室町・戦国時代は、現代に繋がる日本文化が数多く生まれました。
その代表格が和風建築だったり歌舞伎だったり、今回のテーマ【茶の湯(侘び茶)】だったり。
外国の方がイメージする「日本らしさ」でも、だいたい「フジヤマ・ゲイシャ・テンプラ」の次くらいに出てきますかね。
この茶の湯が江戸時代に茶道となって今へと続くワケで、今回は起源となる【茶の湯】がどのような経緯で日本で広まったか?確認してみたいと思います。
実は日本史受験なんかでも得点源になるところだったりして、意外と大事なんですよね。
知識の羅列にならぬよう、今回は中国の起源から流れを把握しておきましょう!
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唐で生まれ8世紀には専門書「茶経」も登場
お茶を味わう「喫茶」の習慣は、中国の唐王朝(618~907年)で広まりました。
8世紀頃には、最古となるお茶の専門書『茶経』も記されているほど。
唐以前の時代には、お茶の持つ苦味を緩和させるため、生姜や紫蘇(しそ)など香りのあるものを入れて飲むのが主流だったそうです。
しかし『茶経』で
「それじゃあ、お茶の葉そのものの美味しさが薄れてしまうじゃないか!」
と主張され、それがだんだん広まり、茶葉だけのお茶が主流になりました。
この時期には既に
「眠気を覚ます作用がある」
ということも知られており、禅寺などで修行中の眠気覚ましに使われていたといいます。
カフェインの作用が、千年以上前から経験則で知られていたんですね。
日本での最古の史料は嵯峨天皇
喫茶は、唐の習慣の一つとして、遣唐使を通じて日本へ伝わりました。
命を懸けてまで渡海していた「遣唐使」は何が目的でなぜ廃止されたのか?
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最古の史料では、弘仁六年(815年)に嵯峨天皇が近江へ行幸した際、お寺でお茶を出されて「なんだこれうめえ!」(超訳)と大喜びしたことが記録されています。
そのノリで近畿圏に茶の栽培を始めさせたとか。
近畿でお茶というとやはり京都府宇治市の印象が強いですが、宇治のお茶は鎌倉時代からということですので、もうちょっと後のことです。
実はお茶の習慣は、遣唐使が廃止されて国風文化に切り替わっていった際、徐々に廃れてしまっています。
この時代のお茶は今のような煎茶や抹茶ではなく、団茶でした。
団茶とは、一度粉状にした茶葉を整形し、麹を植え付けて発酵させたものだったので、作るのに手間と時間がかかることも衰退した理由の一つだったでしょう。
日本の気候では湿度が高すぎて、管理が難しかったというのもありそうです。
「お茶は五臓の調和を保つ薬である」
一方、中国では、唐の後に宋王朝が来て、その時代にもお茶が飲まれ続けます。
そして、従来の団茶に加え、抹茶が飲まれるようになっていきました。
さらに南宋の時代になると、都が良茶の産地である臨安(杭州)に移ったことや、その近辺に禅寺が多かったことから、喫茶の風尚は禅僧社会に再度流行します。
やはり眠気覚ましとしての目的が強かったようですが、この頃になると
「お茶は五臓の調和を保つ薬である」
という考え方も出てきています。
「五臓六腑」の五臓であり、肝・心・脾・肺・腎を指しますが、現代の漢方医学の世界でも、似たような意味合いでお茶を勧めることがあるようです。
厳密に言えば、日本の漢方医学は「中国の考えを元にして、日本人の体質に合わせた医学」なんですけども(※中国伝統の医学は「中国医学」、または「中医学」)。
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