1944年、ドイツ支配下のポーランド。
ナチ総督府がクラクフで開いた日本美術展覧会に一人の少年が訪れた。
彼はその展示品に衝撃を覚え、芸術の道に進むことを決意する。
このとき見た膨大な日本美術コレクションとは一体何なのか。
そしてそれはなぜポーランドにあったのか――。
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皆様、ポーランド人というと 誰の名前を思い浮かべます?
ショパン
ベクシンスキー
ヴォイテク伍長(人じゃなくて熊ですね……)
ヨーロッパの中でも馴染みの薄い国だけに幾人も挙げられる方はそう多くないと思いますが、これよりご紹介させていただく美術蒐集家の名前を、ぜひ、今回だけはお持ち帰りいただきたい。
フェリクス・ヤシェンスキ (Feliks Jasieński) ――。
芸術のコレクターにしてパトロン(お金持ち)。
そして、後にフェリクス・マンガ・ヤシェンスキと名乗ってしまうほど、日本のとある“漫画”を熱狂的に愛した超絶親日家でした。
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1861年生誕 この頃ポーランドは3分割されていた
ヤシェンスキは1861年7月、ワルシャワから60km離れた街で、地主の家に生まれました。
当時のポーランドは、以下の3つに分割されていた時代。
プロイセン領(元ポズナン大公国)
オーストリア領(クラクフ大公国)
ポーランド立憲王国
ワルシャワ付近は ロシア支配下の「ポーランド立憲王国」でした。
さすがはおそロシア、この国は「ポーランド」なんて名ばかり状態で、ポーランド語の使用は禁止、民衆蜂起も徹底的に弾圧、首謀者はシベリア送りにされました。
美術界も、学校閉鎖などの様々な圧力が加えられ、芸術家たちは自由な教育を求めて国外(特にパリ)に逃げ出しました。
ヤシェンスキ少年もまた、中等教育終了後すぐに外国へ飛び出します。
そして何箇所かを転々としたのちの1880年代半ば、パリで彼は衝撃的な出会いをします。
3代目豊国、歌川国芳(くによし)、歌川広重、そして葛飾北斎。
彼の人生の分岐点となったのでした。
※以下は国芳と北斎の関連記事となります
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ジャポニスムの風が吹きまくり
1880年代半ばのパリは、ちょうどジャポニスムの風が吹きまくっていた頃でした。
まず1856年頃、エッチング画家のブラックモンが陶磁器の梱包材として使われていた北斎漫画を発見。
その後1880年代に入ると、画家のマネやゴッホを始めとして、多数の画家たちが浮世絵の影響を強く受けた作品を次々に仕上げていきます。
美術商の林忠正がルイ・ゴンスとともに「日本美術」を刊行したのもこの頃です。
同じく日本美術の紹介に大きな役割を果たした人物としてゴンクール兄弟がいます。
彼らの大叔母の客間は、芸術家の会合の場所として使われ、その場所にヤシェンスキもいました。
ヤシェンスキがどこで浮世絵を買い集めたかは明らかになっておりませんが、特に心を鷲掴みにされたのは葛飾北斎と歌川広重で、日本美術への思いをこんな記録に残しています。
「これら二人の芸術家は あたかも卓越した芸術家によって芸術家のために造られたかのような国のすばらしい美を讃える記念碑を打ち建てた。
彼らは過去も未来も 芸術と自然を再現する方法をヨーロッパの芸術家にしらしめることによって19世紀ヨーロッパの風景画に革命をもたらした。
すばらしき国! すばらしき人びと! すばらしき芸術!」
嗚呼、なんて暑苦しい!(褒め言葉)
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