何度も映像化された作品でもあり、きらびやかな貴族の生活と壮絶な戦闘場面は見どころ満載。
しかし、そんなロマノフ朝の栄光も急速に翳りを帯び、凄惨な暗殺事件が多発するようになります。
それはまさに、ロシア革命前夜の灰色の時間。
本稿では、帝政ロシア・ロマノフ朝が滅亡し、ロシア革命が起きるまでの流れを解説いたします。
人気漫画『ゴールデンカムイ』ファンの皆様の参考となりましたら幸いです。
お好きな項目に飛べる目次
女帝の懸念
18世紀末。
フランス革命が起こると、ヨーロッパ各地でリベラリズムの芽が吹き出しました。
この流れに警戒心を抱いたのが、偉大なる女帝エカテリーナ2世です。
彼女はヨーロッパを代表する偉大な「啓蒙専制君主」であり、当時、野蛮とされていたロシアに文明と叡智の光をもたらしたいと考えていました。
聡明な彼女の統治のもと、ロシアには自由な風が吹き始めていたのです。
しかし、革命について知ったエカテリーナ2世は、態度を改めます。
ロシアの王宮ではフランス文化が好まれ、皇族や貴族は流暢なフランス語を話すことができました。
その流れを断ち切るように、エカテリーナ2世は革命以来フランスと断交、書物の輸入を禁止します。
彼女がフランスから受け入れたのは、革命から逃れた亡命貴族だけでした。
同時に、出版人やジャーナリストを逮捕し、流刑に処します。
聡明な女帝には、思想が王冠を脅かすことを容易に想像できたのでしょう。
そんなエカテリーナ2世は1796年、67才で逝去。
彼女の懸念は、血腥い形で的中することになるのですが、それははるか先のことでした。
勝利の輝き
はじめ、フランス革命は、自由主義とは別の形でロシアに襲いかかりました。
革命を糧に大出世を遂げ、皇帝に即位したナポレオンです。
彼は1805年の「アウステルリッツの戦い(三帝会戦)」はじめ多くの戦闘でロシア軍を撃破。
1812年、ついにロシア本土まで侵攻を開始します。
一方、冬将軍を味方に付け、粘り強く戦い抜いたのがロシア軍です。
ナポレオン率いる大陸軍(グランダルメ)に大打撃を与え、第一帝政を瓦解させるきっかけを作りました。
捨て身のモスクワ焦土作戦! ナポレオンをタコ殴りにしたアレクサンドル1世
続きを見る
なぜ、名作『戦争と平和』は、ナポレオン戦争を舞台としているのか。
この時代は、帝政ロシアが崩壊する前の、最期の輝きがありました。
ツァーリ(皇帝)のもとに貴族や軍人が集結し、輝かしい栄誉を手にした時代。暗く、辛くとも、輝かしい側面はまだ残されていたのです。
この戦いにおいて軍隊を指揮していたアレクサンドル1世は、戦争終結を向かえると気力を失いました。
心が繊細だった彼は、戦争が終わると団結が失われていくような不安に襲われ、【心理的な平衡感覚を失った】とされています。
そしてナポレオン戦争の終結から十年後の1825年。
アレクサンドル1世は47才という若さで崩御しました。
苦悩する北の帝国
アレクサンドル1世のあとを継いだニコライ1世は、どこか繊細な性格だった先帝(兄)とは違い、軍人気質の厳しい性格の持ち主でした。
1830年にポーランドで革命が起こった時は(「11月蜂起」)、独立運動指導者を厳しく処断。
1848年のヨーロッパ革命では、オーストリア政府の要請に応じて10万もの軍勢をハンガリーに派遣します。
革命を全力で潰すその姿勢をみた人々は
「ヨーロッパの憲兵」
というアダ名を彼につけました。
そして1853年、ロシアはオスマントルコとの間で「クリミア戦争」に突入します。
緒戦は有利でした。
しかしその翌年、フランスとイギリスが参戦すると、ロシア軍は歴史的な大敗を喫してしまいます。
この戦争で、ロシア軍の構造的な欠陥が明らかになりました。
まずクリミア半島への輸送経路がお粗末でした。
海軍は蒸気船ではなく、主力は帆船。
イギリスではこの戦争をきっかけに、ナイチンゲールが戦場での医療改革に取り組むことになりますが、ロシアにおいてはまだまだ先の話です。
イギリス軍による虐殺――数十万人もの犠牲者を出したこの戦いを、ロシアではそう呼びました。
確かにイギリス軍は、ロシア軍を蹂躙しました。
しかし、それほど単純な話ではありません。
ロシアという巨大な帝国の、その大きさゆえに遅滞する改革。
要は、構造的矛盾が、国全体を蝕み始めていたのです。
改革の挫折
1855年、クリミア戦争の敗色が濃厚となる中、ニコライ1世はインフルエンザにより崩御します。
享年58。
跡を継いだのは、38才のアレクサンドル2世でした。
新たなるツァーリの前には、課題が山積みでした。
クリミア戦争は、ロシアの停滞をさらしました。
父とは違い、彼は弾圧ではなく改革でもって皇帝の威光を示さねばなりません。
しかし、北方に位置し、広大な領土を持つロシアにとって、改革ほど苦しいものはありません。
アレクサンドル2世は、保守的な貴族の反対を押し切り、1861年「農奴解放令」を発令。
しかし、ツァーリの解放令を聞いた農民が感じたのは、激しい失望と怒りでした。
二年間は現状維持であること。
領主に土地代を払うかわりに、国庫に買い取り金を納めること。
なんとも中途半端な内容であり、これではいくら「自由農民」にしてやると言われたって、納得できるわけがありません。
アレクサンドル2世は他にも改革に取り組みましたが、それでも人々が求めるスピードには付いていけませんでした。
やがて若者たちは思想を持ち始め、行動に移す
改革によって、事態が悪化する部分もありました。
近代化の過程において、農村人口は増大してゆきます。
自由農民となった場合、既婚の息子たちが家族に資産の分配を求め、核家族化が進んでいったのです。
ひとりあたりの資産が目減りして、深刻な危機が人々を襲います。
やがて都市部の若者や学生は、思想を持ち始めました。
「学位を持ったブガチョフたち」
ヴ・ナロード(人民の中へ)――そのスローガンを元に団結した人々は「ナロードニキ」と呼ばれるようになります。
あるいは、もっと不穏なあだ名は「学位を持ったブガチョフたち」。
ブガチョフとは、エカテリーナ2世の時代に、農民を率いて反乱を起こした人物でした。
彼は、女子供まで片っ端から貴族を殺します。
ブガチョフは貴族を狙いましたが、ナロードニキたちの狙いはもっと照準が狭いものでした。
ツァーリ、つまり皇帝を殺すこと。それが彼らの、目的であったのです。しかし……。
※続きは次ページへ