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その日、歴史が動いた 豊臣家

福島正則が迎えた哀しい終わり 広島城をちょこっと修理で最終的に改易まで

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【人物概略】福島正則とは?

福島正則は、1561年に桶屋を営む福島正信のもとに生誕。
母は、豊臣秀吉の叔母と伝わる(秀吉母・大政所の姉妹)。

つまり正則は秀吉のイトコであり、その縁で幼少の頃から市松と称して仕え、「鳥取の渇え殺し&三木の干し殺し」で知られる三木城・鳥取城攻めにて戦功を挙げている。

織田信長の敵討ち・山崎の戦い(関連記事:中国大返し)にも参戦し、この後、200石から500石へと加増されると、迎えた賤ヶ岳の戦いでは一番槍&一番首の大活躍。

同合戦で活躍したメンツが「賤ヶ岳の七本鎗」と称されたのはつとに有名だが、中でも正則はこの後、5000石を与えられるなど、秀吉から大いなる期待をかけられるようになっていた(他のメンバーは3000石)。

※賤ヶ岳の七本槍
福島正則
加藤清正
脇坂安治
片桐且元
平野長泰
糟屋武則
加藤嘉明

その後も小牧・長久手の戦い小田原征伐など、主な戦いには先手となって参加し、朝鮮出兵においても渡海して活躍。24万石の大名へと躍進を遂げながら、秀吉没後は同じく子飼いであった石田三成との仲が険悪となり、関が原の戦いへと突入するのであった。

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秀吉側近の筆頭として清正と並ぶ福島正則

二昔くらい前までは「良い大学に行けばいいところに就職できて、出世もできて幸せになれる」という考え方が多かったですが、現在の状況を見ると必ずしもそうとは限りませんよね。

高学歴でもなかなか就職・転職できないことはザラですし、「良い」とされている会社に入っても、上の失態で会社がオシャカになったりストレスなどで精神を病んだりするのですから、思わず「幸せって何だっけ」と言いたくなってしまいます。
が、出世=幸福でないというのは、戦国時代も同じだったようで……今日はそんな人のお話です。

寛永元年(1624年)の7月13日、福島正則が亡くなりました。

皆さんご存知「賤ヶ岳の七本槍」の筆頭格で、加藤清正と並び豊臣秀吉子飼いの中でも特によく知られている人です。
二人とも秀吉の縁戚なので、お互いに気の置けない間柄でもあったのでしょうね。
ただし、加藤清正が怪しげなタイミングで謎の死を遂げると、正則もまた哀しい終わりを迎えるのでありまして、なんとも切ないと申しましょうか。

では、関が原のお話から参りましょう。

広島城

 

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東軍の勝利を決定づけた男

正則はこのとき、豊臣恩顧の筆頭でありながら家康(東軍)につきました。
西軍事実上の大将であった石田三成と極めて仲が悪かったからです。日頃の恨みってコワイと見るべきか、公的なことに私情を挟むなというべきか……。
この点は、関が原の戦いが「豊臣vs徳川」でなく「豊臣家内での争い」であったことを裏付けることにもなりますね。前者であれば、正則をはじめとした秀吉に近い人間は皆三成についていないとおかしいですから。

政治的な面で見れば、ここで家康につく=徳川が権力を持つことを認めることになるのですが、正則にそうした視点はありませんでした。ここが関が原以降の正則の運命を決めてしまいます。
元が「桶屋の息子」=庶民ですから大局観が身につかなかったのか。似たような身分出身の他の大名たちと比べても、正則の政治センスには悲しいものがあります。領地で石高を増やしたこともあり、行政面については悪くないだけに余計ここが悪目立ちしてしまいます。
一般的に、正則=武辺者・無骨者というイメージが強いのは、恐らくこのためでしょう。

家康もこの点を見抜いていたようで、大坂の陣では正則以下福島家を使いませんでした。秀頼の病気見舞いをしたとか「今でも主筋は豊臣家である」と公言していたこともありますが、ヘタに動かれて士気や作戦に影響するのを避けたのでしょう。
潔く裏切って豊臣につくこともできず、気持ちを切り替えて幕府軍として働くこともできず、正則にとっては飼い殺しも同然の状態でした。大阪の陣の前に亡くなった清正が羨ましく思えたかもしれません。

 

広島城を台風が襲う ちょっと修理しようとしてみたら

大坂の陣の時点で既に50歳を超えていましたが、幸か不幸か、正則はもう少し長生きします。その不運もまだ終わりません。
家康が亡くなって三年後、名実共に秀忠が将軍として働き始めた頃の話です。正則の居城・広島城を猛烈な台風が襲いました。

現代でさえ恐ろしい災害ですから、当時は尚のこと。広島の町だけでなく城も大きな損害を受け、修繕しなくてはいけなくなりました。江戸時代に入って「城は一つの国に一つだけ、修繕するときは必ず幕府の許可を得てからにすること」という決まりができていたので、正則はこれをきちんと幕府に届け出ます。

が、その前からこのルールギリギリアウトな築城をやってしまっていたため、幕府はなかなか許可を出しませんでした。しかし城を直さないと生活にも政治にも不便ですから、正則は「雨漏りしたとこだけ先に直しとけ。幕府には後で何とか言えばいいや」くらいの感覚で勝手に修理を始めてしまいます。

運の悪いことに、これがいち早く江戸に伝わり、徳川秀忠の逆鱗に触れてしまいました。「アイツ前々から俺のことナメてんだろ!」とブチ切れ、土井利勝ら重臣の反対にもかかわらず「ルール守らないヤツなんか改易だ改易!!」と正則のクビを切ってしまいます。物理的に飛ばなかっただけまだマシかもしれませんが、家としては大問題です。

正則は息子に家を譲って出家・隠居しましたが、その息子も先に亡くなったため、大名としての福島家は終わりを迎えます。

亡くなったのは信濃高井野(現・長野県高山村)です。かつて信玄と謙信が争った川中島に近いため、「正則は川中島で亡くなった」と言われることもあります。
更に高山村には屋敷跡や荼毘所の跡、近隣の小布施町には菩提寺の岩松院がありなすが、隠居してから追いやられるようにして住んでいたため、正則と長野県のイメージがあまり結びつかないかもしれません。

ライトアップされた広島城

 

よく出来た人はなかなか生き残れない?

こうしてみると、大名として一国一城の主になるよりは、誰かの副将くらいの位置にいたほうが正則にとって良かったんじゃないか?という気がしてきます。性格からして、秀吉以外の下につくこともなかなか難しそうですけども。
人情家をうかがわせるエピソードも多く、根が悪い人ではないだけに、もうちょっとうまくやれていたらなあ……と思います。

藩祖の性格がアレでも家を残している大名はあっちこっちにいますしね。どこの何家とは言いませんが。西のDQNとか北のDQNとか言わない言わない。
でも、そういうところってその前から何百年も続いている家だったりしますから、やっぱり「武家の心得」みたいなものがないと戦国~江戸時代を生き抜くのは難しかったんでしょうねえ。

※その後の福島家……いったんは領地を没収された福島家ですが、後に四男・正利が川中島にあった旧領3,000石を与えられて、寄合(主に3,000石以上の収入がある旗本)に復帰。しかし正利に子がなくまたもや断絶してしまいます。ところが、ところが、です。曾孫にあたる正勝が再び寄合に復帰し、その後も福島家は続くのでありました。
福島正則の遺骸は、火葬後、京都妙心寺海福院に葬られており、供養墓が正覚院(港区三田)にもあります。

長月 七紀・記

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参考:国史大辞典 福島正則/wikipedia

 




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