前哨戦や戦後処理も含め、一連の戦いをそう呼ぶことが多いのですが、近江(現・滋賀県長浜市)にあった「賤ヶ岳」という場所で決着がついたのが天正11年(1583年)4月21日でした。
それは一体どんな戦いだったのか?
色々と複雑な展開でしたので、理解重視でわかりやすく振り返ってみましょう。
なお、秀吉はこのころ羽柴秀吉を名乗っておりましたが、本サイトでは豊臣秀吉で統一させていただきます。
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秀吉の三法師vs勝家の信孝
話は【本能寺の変】直後に遡ります。
【山崎の戦い】で明智光秀を討ち、織田信長の仇を取った秀吉は、織田家内での立場を急激に強くしました。
※以下は「賤ヶ岳の戦い」関連記事となります
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他の織田家重臣たちにとって、成り上がり者にこんな行動をさせるのは面白くありません。
特に、遠方にいたとはいえ筆頭家老としての責任感と能力を持っていた柴田勝家は、歯噛みするどころの悔しさではなかったでしょう。
そんな中、「今後の織田家をどうするか」という会議が行われます。
三谷幸喜さん映画の舞台にもなった【清洲会議】ですね。
ここで秀吉は
「血統の順からいって、織田信忠(信長の嫡男)様のご子息・三法師様に家督を継いでいただき、我々が守り立てよう」
と言い出しました。
一方、勝家はこうです。
「血統も大事だが、三法師様はまだ幼い。ここは年長の織田信孝(信長の三男)様に継いでいただき、三法師様が成長されてから改めて考えてはどうか」
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どちらも戦国の世にはよくある話で、間違ってはいません。
そしてどちらにも違ったデメリットがありました。
格別な思い入れのある長浜城をアッサリ譲る
幼君・三法師を守り立てるには、家臣や親族に相当の団結力が必須。
一方で信長の長男・織田信忠の系統が跡を継ぐ路線だったのに、別の系統・織田信孝に当主を変える、というのもハレーションが起きるものです。
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しかも、信孝は別の家(神戸家)を継いでおりました。
最終的に他の重臣たちも「信孝様は一度他家へ養子に行かれているので、秀吉殿の言う通りにするのが良いだろう」と意見を擦り寄せ、ここでも勝家は秀吉に後れをとるような形になってしまいました。
この会議では、同時に領地の再分配も行われ「ワタシは山城(京都)をいただくので、今までいた長浜(現・滋賀県)とその周辺を勝家殿に差し上げましょう。もちろん、越前も勝家殿のものです」としており、実現しております。
秀吉にとって、長浜城は初めて手に入れた城。
しかも当時「今浜」と呼ばれていたのを、信長の「長」の字をもらって改名した場所です。
さらに勝家は、信長の妹かつ、元浅井長政の妻であった「お市の方」を妻に娶っております。
織田家の重要人物である彼女を、本能寺の変後に妻にするというのは発言力を強めるために重要です。
ゆえに、この清州会議は【秀吉の一方的な勝利ではなかった】とする見方もあります。
そもそも合戦というのは、両者の力が拮抗してドチラが勝つかわからない――だからこそ勃発するものであり、最初から秀吉が圧倒的有利だったワケじゃなかったと考えた方が良さそうです。そして……。
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