツゴー!
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白旗神社&源頼朝の墓&法華堂跡
鎌倉には「白旗神社」という名前の神社が二つあります。
一つは鶴岡八幡宮の東の端にあり、頼朝とその息子・源実朝が共に合祀されているところ。
江戸時代までは別々の社があったそうで、明治に入ってから合祀したのだとか。
本殿の東側の静かな一角で、近くに鎌倉国宝館があります。併せて訪れるのもよさそうです。
この日は残念ながら展示替えのため休館でした。
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近くには、明治~昭和の実業家・菅礼之助氏の句が立て札に掲げてありました。
もう一つの白旗神社は、ここから徒歩10分ほどの位置にあります。
こちらは頼朝存命中に鎌倉幕府があったところとされていて、まず神社があり、横の階段を登ると頼朝のお墓が据えられています。
階段が結構急なので、行かれる方はご注意ください。
他の武将の墓と違うのは、脇に添えられているこれでしょうか。
これは、頼朝の同母弟・源希義(まれよし・源義朝の五男)のお墓から分けられた土と石です。
希義も頼朝と同じように【平治の乱】の戦後処理で流罪となり、土佐(現・高知県高知市介良)に流されていました。
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それから20年近く経って頼朝が挙兵したとき、希義も関東へ向かおうとしましたが、平重盛(清盛の長男)に察知されて討ち死にしてしまった……という、範頼や義経とはまた違った悲劇の人です。
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琳猷上人という僧侶が希義の遺体を引き取って供養し、後日頼朝にそのことを伝えると、頼朝は涙していたとか。
やはり同母弟で年も近かっただけに、再会したいという願いも強かったのでしょうね……(´;ω;`)ブワッ
希義の墓周辺にはお寺があったそうなです。
しかし、近世に至るまでに寂れ、明治時代の廃仏毀釈運動で廃寺となったとのこと。
お墓だけは長らく「”伝”希義の墓」として残っていたのを、1995年に有志の方々によって「兄弟を再会させてあげよう」と、お互いの墓の土と石が交換されたのだそうです。ええ話や。
また、頼朝の墓の右手には小さな空き地があります。
階段下のこの看板からすると、宝治合戦で追い詰められた有力御家人・三浦氏の最期の地と思われます。
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三浦氏は進退窮まった末、「頼朝公にお詫びして腹を切ろう」と、一族揃って頼朝の墓前の法華堂にやってきた……といわれていますから。
法華堂跡・北条義時の墓
頼朝のお墓から徒歩2~3分ほどのところにあります。
こちらも「法華堂跡」なのでややこしいところです。
現在はまっさらな空地になっており、遺構のいの字も見当たりません……が、左手の崖に北条義時のものといわれているお墓があります。
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「やぐら」と呼ばれる、鎌倉独特の形式のものです。内部がかなり暗いので、踏み込まないと全容がわかりません。
ざっくりいうと「ちょっと横穴を掘って墓石を置く」というものです。
鎌倉にしかないと思われていましたが、1990年代になって房総半島からも大量に見つかりました。
鎌倉時代まではちょこちょこ作られていたそうで、室町時代以降に廃れていったと考えられています。
当時は装飾されていたり、扉がつけられていたと思われるものもあるようです。
扉は外されたか朽ち果ててしまい、被葬者がわからなくなっているものがほとんどだとか。
釈迦堂口切通し(現在崩落の危険があるため通行禁止)の壁面にも、誰のものかわからないやぐらが多数あるそうです。
また、戦時中あたりまでは子供の遊び場になったり、防空壕代わりになったりしていたとか。いろんな意味で恐ろしいですね。
やぐらについては、つい最近鎌倉市と中国が共同研究を始める方向で動き出したとか。
何でも、中国の石窟文化との類似点がうかがえるそうで、近いうちに進展があるかもしれません。
詳しくは以下のニュースサイトをご覧ください。
◆[中世の横穴式墳墓「やぐら」の実態解明へ 鎌倉市と中国が共同研究 - 産経ニュース](→link)
このすぐそばに、次に挙げる二人のものといわれているお墓があります。
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