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【賤ヶ岳の戦い】
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秀吉が真っ先に攻め込んだのは他ならぬ長浜城
清州会議の後、それぞれの領地に戻った秀吉と勝家は、周辺地域の大名や他の織田家臣たちを自分になびかせようと動き始めます。
調略&外交活動ではやはり秀吉が一枚上手だったのでしょう。
徐々に形勢は秀吉有利に傾いていきます。
さらに何回かの小競り合い(物理)が起き、秀吉がいつまでも平穏なままで済ませるつもりがないことが明らかになります。
そして清洲会議から約半年後、ついに事態が本格的に動き始めました。
秀吉が、長浜城を攻めたのです。
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元々が自分の城ですから、どこが攻めやすいかなんて重々承知の上だったことは間違いありません。
そもそも、開戦時の足がかりを作るために譲った可能性もありますね。だとしたら恐ろしい……。
長浜城は、勝家の養子・柴田勝豊が守っておりました。
が、秀吉の攻撃を受け、あっけなく降伏。
勝豊は日頃から他の養子と比べて冷遇されていたため、あまり粘る気がなかったのかもしれません。ホント日頃の行いは大事ですわー。
時、折しも冬。
北陸の勝家がすぐには動けないことは十分に計算し尽くしての行動でした。
賤ヶ岳で一進一退のまま睨み合い
しかし、柴田勝家も黙って春を待っていたわけではありません。
まだ雪解けが終わりきらないうちから兵を出し、両者は直接ぶつかり合います。
一ヶ月ほどは一進一退という状況でしたが、ここにきてまたしても秀吉と勝家それぞれの違いが明らかになりました。
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勝家方はいわば織田家の重臣たちの連合ですから、明確な上下関係がありません。
多少顔を立てたり先輩後輩のような意識はあったでしょうが、「勝家に絶対従わなくてはならない」という感覚は薄かったでしょう。そのためか、度々勝家の命令に従わず、独自の判断をする軍もありました。
一方、秀吉方の中核や要所を押さえていたのは、秀吉自身の家臣たちです。
黒田官兵衛やいわゆる【賤ヶ岳の七本槍】ですね。
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なんて話もありますが、その詳細や官兵衛の話は以下の記事に譲りまして。
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ともかく、指揮系統がどれだけ徹底されていたかという点において、秀吉は勝家よりも勝っていたということになります。
それでも事態は膠着し、戦況はなかなか変わらず。
先に動いたのは秀吉でした。
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