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芸術大好きNASDAPに取り上げられるも
せっかくのヤシェンスキの熱意も、思うようにはポーランド人に伝わらず、日本コレクションは国立博物館に死蔵されてしまいます。
そして、そうこうしているうちに西からヤツらがやって来てしまうのです。
芸術大好きNASDAP、つまりナチスです。
1939年、ナチス政権下のドイツ軍がポーランド侵攻、これにより第二次世界大戦が勃発しました。
ポーランドは独ソ不可侵条約に基づき、ドイツとソ連によって再び分割・占領されてしまいます。
ドイツ占領下地域では、反ドイツ的なポーランド人が弾圧され、ソ連占領下地域では、ポーランドの知識層を大量虐殺したカティンの森事件が“密かに”発生。
1941年になって独ソ戦が始まると、ポーランド全域は一旦ドイツの支配下に組み込まれ、すでにアウシュヴィッツ(現オシフィエンチム)に作られていた強制収容所のガス室が稼働し始めます。
※オスカー・シンドラーの話もこの頃のクラクフからアウシュヴィッツにかけてのもの
この流れの中 ヤシェンスキのコレクションも無事では済みませんでした。
芸術好きで知られるナチスは 高名な浮世絵師達の作品を60作品以上、計515点を奪っていきました。
その中には、ヨーロッパで最も人気のある北斎の「富嶽三十六景」の一部も含まれており、この時以来ヤシェンスキ・コレクションは欠番があるものになったと考えられています。
持ち去られた作品の行方がどうなったのか。今もわかっておりません。
同じような話では、オーストリアのアルト・アウスゼー岩塩坑に保管されていた絵画の話が有名ですが、あの時のように「連合軍に渡すぐらいなら爆破しちまえ!」みたいな流れになっていないコトを願うばかりです。
大国に踏み潰され 再び地図から消えたポーランド。
そしてダメージを受けてしまったヤシェンスキ・コレクション。
彼の思いはもうポーランドの人々には届くことはないのか。全て無駄だったのかー
その名はアンジェイ・ワイダ
そんな最中、1944年クラクフでナチの総督府が開いた日本美術展覧会を一人の少年が訪れました。
レジスタンス組織に身を置く彼は、素性がバレたらタダでは済まない身の上。
それでも絵が大好きだったゆえ、来ずにはいられなかった、生まれて初めての展覧会。
そこで見た浮世絵、北斎・広重に衝撃を覚え、少年は芸術の道に進む決意をします。
その名はアンジェイ・ワイダ。
言わずと知れたポーランド映画界の巨匠です。
一応、ご説明させていただきますと、アンジェイ・ワイダ監督は生涯にわたりポーランドの抵抗運動についての作品を撮り続けた人物です。
ナチス政権下の。
ソ連支配下の。
それでも決して屈することのないポーランド人の姿。
そして彼は、遠いナゾの島国・日本に対して尊敬と愛を伝え続けてくれました。
ポーランド芸術の高揚のために、日本芸術を広めよう――。
ヤシェンスキが心の中で願ったことは、どのくらい叶ったのかはわかりません。
しかし日本文化への愛自体は確実に伝わっていたのです。
次の世代の芸術家たち、そして遠い島国にいる我々日本人にも。
皆さんが今、心に秘めている「これが好き」という思い。
それに対して「こんなことをしていても無駄だ! 理解者などいない!」という思いがよぎった時には、ぜひこの兜を被ったおかしな蒐集家のことを思い出してください。
暑苦しいほどの情熱だけが、時間も国も飛び越えていく。
その真理だけは普遍で不変なのであります。
そして「アナタの知っているポーランド人は?」と聞かれたらぜひとも答えていただきたい。
フェリクス・マンガ・ヤシェンスキ!
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文&漫画:小久ヒロ
※1994年 クラクフにジャパニーズ アート&テクノロジーセンター ”MANGA” がオープンしました。
ワイダ監督主導で作られた博物館でヤシェンスキのコレクションを常設展示するともに 現代日本文化を今も紹介し続けています。
よろしければどうぞ!
【参考】
http://manggha.pl/en/patron