赤松満祐

源平・鎌倉・室町

将軍暗殺に成功しながら滅亡へ追い込まれた赤松満祐~嘉吉の乱後の末路とは?

歴史上の戦いは小説より奇なり。

普通は、敵のトップを討ち取れば勝利になると考えがちですが、必ずしもそうならなかったケースもあり――。

嘉吉元年(1441年)9月10日に亡くなった赤松満祐はまさにそのパターンでした。

「万人恐怖」と恐れられた六代将軍・足利義教を討ち取りながら(嘉吉の乱)、わずか2ヶ月少々で自分が討ち取られてしまったのです。

将軍を自邸に招いてぶった斬る、というタランティーノ映画のようにド派手な暗殺劇から一転。

なぜ赤松満祐は敗死へ追い込まれてしまったのか。

一連の出来事を振り返ってみましょう。

 


まずは六代将軍・義教を確認しましょう

そもそも【嘉吉の乱】とは、

「現職の征夷大将軍が家臣にブッコロされる」

という大事件でした。

もっと具体的に見ますと

「室町幕府の六代将軍・足利義教が暗殺され、後に、その下手人である赤松氏が討伐された」

という話です。

まずは当時の背景として、義教の将軍継承とその前後に起きたことを簡単に確認しておきましょう。

1 鎌倉公方・足利持氏の不満から永享の乱と結城合戦が勃発

2 称光天皇の崩御と後花園天皇の即位に後南朝が不満を抱く(後亀山天皇の皇子小倉宮を担ぐ北畠満雅ら)

3 日本史上初の民衆蜂起・正長の土一揆が発生

4 義教自身による延暦寺の処断

5 義教による公家・武家の粛清

一言で言えば足利義教の厳しい政治政争があり、彼のことを恐れている人は少なくない――そんな状況でした。

※以下は足利義教の事績まとめ記事となります

足利義教
足利義教は“くじ”で決められた将軍だった?万人恐怖と呼ばれた最悪の治世

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義教の就任直後は悪くない関係だった

嘉吉の乱を起こすことになる赤松満祐(みつすけ)は、当時、幕府の長老のような立ち位置にいました。

もともと赤松氏という家柄は、後醍醐天皇の檄に応じて鎌倉幕府討伐に動き、その後、南北朝時代では足利尊氏に仕え、播磨・備前・美作と、いわゆる「四職(ししき)」の地位を得た一族です。

四職とは、侍所の長官である頭人(とうにん)となる四家【赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏】のこと。

室町幕府にとっては、スタート時点からの功臣ですね。

しかし、そんな名門ながら、満祐は「明日は我が身か」と不安を感じておりました。

他の有力な守護大名が数多く粛清されていたのです。

満祐は、自分の背の低さなどからかなり劣等感の強い人物だったと思われ、余計に焦燥していたのかもしれません。

というのも、義教の就任直後の頃は、全然状況が違ったのです

満祐は侍所の頭人として重用され、悪い関係ではなかった。

しかし六代将軍・義教は次第に、実務経験の豊富な満祐を次第に疎んじるようになり、赤松氏の分家筋にあたる赤松貞村(さだむら)を寵愛するようになります。

そのあたりで当時の長老格だった三宝院満済、山名時熙が亡くなり、義教が政治を主導しはじめました。

「じいや達がいなくなった若様が血気にはやり始めた」みたいな感じですね。

 


そして暗殺計画は企てられた

そして永享九年(1437年)。

「公方様は近々、満祐の領地のうち播磨と美作を取り上げるらしい」という噂が流れ始めます。

これはただのデマでした。

が、その三年後、満祐の弟・赤松義雅が義教の不興を買って所領をすべて没収され、その一部が赤松貞村と細川持賢(細川家の分家筋・典厩家の祖/後述する管領・細川持之の弟)に与えられます。

義雅の領地を全部ぶんどって他の人に与えたというわけではありませんし、えこひいきするなら貞村だけに与えただろうと思うのですが……満祐にとっては「特に落ち度のない俺の家を、公方様がめちゃくちゃにしようとしている!」としか思えなかったようです。

同時進行で、他の大名たちへの処断も続いてたからでしょう。

そして満祐は「やられる前にやらなければ!」と思い詰め、嫡子の赤松教康と共に将軍暗殺を計画した……というわけです。

時は嘉吉元年(1441年)、6月24日。

二ヶ月ほど前に終結した【結城合戦】の戦勝祝いとして、満祐は「私の屋敷で猿楽の宴を催したいと思うのですが、公方様に御成りいただけませんか」と、義教を招待しました。

江戸時代にもたびたび出てきますが、将軍が家臣の家に行く「御成り」は、その家にとって名誉なこと。

お偉いさんたちにとっては年間行事みたいなもので、誰も何も疑っていなかったと思われます。

また、「我が家で珍しい鴨の子が生まれたので、泳ぐさまを見にいらしてください」という内容だった説もあります。

鴨は普通、日本では産卵しない(飛来するのは越冬のため)ので、これは専門家の間でもちょっとした謎になっているようです。

「鴨の卵を入手して鶏に温めさせて孵化した」

「実はアヒルだった」

というように様々な推測がされています。

鴨・アヒル・ガチョウは近縁種なので、実際には鴨でなく他の似た鳥だったのかもしれません。

とはいえ、どれも日本で過ごす時期は越冬期で、産卵時期ではないというのは同じですが……。

シナガチョウ(紀元前2000年頃に中国で家禽化されたガチョウ)の雛でも輸入したんですかね。それなら野生よりは多少手に入りやすいでしょう。

 

ざっくり見積もって数十人~百人が赤松邸へ

閑話休題。

さて、将軍のお出かけとなれば、一人で身軽に……とはいきません。

護衛の面々はもちろん、他のお偉いさんもたくさん同行していました。

彼らについても簡単にご紹介しましょう。

【この宴に相伴した人たち】

◆武家

細川持之 管領

畠山持永 河内・紀伊・越中守護

山名持豊 後の宗全、応仁の乱の当事者の一人

一色教親 丹後国・伊勢国(北半分)守護

細川持常 相伴衆、阿波・三河守護

大内持世 周防・長門・豊前・筑前守護

京極高数 山城・出雲・隠岐・飛騨守護

山名熙貴 石見守護

細川持春 伊予国宇摩郡守護

赤松貞村 義教のお気に入り

◆公家
正親町三条実雅 義教の正室・正親町三条尹子の兄

それぞれにお付きがいたでしょうから、この日の赤松邸にはざっくり見積もって数十人~百人以下くらいの客が訪れた、というイメージでいいかと。

この面々が猿楽を鑑賞していたとき、いよいよ満祐の計画が始まりました。

庭に馬が放たれ、門が一斉に閉じられたのです。

「突然馬が暴れだした」という名目で、門を閉ざしたという説もあります。

義教は当然訝しんで「何事か」と叫んだとか。

義兄にあたる実雅は「雷鳴でしょう」とのんきに構えていたそうで、さすが公家というかなんというか。

しかし、悠長にしていられたのも束の間。

直後に隣室から赤松家の武士たちが乱入し、即座に義教の首が刎ねられました。上座にいたでしょうから、狙うのは簡単だったでしょうね。

当然その場は文字通りの血の海となり大混乱です。

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